山と熊と田んぼしかない限界集落でマタギの嫁になった現代アート作家。豪雪地帯の四季と謎だらけの村を語る【〈ノンフィクション新刊〉よろず帳】
集英社オンライン / 2024年4月25日 19時0分
〈世界の刑務所人口の25パーセントを収監――200万人以上もの人間を塀の中に押し込める、アメリカの司法制度が抱える闇とは【〈ノンフィクション新刊〉よろず帳】〉から続く
ノンフィクション本の新刊をフックに、書評のような顔をして、そうでもないコラムを藤野眞功が綴る〈ノンフィクション新刊〉よろず帳。今回は、保守的どころではなく、超保守派のマタギの嫁となった埼玉県人の現代アート作家が、わずか37人、ほぼ全員が親族かつ同じ苗字の限界集落での暮らしを綴った異色の移住日記『現代アートを続けていたら、いつのまにかマタギの嫁になっていた』(山と渓谷社)を紹介する。
異色の移住日記
これまで、ノンフィクションやカントリー・ライフを扱った本に親しんできた人は、冒頭に収められた豊富なカラー写真に興奮し――山菜入りの熊汁のなんと美味そうなこと――その勢いのまま読み始め、ほどなく戸惑うだろう。
スズキジュンコの名で現代アート作家として活動していた著者が、大滝ジュンコとして上梓した『現代アートを続けていたら、いつのまにかマタギの嫁になっていた――マタギ村・山熊田の四季』(山と渓谷社)である。まるで〈トコロ〉のような叙述のスタイルが困惑を呼ぶのだ【1】。
〈秋にお目見えする「トコロ」という蔓性多年草。黄土色の根茎に無精ヒゲのような細い根がチロチロ生えており、一見すると肌荒れした生姜かウコンだ。ビジュアルがすでにまずそうだ。それが大量に茹でられ、ザルに上げられたままドカンと婆がたの輪の中央に置かれる(…)芋的な何かを想像してかじると、喉が力んだ。すごく苦いのだ。これがうまいのか? みんな、味覚どうかしてないか(…)意地でも良いところを探してやるぞと、もう一口かじる。やっぱり苦い(…)皆が絶賛している理由が全くわからない…とため息が鼻から抜けた途端、驚いた。さつま芋のような甘い香りがする。すると、苦味の奥に甘みが現れた。困惑の後に思ってしまった。あれ? 美味しいかもしれない〉【1】
彼女は現在、新潟県の村上市にある集落、山熊田(やまくまだ)に暮らしている。朝日連峰の山間部に位置し、隣の集落までは約8キロ。スーパーまで、車で30分。37人の住民のうち半数以上が65歳を越えている。
彼女が移住するにいたるきっかけは、〈山川〉なる友人から〈マタギと飲み会しようぜ〉と誘われたからで、その〈山川〉は〈ルポライター〉なのだという。評者はこの時点で引っ掛かってしまった【1】。
この〈山川〉は、『カルピスを作った男』や『国境を越えたスクラム』といった著作を持つ、プロの書き手の山川徹だ。そして大滝と山川は、2018年に刊行された写真集『山熊田』(亀山亮/夕書房)に、ともに原稿を寄せている。にもかかわらず、なぜ〈山川〉をフルネームで書かないのか? 本書はまさに〈トコロ〉である。読み始めると、舌足らずが気になって仕方ない。
マタギとは誰のことか
こうした「書かれない謎」は、すでにタイトルから始まっている。『現代アートを続けていたら、いつのまにかマタギの嫁になっていた』。著者が初めて山熊田を訪れたのは2014年10月【2】、その頃の彼女はマタギについて何も知らなかった。
〈無知は自覚しており、マタギがどういうものであるかさえ知らない。けれど、わからないままも気持ちが悪い。もしもマタギが現代に存在するなら、どんな人々で、どんな暮らしで、どんな人生観なのか〉【1】
彼女は山熊田に通い詰め、約1年後に〈マタギの嫁〉になった。では、マタギとはどんな人々なのか。じつは、その定義は本書には書かれていないのである。たとえば、「現代のマタギ」の取材を広範囲で続けている田中康弘は〈マタギは遥か昔に絶えている〉【3】と言う。
ここで田中が前提としているマタギは、狩猟を生業として山の獣のみで生計を立てていた集団のことだ。そうした集団はすでに存在しないので、それぞれの地域に伝わる伝統的な猟法や呪文を継承して〈おらマタギだ〉【3】という確固たる自意識を保持する者を、田中は「マタギ」と見做している。
マタギの別称ヤマンド
あるいはさらに昔、1980年代に、山熊田と同じ新潟県の集落・三面(みおもて)に通った田口洋美は、自身が著書において三面を〈マタギ集落〉【4】と記したことを、あくまで便宜上の表現だとことわっている。
〈福島県の会津地方や、長野県の北部、新潟県、山形県の一部などではマタギというのはあくまでも秋田の狩人を指す名で、自分達をマタギとはいわない。ヤマドあるいはヤマンド、ヤマビトなどと呼ぶ地域が多い。意味にしてもマタギは狩人のことだけを指していうが、山人は狩人だけでなく樵夫なども含んでいる(…)つまり、正確に表記するならば三面は『山人の集落』とするべきである〉【4】
しかし、本書においては、彼女の夫が〈マタギのキャプテン的存在〉の〈頭領〉であることや〈正面から命の駆け引きを繰り広げて恩恵をいただける、と考えるマタギ精神からすれば、穴熊猟はズルくて、自分たちの信条からズレた手段なのかもしれない〉といったわずかな考察が書かれているだけで、山熊田の人々の何をもってマタギと規定したのか、そのことについては一言も現れない【1】。それは、彼女が継承し、愛して止まない羽越しな布についても同様である。シナノキの樹皮を使った古代布についての話も、ほんのわずかにとどまる。
主役は誰か
ここまで、評者は「書かれていないこと」ばかりを書いてきた。では、不足だらけのこの本はつまらないのかといえば、そうではなく、とても面白い。彼女があえて書かないことによって、本書は逆説的に大切な狙いを達成しているからである。
この本をしみじみ味わうには、どうあっても2度読んでほしい。1周目はストレスが溜まるかもしれないが、その翌日でも翌週でも、再度目を通せば、これまでにない移住日記の世界を体験できるだろう。ではもう1度、頭から。
都会的な暮らしをしていた藝術家が限界集落に移住となると、都市生活や現代アートの軽薄さを強調し、返す刀で田舎暮らしの素晴らしさを描くのが早く、安く、うまい。しかし、彼女はお手軽に敵を作る手法には頼らない。
ドカ雪で停電が起きれば、高圧応急用電源車を手配してくれた役所に感謝し、ウェブを使ったオンライン飲み会も楽しむ。かつて、山熊田から貴重な民具や古道具を安値で買い叩いた民藝運動に対してさえ批判には終始せず、好意的に捉えるための視点をどうにか設定しようと試みる。
彼女は山熊田を創作の材に使い、自分の本に山熊田を従属させるのではなく、集落の一員として、自身の著作を山熊田に仕えさせているのである。
誰のための本か
そのため、この本が真に想定している(であろう)読者はごくわずかだ。将来的に山熊田の住民になりえる者と山熊田の支援者になりえる者、現時点における山熊田の住民と山熊田に関連する人々。
田舎暮らしに興味を持ち、山熊田の住民になりえる読者に対して彼女は問う。あなたは、山熊田に何を差し出せるのか。限界集落だからといって、誰でも歓迎されるわけではないのである。
移住者の先達としてどこまで味方になれるのかも、彼女はあらかじめ示している。ひとつは狩猟。女性も参加できるが、熊巻き狩りだけは女人禁制。〈狩猟ガール〉に対しても、この点は譲歩できないと言明している【1】。一方、〈穢れ〉にまつわる村の習俗については〈「何を大切にしたいのか」の根幹を確保しつつ、身の丈に応じて調整すべき時期になったと思う〉と再考を訴える【1】。
本が描く四季は、夏から始まる。爽やかな夏ではない。約10トンもの丸太を薪にする重労働の夏だ。清流に潜っての鮎かきの章に続くのは、お盆前のもっとも暑い時期におこなう山焼き(焼畑農法)。田舎暮らしはのんびり、ではなく、休みらしい休みを諦めなければならないほどの体力勝負だと分かる。
秋になれば、焼畑で栽培した赤かぶを収穫して漬物をつくり、冬に向けての改修工事。〈トタンやポリカーボネートの波板で家の一階部分をぐるりと囲わなければ、これから始まる積雪の重みで、壁や柱、窓がやられてしまう。車は冬タイヤに履き替え、一冬分の薪を家の中や囲いの内側に積む(…)生きるための仕事に追われるのが晩秋だ〉【1】。
そして2メートルを超える雪が積もる冬には、冬の仕事が待つ。ようやっと春になると〈山も人も爆発だ。待ってはくれないゼンマイなどの山菜採りや田植えに追われる〉【1】。
山熊田の年間のルーティンが要求する身体的な負荷、そして集落を維持するための〈協働〉の詳細を隠すことなく、著者は記す【1】。
渦中であるということ
現在進行形の当事者であること、その立場と自覚を手放さぬよう、この本は大切な道具として扱われている。本書は作品というより、繊細に組み立てられた武器だ。その観点からみれば「書かない判断」はおよそ正しい。
山熊田における〈マタギ〉の定義は分からないが、みずからをマタギだと自覚する者たちがいるのは確かだ。彼らから、まだ学んでいる途中の彼女がその何たるかを語るのは、誠実とはいえない。だから、まだ書かない。
山熊田の歴史や暮らしを繋ぐことが最大の目的であるなら当然、行政も味方につけねばならないだろう。人間関係、政治的利害の調整、商品の流通、金の動き……ありとあらゆる角度に配慮し、その上で、いま唱えるべきことはやんわり主張し、ときには道化のふりもいとわない。この先に唱えるべき事柄については、もっとも効果的な機会を待つ。
彼女はしぶとい藝術家であり、フェアな政治家であり、あっけらかんと楽しむ村人であり、健啖な酒飲みであり、マタギの嫁である。忖度はしばしば非難の的となるが、当事者は口ごもらずにはいられないものだ。
細心の注意を払って執筆された本書には、ただひとりだけ明確な敵が現れる。書かずとも済ませられたはずの事件をあえて記録に残したところに、彼女の強烈な覚悟と責任感が滲んでいる。正体を知りたくば、一読そして再読を。
文/藤野眞功 写真提供/大滝ジュンコ
【1】 〈〉内は、大滝ジュンコ『現代アートを続けていたら、いつのまにかマタギの嫁になっていた』(山と渓谷社)より引用。
【2】 亀山亮『山熊田』(夕書房)を参照。
【3】 〈〉内は、田中康弘『マタギとは山の恵をいただく者なり』(枻出版社)より引用。
【4】〈〉内は、田口洋美『越後三面山人記 マタギの自然観に習う』(農文協)より引用。
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