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〈ギャラクシー賞奨励賞受賞〉放送局の幹部までもが「ニュースなんていらない!」「稼げるコンテンツを探せ!」と発言する時代に、「記者たち」の今と未来を見据える

集英社オンライン / 2024年5月31日 17時0分

新聞の発行部数はこの1年で過去最大の減少率となり、今や現役の社会科教諭や大学のメディア学科の学生たちですら新聞を読まなくなったという。だが、そんな時代にも、隠された情報を掘り起こし、理不尽なことと真正面から闘って、記者本来の仕事から撤退しない人たちがいる。このたびギャラクシー賞奨励賞を受賞した「記者たち~多数になびく社会のなかで~」を手がけた毎日放送報道情報局ディレクター、斉加尚代氏が寄稿する。

「自分の中での客観報道や表現の自由は、全部方便だったわけですよ」と語った神奈川新聞の石橋記者

「アホでも大酒が飲める男性記者のほうが女性記者よりネタがとれる」

ここまで35年、「石にかじりついても」の心境だったと言っても信じてはもらえないだろうか。在阪放送局で記者になり、「女はすぐ辞める」と陰口を叩かれつつも、「定年まで辞めないぞ」と走ってきた。



男女雇用機会均等法1期生なのだから仕事も子育ても、そして決して後進の道を閉ざさないようにと肩ひじを張ったころの自分が懐かしい。

昼夜を問わず24時間スタンバイが1990年代当時の報道記者の常識だった。夜討ち朝駆け取材もするし、相手の懐に飛び込んで杯を交わし、情報を得るのも流儀のひとつ。下戸の私は言われたものだ。

「アホでも大酒が飲める男性記者のほうが女性記者よりネタがとれる」

これは新聞社の大阪府警担当キャップの発言だが、当時の本音であっただろう。

ジェンダーの視点に立てば、なんと理不尽なマッチョイズムの業界かと感じることも多くあったが、私にとって取材を重ねた末に出逢えたドキュメンタリーの制作は、職人気質を傾けることのできる、かけがえのないものになっていった。

新人のとき「打たれ強くなる」と社報の目標に書いたのだが、その後、想像以上に打たれ続けて、番組制作のためであれば、向こう傷でも何でも構わない、と腹をくくれるほどになった。そうこうしていくうちに女性記者や女性ディレクターも珍しくなくなった。

ところがいま、男女を問わず記者が辞めてゆく。SNSの普及で記者を取り巻く環境は激変した。

日本新聞協会によれば、新聞発行部数は、この1年で225万部余り減った。過去最大の減少率という。現役の社会科教諭ですら新聞を読まない、そう旧知の教員たちの嘆きが耳に入る。大学のメディア学科の学生たちはスマホからほぼ情報を得ている。

さらに放送局の幹部まで「ニュースなんていらない!」と恥ずかしげもなく発言する。すべからくビジネスであり、「稼げるコンテンツを探せ!」というのだ。だからこそ今、メディアについて、報道とは何かについて立ち止まって考えてほしい。

そんな思いで企画し、今年3月放送したのが「映像’24 記者たち 多数になびく社会のなかで」である。琉球新報の明(あきら)真南斗さん(33)、元毎日新聞の小山美砂さん(29)、神奈川新聞の石橋学さん(53)の3人の記者たちを中心にその仕事ぶりを追いかけた(https://dizm.mbs.jp/program/eizou_series)。

記者とは、どういう存在なのかを問い直したい。このテーマは自分の反省も避けて通れず、苦しかった。一方で記者という仕事の素晴らしさをあらためて実感することになった。

番組が第61回ギャラクシー賞奨励賞に選ばれたのは、惜しみなく取材現場をさらけ出してくれた記者たちの誠実さによるものだ。

「辺野古のジュゴンってさ、本当はいないでしょ、あはは(笑)」

彼らの共通項をひとつ挙げるとすれば、「当事者」になることを恐れない姿勢だと思う。それはマッチョなふるまいとは違い、人間としての優しさに根差している。

それぞれに目指したい未来があり、不当な差別や偏見、不条理を社会からなくそうと記事を放つ。

単なる両論併記ではなく、見せかけの中立性に陥るでもなく、根源的に構造を問うものだ。記者たちは組織の枠を越えて動こうと決意し、最前線で踏ん張っている。

驚天動地と言えるような出来事は、日常的に静かに進行する。たとえば、防衛省を担当する明記者を取材するなか、記者クラブ制度という特権に胡坐をかく大手メディア記者たちを繰り返し目撃した。

2024年1月10日、沖縄県名護市辺野古の軟弱地盤が問題となっている大浦湾側の海域で、沖縄県の行政権限を奪う「代執行」の手続きに基づく工事が始まった。

木原稔防衛大臣は、退庁時に囲み取材を受けることになった。沖縄県民は選挙や県民投票で繰り返し辺野古埋め立てに反対する民意を示し続けている。

だが、地盤の最も深い地点には改良工事の杭が届かないという致命的欠陥を押し切り、米軍のために巨額の血税を投入する埋め立て工事が進む。

沖縄県は公式ホームページにこの海域について次のように記している。

「辺野古・大浦湾周辺の海域は、ジュゴンをはじめとする絶滅危惧種262種を含む5,300種以上の生物が確認され、生物種の数は国内の世界自然遺産地域を上回るもので、子や孫に誇りある豊かな自然を残すことは我々の責任です」

貴重な自然破壊にも繋がるこの工事着手の日。1階で大臣を待つ防衛省クラブ加盟記者の発言には驚いた。

「辺野古のジュゴンってさ、ネス湖のネッシーみたいなもんじゃないの。本当はいないでしょ、あはは(笑)」

ねつ造が明らかになっている架空の生き物ネッシーと絶滅の恐れのあるジュゴンを同列に扱って嘲笑する記者の愚かしさ。

「ジュゴンは現在も生息」と研究論文が一面記事になるほど沖縄では関心が高いが、防衛省のフロアでデマに基づく暴言をたしなめる他の記者は一人もいない。一緒に笑いあっている。これは沖縄ヘイトにあたるのではないか。
 

基地の過重負担を押し付ける日本政府とその国策を容認して暮らす多数派の国民。沖縄県民との深刻な不均衡に加え、戦後の歴史や加害性を記者が全く意識していない。

そばにいた明さんは自分の質問を推敲するのに集中していて聞こえなかったという。この嘲笑のすぐ後、明さんは、大臣に問いただした。

「玉城デニー知事は、この事業について先ほどの会見で、沖縄の苦難の歴史にいっそうの苦難を加えるというふうに県庁のほうでご発言をされていたんですがー」

木原大臣は「普天間飛行場の1日も早い全面返還を実現するための共通認識」などと答えをはぐらかすも、沖縄2紙以外から質問はでない。

大臣が車で去ってゆくのを玄関で見送る多数の記者たち。異様な光景だ。記者が大臣のしもべに見えた。当局と同化する記者クラブ制度の怖さを感じたのだった。

偽の「中立神話」の弊害

TVerでも全国配信された番組だったが、防衛省担当の記者たちは、明さんに対し正面切って何も言わなかったという。

酒席で言ってきた記憶もない。意外にも現場を知る自衛官たちは、知らせてもいないのに明さんにいろいろ感想を述べてきたそうだ。

琉球新報は防衛政策に厳しい論陣を張る。明さんが執筆する記事も批判的なものがほとんどだ。それでも人間同士やり取りができる。

立場は違えど芯があるからこそ信頼しあえるのだろう。これが本来の記者の姿ではないだろうか。

権力におもねる記者たちは職責を忘れていると言わざるを得ない。いずこもクラブに常駐する記者たちは統制される危険と隣り合わせだ。

あの日から「泥水につかりながら染まらないようにしている」と語っていた明さんの真意を理解し、記者が記者であり続けることにも特別な踏ん張りが必要なのだと痛感するのだった。

最近、「ニュースなんて見たくない」という声もよく聞く。現実を直視して暗い気持ちになりたくない心理的傾向とシンクロする。

確かにむごたらしい戦争には目を覆いたくなる。時代に斬りこむジャーナリズムは、強く闘える者たちの世界と感じることすらある。

だが、暮らしの中で苦しんでいる当事者たちは、現実を違った角度から直視することで「癒し」を得られるという。ドキュメンタリー制作を通して教えられたことだ。

差別やヘイトを正面から問題視する言論によって「すっきりする」「癒される」と語る人たちがいる。

当初、崖っぷちに立つ当事者が語るこの「癒される」という感覚が分からなかった。他者から提示されることで、自身のもやもやが少し晴れ、心の居場所が見つかるというのだ。

私がおもに取材してきた教育現場でも同様に、苦しみの原因が露わに描かれることで回復に向けた希望を感じる、あるいは勇気をもらえたと語る人たちが多くいる。

考えてみれば、見たくないと回避できるのは、無関心でいられる層である。その無関心な人びとの想像力にどう働きかけるかがメディアに問われている課題だろう。

極めて残念なのは、この国は実のある主権者教育をせずにきた。ある意味、社会や政治に対し無関心を是としてきた。政治的中立性とは、政治にモノを言わないことだと信じこまされている。

公立学校で教員たちが自由に意見する土壌も薄れている。記者も教員も「中立神話」の空気に覆われる、その偽の「中立」の弊害が見過ごせない。

黙らずに、正当に意見表明しただけで文書訓告の処分が下されるという事態すらある。大阪市立小学校元校長の久保敬さんは、外国特派員協会(FCCJ)の会見(https://www.youtube.com/watch?v=sA4RLHZgHDo)で、「モノを言わない」「黙って従う」ことが現代版の愛国教育だと警鐘を鳴らした。

偽物の「中立」に捉われるあまり、社会を語らない社会科教員が登場していると聞く。自分たちが社会の一員であり、社会を変えていく主体なのだという意識が持てないのだ。

政治不信が高まっても、その政治にNOを突きつける民意が勢いづかないのは、自分たちの主権を信じていないからではないか。

「自分の中での客観報道や表現の自由は、全部方便だった」

いっぽう、政治に対する諦めとは対照的に自己犠牲をもてはやす流れがある。特攻隊や乙女たちの殉死を美談として広めたい人たちが存在する。

戦場はグロテスクで残酷だが、涙を誘うストーリーは国民感情の動員に役立つ。他者の人生を自分の道具と考える政治指導者にとってこれが都合よい。他国の脅威を声高に唱え、「一戦を交える覚悟」などと煽る政治家たちは、自己犠牲こそ愛国行為だと称賛するだろう。

今年、初めて合格した令和書籍の中学歴史教科書も想像した通り、殉国美談のコラムが目立つ。たとえば、1945年の玉音放送後も樺太の地で電話交換手の女性たちが業務を続けて自決に追い込まれた真岡郵便電子局の悲劇だ。

東日本大震災の時、南三陸町の女性職員が庁内の防災無線で避難を呼びかけて命を落とした献身的行為と結び付けて記述する。いずれも逃げ遅れた背景は棚上げされている。

日本軍や行政機関の責任から目を背ける忘却でもあり、新たな戦争に利用されやすい国民作りにも繋がる。

人間の弱さとつきあわなければならない――「記者たち」を制作して改めてつよく思う。石橋学記者はインタビューで内心をこう振り返った。

「自分の中での客観報道や表現の自由は、全部方便だったわけですよ。やりすごせている自分、さして考えずに、やりすごせる自分、これこそが差別の構造なんだ」

在日コリアンの母と日本人の父を両親に持つ少年が自分の地域を襲うヘイトデモに苦しんでいると気づいた石橋さんは記事の書き方を思い切って変えてゆく。

「書くことで守る」と少年に伝えた彼の姿に流れる以下のナレーションは、私自身も感じてきた絶望と希望の中から生まれたものだ。

「無関心にすぎゆく日常にこそ、絶望は生まれます。そんな日常の暗がりに光を当て、書くことで検証し、社会の仕組みを変えようと本気になる記者たちに向けられる一筋の希望」

直視することが癒しになる、そう語ってくれた人たちの切なる思い。弱さを知るからこそ誠実な取材があり、より良い社会を目指すのが記者なのだ。石橋さんは最後こう語ってくれた。

「ヘイトスピーチに晒されている人たちを目の前にして僕らの仕事は、命がかかっている仕事だと実感しています。

今を生きる人たちもそうだけれど、ここで歯止めがかからなければ、差別が広がり、ヘイトクライムが広がり、それは歴史が示しているように、侵略、戦争というものに繋がっていきますよね。未来の子供たちを守るためにも僕らの仕事はあるんだと感じています」

「ニュースの数値化は恥ずかしい」という文化はもはや風前の灯火

一筋の希望になりえる記者たちだが、意に反して離脱するケースも少なくない。その責任感と使命感ゆえに「体を壊す」「心を壊す」、さらに「家庭を壊す」と3つのリスクを抱えていると、先輩たちの働きぶりを知る30代の明さんは指摘していた。

とりわけ米軍基地の存在が常態化し、米兵や戦闘機によるトラブルが頻繁に起こる沖縄の記者は、海外の紛争地で取材する記者と同じストレスに晒されると言われる。

広島を拠点とする小山美砂さんも毎日新聞社を退社した理由は、心のバランスを崩したことが一つのきっかけだったと語ってくれていた。

こうした何かの犠牲の上にあるのも時代錯誤である。明さんは忙しくても、家族の誕生日や行事のために休暇をとっていた。それを知って私は思わず落涙した。

沖縄戦の延長線上にある基地被害のダメージを抱えている家族をケアすることを忘れていない。忙しくても家族をケアしてやまない彼に新しい記者像を見た思いがした。

妻の有希子さんは、沖縄戦で孤児になった祖父の苦難に満ちた人生が頭から離れない。米軍に全ての家族を奪われながらも、米軍に関わる下請け仕事などで生計を立てるしかなかった祖父。

さらに自分の子どもが通う保育園の屋根に米軍機の部品が落下。危険を回避できないことに心かき乱される。世代をまたいで基地被害は続く。

戦争体験者の頭上を米軍機は飛び続け、日本政府は子どもたちを守らない。主権は米軍にあるのか。軍用機の騒音に悩まされない東京に引っ越し、小学生の娘は静かな空を見上げ、「インチキな空」と口にした。

沖縄に米軍基地を押し付けて穏やかな空が保たれている構造の「インチキ」さを見抜いたのだ。自衛隊駐屯地が去年開設された石垣島の小学生は、平和を考える授業の中で、「平和とは、公平であること」と作文した。南西諸島への自衛隊ミサイル基地のさらなる押し付けという「不公平」を言い当てたのだ。

記者がいる職場はいま、人手不足が深刻だ。忙しさのあまりアドレナリンの高まりに身をゆだねる毎日では消耗してしまう。

そうすると、スムーズに物事が運ぶことを優先して流される思考停止のパターンに陥る。問題を解決するのではなく、問題から逃れる道へと進んでいきかねない。

放送局であれば、目先の視聴率を追いかけて満足してしまう。ページビュー数を稼げたと記事を数値評価し、記者の人事評価までしてマネタイズに走る。

ニュースの数値化は恥ずかしいという文化は風前の灯火だ。命にかかわることも札束で計算してしまう。そんなビジネス論理を追求すればするほど、争いごとや戦争へ社会はじりじりと引きずり込まれるだろう。

人を殺傷する武器も魂を殺すヘイト本も稼ぐツールになるのだ。

助け合い、支え合いで成り立つ、市場の側面とは違う人間らしい理性の働く社会を劣化させるほうへ傾く鈍さに気持ちがふさぐが、怒りと悲しみでもだえそうになっても記者に希望を託し、未来への光を見出す人たちがいることも知っている。

私自身は、やり切ったのだろうかー。漫画「ベルサイユのばら」に魅了され、子ども心に働く女性に憧れた時代から半世紀余りが過ぎた。

ひとまず目標の「定年まで働く」はたどり着きそうだが、「やり切った」とも思えない。その先にはさらなる世界が待っている。

かじりついた石は、とっくに擦り減って、この手から離れていたのかもしれない。いや、確かに大きな石はあったし、今もなくなってはいない。

芯となるその石を手に持った人たちと素晴らしい出逢いを繰り返してきた。深く感謝している。それは仲間だけでなく市井の小さな声の人びとであることが多かった。

「石にかじりついてもー」、そんな気持ちにさせてくれたジャーナリズムの拠点はいつでも作れると信じている。誰一人犠牲にさせないぞと誓い、個人を大切に尊重する社会の仕組みを強固なものにしてゆきたい。   

文/斉加尚代

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