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Apple社員番号1番の男、野外フェスでポケットマネー約60億円を損失「お金は失ったけどそんなことはたいした問題じゃない」というワケとは

集英社オンライン / 2024年5月28日 17時0分

1982年と83年に開催された伝説の巨大野外フェス『US FESTIVAL』。当時、史上最大規模といわれたこのコンサートの開催には、あの超有名IT企業の男が関わっていた。

【画像】ジョブズじゃない⁉︎ Apple社の社員番号1の男

車で聞いていたラジオからフェス開催を思いつく

もし自分の好きな音楽のアーティストだけを集めて、大規模なライブやコンサートを開けたなら。

会話レベルでも十分楽しそうな妄想だけど、もしそんな夢のようなことを自らの私財を投げ打って本当に実現してしまったら? それはとてつもなくクレイジーで、とんでもなく素敵なことだ。

そのクレイジーな男の名は、スティーヴ・ウォズニアック。

世界中の誰もが知っているApple社の設立メンバーであり(社員番号1番)、1977年のスタート当初から故スティーヴ・ジョブズ(社員番号2番)のよき相棒として、同社の知的良心を担ったエンジニア。



技術力の高さと温厚でユーモア溢れる性格から、有名なお伽噺にちなんで「ウォズの魔法使い」と呼ばれる。

始まりは1981年。前年のApple社の株式公開で1億ドル以上(当時のレートで約200億円以上)にも及ぶ莫大な資産を得ていた30歳のウォズニアック(以下ウォズ)は、車の中でよく聴いていたラジオ局のカントリー音楽がきっかけで、大規模なコンサート開催を企てることを思いつく。

「巨大なパーティにしたかった。みんなで楽しむために……名もない場所で最高のコンサートをやりたくなって」

しかし、エンターテインメントや興行のノウハウを持たないウォズは、「どうやって進めるか最低限のことさえまったく分からなかった」ので、まずはコネのある仲間に相談することにした。

それはピート・エリスをはじめとした協力者の賛同を得ながら、「何が何でも実現させる」という情熱へと変わっていく。このアイデアを気に入ってくれた結婚したばかりの妻には「お金も儲かるから」とつけくわえた。

「あんなことはもう二度とごめんだ」

フェスの運営会社を設立するため、準備金として200万ドルの小切手を仲間に手渡した2週間後。ウォズは1969年に開催された伝説的なウッドストック・フェスティバルに関する本を開いてみた。

そこにはスタッフの確保、数十万人を収容する必要がある広大な場所探し、気まぐれなアーティストサイドとの交渉、面倒な広報の件。さらには想像以上の費用が掛かること、そして絶対的に儲からない件……のちにウォズ自身が直面することになる出来事が書きつらねてあった。

ページをめくるにつれ、自分が今どれだけ大変なことに手を出してしまったか、思わず息をのんで後悔したという。

しかも助けを求めた当時の関係者からは、「あんなことはもう二度とごめんだ」と断られる始末。一人で好きなようにできるコンピュータの設計世界との違いを痛感した。

「あの本を先に読んでいたら、あんなことは絶対にやろうとは思わなかった(笑)。でも僕らは何とかやり遂げた。お金は僕が出した。僕は仲間を信じていた。やるって決めんたんだ。いったんやるって言ったら放り出しちゃいけない。逃げたりしない」

 こうしたウォズの粘り強いエンジニアとしての美学に助けられながら、大物プロモーターのビル・グラハムも巻き込んで史上最大規模のロックフェスとなった『US FESTIVAL』(アース・フェスティバル)は、カリフォルニア州サンバーナーディーノの広大な面積を誇る郡立公園を会場にして開催された(1982年9月と1983年5月末〜の2回)。

ヴァン・ヘイレンのギャラは150万ドル(当時約3億6千万円)

“To combine Music, Technology & People”がテーマだったこのフェスは、「私たち(US)は歌で結束しよう!」という想いから名付けられた。フェスの関係者曰く「営利目的のイベントって雰囲気は全然しなかった」

スポンサー広告を排除したクールな装飾(なぜならウォズ個人が唯一の資金源だったからだ)、最新のサウンドシステム、巨大なステージ設営やヴィジョン設置(現在のフェスの原型)。

会場には湖もあり、キャンプもできる。飲食の売店やトイレの設備をはじめ、警備は3000人にも及び、暑さ対策までもスプリンクラーを何基も用意して拘った。コンピュータの部品を展示するテクノロジーフェアの一角は、ウォズのエンジニアとしてのプライドだったのかもしれない。

そして何よりも豪華な出演アーティストのラインナップは、地元の若者たちへのアンケートやヒアリングで決めたという。

1983年では、トリで登場したヴァン・ヘイレンのギャラは150万ドル(当時約3億6千万円)でギネス記録にもなった。ウォズは自らが史上最高額のギャラを払ってしまったことを、後になってから気付いたらしい。

 さらにはMTVでフェスの模様を生番組として放映し(83年の模様は日本でも特番で放送されたほど話題になった)、衛星放送で当時最悪な冷戦関係にあったアメリカ合衆国とソビエト連邦が中継で結ばれるという画期的なことも成し遂げた。

「素晴らしいショーを生み出すっていうのは、最高に大事なことなんだ!」

結果的にウォズは、1982年には3日間で約50万人を動員しながらも1200万ドル(当時約29億円)を損失。

翌83年は2000万ドル以上(当時約50億円)の費用を負担(現金を積んだトラックは会場近くの丘の上で武装警備員に見張られていたという話もある)。4日間のイベントで約67万人を動員し、20ドルのチケットが飛ぶように売れたにも関わらず、またしても1200万ドルを失った。

しかし、そんなことは彼にはどうでもよかった。富に対して下品な執着はなかった。

「大成功だった。お金は失ったけど、そんなことはたいした問題じゃない。大事なのは、たくさんの人があそこで楽しい時間を持てたことだよ」

ウォズはスクーターで会場を走りながら、人々が楽しむ様子を嬉しそうに眺めていた。82年には開催前日に妻が出産。初日は生まれたばかりの赤ん坊を抱いてステージに上がった。

何十万もの人々が歓声を上げて祝ってくれた。あの瞬間を一生忘れないと、ウォズは振り返る。彼のもとには、『US FESTIVAL』が人生最高のコンサートだったと言う手紙やメールが今でも届く。

「僕にとってもあれは人生最高の時だった。お金を儲けたり損したりする……それも大事なことだ。でも素晴らしいショーを生み出すっていうのは、最高に大事なことなんだ!」

日本のIT長者もこれくらい洒落たことやってくれたら。もちろん損失覚悟をお忘れなく。

文/中野充浩、TAP the POP 写真/shutterstock
*参考・引用文献『ウォズニアック自伝』(ダイヤモンド社)

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