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無類のゲーム好きだったマイケル・ジャクソンが唯一残したビデオゲーム『マイケル・ジャクソンズ ムーンウォーカー』開発秘話「居るだけでオーラが見える人でした」【死後15年】

集英社オンライン / 2024年6月25日 11時0分

2009年6月25日。「KING OF POP」と称されたマイケル・ジャクソンがこの世を去った。あれから15年。生前マイケルが企画から携わった唯一のビデオゲーム『マイケル・ジャクソンズ ムーンウォーカー』のゲーム開発を行った元セガの鶴見六百(つるみ・ろっぴゃく)氏に、マイケルとの交流秘話を聞いた。

【画像多数】ゲームをプレイするマイケル・ジャクソンの貴重な姿

マイケル・ジャクソンは無類のゲーム好きだった?

2009年6月25日。ロサンゼルスのビバリーヒルズに近いホルムビーヒルズから911コールがあり、12時26分に救急隊が現場へ到着するも、「KING OF POP」と称されたマイケル・ジャクソンは、すでに心肺停止、呼吸停止状態だった。



UCLA附属病院に緊急搬送し、蘇生を試みるが、14時28分に死亡確認。世界のミュージックシーンを席捲し、多くの人々に愛されたマイケルは、50歳という若さで還らぬ人となった。マイケルの死因は麻酔薬「プロポフォール」の人為的な投与と一説には言われており、その死については、今なお謎が多い。そんな衝撃の死から今年で15年になる。

マイケルの音楽シーンにおける活動やその功績に関して、今さら多くを語る必要はないだろう。一方でマイケルがビデオゲームを愛したことはあまり知られていない。

本記事では、ゲームを愛したマイケルが人生で唯一企画立案したゲーム『マイケル・ジャクソンズ ムーンウォーカー』(※)の開発にまつわるエピソードを紹介したい。

(※)セガとマイケル・ジャクソンのコラボは、後に1993年に導入された大型ライドマシンAS-1のナビゲーターとして映像で登場している。また『マイケル・ジャクソンズ ムーンウォーカー』は海外ではパソコン版も発売された

マイケルとセガの蜜月関係の背景

『マイケル・ジャクソンズ ムーンウォーカー』の開発は株式会社セガ・エンタープライゼス(現在の株式会社SEGA)とマイケル・ジャクソンとの交流がベースにあった。

当時を知る人が少なくなる中で、断言はできないが、マイケルが「KING OF POP」としてミュージックシーンに君臨し、カリフォルニア州サンタバーバラ郊外に築いたプライベート遊園地「ネバーランド」に大型のゲームマシンを購入、収集したことがきっかけだと思われる。

セガからは大型体感ゲームの『バーチャレーシング』、『マンクスTT スーパーバイク』、『R360』などを購入したと言われており、両者の関係性が育まれていった。新作ゲームが出るとマイケルに欠かさずプレゼントしたり、マイケルが「バッド・ワールド・ツアー」などジャパンツアーで来日した際には、セガ本社やアミューズメント施設を見学したりして、良好な関係が続いた。

しかし、マイケルの死後、ネバーランドにあったゲーム筐体は競売にかけられ、それらは散逸してしまった。

すべてはA4一枚の企画素案から始まった

マイケルとセガの交流が続く中、セガ上層部から、「マイケルでアーケード(業務)用ビデオゲーム企画はどうだ?」という打診が現場にあった。

その打診を受けたのが、今回取材を行った鶴見六百氏である。鶴見氏によれば、上長からの打診は極めてラフなものだったそうだ。それを聞いた鶴見氏は「マイケルの楽曲は『スリラー』やそのミュージックビデオを観たくらいで、あまり興味がなく、あいまいな対応をした」という。

しかし、A4ペラ紙1枚の素案をもとに立ち上がったマイケル・ジャクソン・ゲーム・プロジェクトに、鶴見氏は正式にアサインされた。

鶴見氏は早稲田大学理工学部を卒業後、1989年にセガに入社。『マイケル・ジャクソンズ ムーンウォーカー』の導入が1990年であり、その間はわずか1年。新人ながら、世界的なアーティストをフィーチャーしたゲーム開発にアサインされたことに驚いたという。

A4ペラ1枚の企画書は、鶴見氏の先輩で、1987年に大ヒットを記録したアーケードゲーム『忍-SHINOBI-』を開発した菅野豊氏が作成したもの。それまでに例のない、ダンスをフィーチャーしたアクションゲーム企画だった。

開発チームは鶴見氏をはじめ、ほぼ全員が新人。当時のセガはゲーム研究開発には惜しみなく予算と人材を投入した。新人を起用した実験的な作品も多く、優秀なプランナー、プロデューサー、プログラマー、デザイナーを数多く輩出した。

新人チームの悪戦苦闘と“Mr. Jackson says……”

鶴見氏によれば、マイケルを起用したゲームは、ピンとこなかったようで、「マイケルでゲームを作るならば、最新のテクノロジーを使ったセガお得意の新発明に近い体感ゲームがいいのではないか」と思ったそうだ。

しかし、渡されたA4ペラ1枚の企画書は、プレイヤーは斜め上からの視点で、画面上のマイケルをトラックボールで操作して、敵を倒していくものだった。

鶴見氏は「企画書に『忍─SHINOBI─』の要素を取り入れて開発していきました。ただ、みんな新人なので、本当にこれでいいのか……という疑問だらけでした。開発中盤をすぎたころにはベテラン開発者も参加し、徐々にゲームとして出来上がっていきました」と当時の状況を振り返る。

また、マイケルへのゲーム開発進捗レポートも鶴見氏に任された仕事で、辞書を片手にイメージ画像やビデオを添えて作成していった。それらはセガ・オブ・アメリカ(セガのアメリカ本社)を経由してやり取りされ、鶴見氏がレポートを送るとマイケルから必ずレスポンスがあった。

「そのレターの書き出しは『Mr. Jackson says……』となっていました。『とってもいいけど、こうしたらどうだろうか?』や、『自分だったらこう思うが、開発メンバーはどうか? 開発メンバーの意向を尊重したい』という表現で、常に私たち開発者に配慮したレスポンスだったことに驚きました。

なぜなら、マイケルくらいのスーパースターであれば、自身の感性を貫いても不思議ではないですから。あとマイケルに言われて記憶に残っているのは、『敵は殺さない、浄化するんだ』という表現です。愛にあふれた人でした」

マイケルのクリエイターマインドに感服

鶴見氏は、セガに来訪したマイケルを社内案内し、当時の新作ゲームを2人でプレイしたことが、ずっと思い出の中にあるという。

2009年6月25日、マイケルの訃報を聞いたとき、鶴見氏はすでにセガを退職して、ソニーコンピュータエンタテインメント(現在のソニーインタラクティブエンタテインメント)に転職していた。

同年に公開された映画『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』を観て、改めてマイケルのクリエイターとしてのすばらしさを感じたという。

「あの映画のマイケルこそが、僕の知っているマイケルなんです。映画のなかのマイケルは、ライブやミュージックビデオで観るエンターテイナーじゃなくて、完璧なステージを作るためにチームと意見を出し合って、メンバーをリスペクトし、でも、譲れない部分は譲れないというクリエイターとプロデューサーの両面を兼ね備えた人物でした。
思い返すと当時、新人だらけのセガの開発メンバーに対しても分け隔てなく接してくださったことを再認識したんです」

マイケルと2人でゲームをプレイしたときに話した内容は緊張しすぎて、今はもう覚えていないそうだが……

「世界的なスーパースターが目を輝かしてゲームで遊んで喜んでいること、そのためにわざわざセガに来てくれたことがとてもうれしかったです。居るだけでオーラが見える人でした。僕も今では、すっかりマイケルの大ファンです(笑)」

今なお多くの人を魅了してやまないマイケル・ジャクソン。その音楽性のみならず、人間性すらも垣間見えるゲーム作りの現場だった。



取材・文・写真/黒川文雄
写真協力/John Harrison 出展/セガ社内報Harmony ©SEGA

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