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西城秀樹のデビュー曲『恋する季節』は先輩のボツ作品だった…楽譜を神棚に飾るほどうれしかった思い出の曲を還暦で払拭したかった心の傷痕

集英社オンライン / 2024年5月16日 11時0分

2018年5月16日に亡くなった歌手の西城秀樹さん。『傷だらけのローラ』『ヤングマン(Y.M.C.A.)』など数々のメガヒット曲を送り出した彼だが、デビュー曲には隠された秘話があった。

【画像】『ワイルドな17才』西城秀樹のファーストアルバム

夜逃げ同然の形で上京した西城秀樹

2015年4月13日。この日還暦を迎えた西城秀樹は、それを記念したアルバム『心響 -KODOU-』をリリースした。

それまでに2度の脳梗塞を乗り越えて復活した西城は、過去のヒット作のセルフカバーに加えて、新曲『蜃気楼』にもトライしている。

この作品は結果的に最後のアルバムになってしまったが、どの曲からもポジティブなチャレンジ精神が感じられて、実に力強い内容に仕上がっている。

意外なことに『心響 -KODOU-』は、1972年3月に発売されたデビュー曲の『恋する季節』から始まっていた……。

まだ少年だった木本龍雄(西城秀樹の本名)が、歌手として成功することを夢見て広島から上京したのは1971年の秋、15歳の高校1年生の時だった。

同郷の出身でロカビリー歌手だった藤本好一にスカウトされた木本少年は、父親の強い反対を振り切るようにして、夜逃げ同然の形で上京してきた。

そこからはヴォイス・トレーナーの先駆者、大本恭敬に師事して厳しい歌のレッスンを受ける一方で、縄跳びなどの運動による体力づくりにも励んだ。

そうした日課が終わったら、3畳にも満たない狭い部屋で寝るだけの日々が続く。

そんな木本少年のもとに、念願のデビュー曲が届いた。

「うれしくて楽譜を神棚にささげ、それこそ一日中歌っていた」

曲名は『恋する季節』。

作詞が麻生たかし、編曲は高田弘、そして作曲を手掛けたのが筒美京平だった。1968年にいしだあゆみの『ブルーライト・ヨコハマ』が大ヒットしたのを機に、筒美京平は歌謡曲の第一線で活躍する、最も勢いのあるヒットメーカーになっていた。

特に1971年に尾崎紀世彦が歌って大ヒットした『また逢う日まで』(作詞/阿久悠、作曲/筒美京平)は、ロックバンドの一員としてドラムを叩いていた木本少年にとって、歌謡曲のイメージを一変させた作品だった。

「うれしくて楽譜を神棚にささげ、それこそ一日中歌っていた。部屋の中より響きが良いので、マンションの階段で大声で歌っていたら、あちこちの部屋のドアが開き、『バカヤロー、メシがまずくなる!』と怒鳴られた。

仕方ないから、屋上で練習を繰り返したが、響かないからつい大声になる。気がつくと、のどから血が出ていた。でも、メロディーは最高だったし、ヒットすることを祈りながら毎日歌い続けた」

しかし、12月の半ばに譜面をもらったのに、1月が過ぎてもレコーディングの日が決まらなかった。

その頃の不安な思いが、著書『誰も知らなかった西城秀樹。』(青志社)にはこのように記されていた。

「だから本当にレコーディングされるとわかったときは、もう天にものぼるような気持だった。1回目はあがってNG。OKが出たときも、『もう一度、歌わせてください』といって歌った」

その後、雑誌の公募で芸名が「西城秀樹」に決まり、キャッチフレーズは「ワイルドな17歳」になった。

こうして1972年3月25日。念願のデビューシングル『恋する季節』が、日本ビクターのRCAレーベルからリリースされた。

「あの歌ね、ホントはぼくのところにきたんだけど…」

身長が高くてルックスがよかったこともあり、業界内での評判は上々だったので、テレビの音楽番組への出演もすぐに決まった。

ところがその収録スタジオでのこと。

元カーナビーツのドラムで、ボーカルを担当していたアイ高野に声を掛けられた。そこで『恋する季節』に関して、思ってもみなかった事実を伝えられたのである。

「あの歌ね、ホントはぼくのところにきたんだけど、気に入らなくてボツにしちゃったんだよ。ハハハ!!」

デビュー曲が先輩バンドマンの”お下がり”だったなんて。少年はポカンと口を開けたままだった。それだけでなく、アイ高野が唄うことを想定して、ファンに喜んでもらえるようにと、粋なアレンジが施されていたことを知る。

サビの終わりで「つぼみなら柔らかく抱きしめよう」と唄った後に、ホーンセクションがメロディーを追いかけるところで、カーナビーツのヒット曲『好きさ好きさ好きさ』の中の一節が流れるのだ。

アレンジも含めて、アイ高野の面影を感じさせるデビュー曲に、西城は一人で悔しさを噛み締めるしかなかった。

さらに『恋する季節』は、ヒットチャートでは最高42位という結果に終わり、新人・西城秀樹にとっては苦い思い出となってしまった。

それから間もなくして、派手な振り付けを取り入れたことで、ヒット曲に恵まれ始めた西城は、一気にトップアイドルの仲間入りを果たしていく。

しかし筒美京平の曲を再び歌う機会はしばらく訪れず、1979年の『勇気があれば』まで待たなければならなかった。

西城はそこから30年以上もの時を経て、病で2度も倒れながら、懸命のリハビリで立ち直り、現役に復帰した。

そして還暦を記念するアルバムを制作する時に、どこか不本意な思いが消えなかったデビュー曲を、「自分の作品」として完成させることに挑んだ。

微かな心の傷痕を、新しいサウンドと歌唱によって、乗り越えるためだったのだろう。

デビュー当時からさまざまな洋楽をカバーして、音楽面で自分の世界を切り拓いてきた実績、大人のシンガーとして重ねた経験、そしてこの曲に対する愛情が、それを可能にしたのだと思う。

西城秀樹は最初から最後まで、歌手であると同時に表現者であったのだ。


文/佐藤剛 編集/TAP the POP サムネイル画像/1972年3月15日発売『恋する季節』(RCA/日本ビクター)より

引用:「のどもと過ぎれば」(産経新聞)、『誰も知らなかった西城秀樹。』(青志社)

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