麻婆豆腐はなぜ、ここまで日本の食卓に定着したのか? 1959年料理番組で初めて「マポドウフ」と紹介された四川料理が“テレビの申し子”といえる所以
集英社オンライン / 2024年6月13日 17時0分
〈なぜレモンはいまだに「ビタミンCの王者」と誤解されているのか? 日本人の“レモン神話”を支える「苦痛信仰」〉から続く
麻婆豆腐――刺激的な辛さが持ち味の四川料理でありながら、ここまで日本の食卓に溶け込んだ料理はなかなかほかにはない。その背景にはメーカーのCM戦略があった。
世相とともに揺れ動いてきた日本人の味の嗜好に迫った「味なニッポン戦後史」より一部を抜粋、編集してお届けする。
麻婆豆腐を伝えたテレビ発の料理家
異国からやってきた辛い料理といえば、まずカレーが思い浮かぶ。イギリスを経由して明治から大正にかけて普及した、今や誰もが認める日本の国民食である。ただ、カレーはトウガラシが主役というより、ミックススパイスであるカレー粉が受け入れられたフシがある。
トウガラシが料理にがっつり入り込んでくるきっかけとなった料理は何だろうか。探してたどり着いたのが、戦後に家庭料理として根づいた麻婆豆腐だ。刺激的な辛さが持ち味の四川料理でありながら、ここまで日本の食卓に溶け込んだ料理はほかにないだろう。
背景として考えられるのは、1950年代に中国料理が幅広い層へ浸透したことだ。戦前に中国料理店といえば、広東や福建などの料理を出す高級店が中心だった。
しかし戦後、引き揚げ者が餃子を出す店を始めるなど、安価でボリュームのあるメニューが人気を博した。また、中国の内戦を逃れて日本へ渡ってきた人々によって、中国各地の料理が紹介されるようになったことも大きい。
麻婆豆腐をお茶の間に広めた最大の功労者は、当時急速に普及していたテレビだった。
四川飯店の創業者で、陳建一の父として知られる陳建民が最初にNHK『きょうの料理』で紹介したという記述をたまに見かけるが、これは事実と異なる。初めて麻婆豆腐を披露したのは中国出身の料理研究家、王馬熙純である。
『きょうの料理』の放送開始から2年後の1959年(昭和34)11月4日放送で、王馬は「中華風豆腐料理二種」のうちの一品として紹介した。
そのときの番組テキストをみると、「マポドウフ」とフリガナがふられ、「ひき肉と豆腐の唐がらしいため」と説明が書き添えられている。
レシピでは、本場四川でよく使われる牛ひき肉の代わりに安価な豚ひき肉を使い、豆板醬をみそとトウガラシで代用し、つくりやすいように工夫されていた。今でこそ家庭でも豆板醬を使うが、その点を除けば今つくられているレシピとほぼ変わりない。
王馬は、その前年に刊行した『中国料理』(柴田書店)でもすでに麻婆豆腐を紹介していた。茹でたり揚げたりした材料をスープで煮こみ、片栗粉でとろみをつけた「燴」の一品として取りあげ、「家庭の惣菜に向く、手軽に出来る即席料理」で、ご飯に合うと勧めている。
今でこそ彼女を知る人は少なくなっているが、テレビ黎明期に中国料理を伝えた功労者の一人である。当時は、ほかに張掌珠、沈朱和といった中国料理を担当する看板講師がいた。
みな裕福な家庭の妻であり、その憧れも相まって、中国料理のイメージアップにつながった。しかもこの3人はみな、麻婆豆腐を紹介している(張は1961年6月13日、沈は1964年5月26日)。それだけ反響の大きかった料理だったということだろう。
では陳建民が、麻婆豆腐で番組に出演したのはいつだろうか。
陳建民著『さすらいの麻婆豆腐』(平凡社、1988年)や陳建一著『ぼくの父、陳建民』(大和書房、1999年)では、昭和34年にNHKの番組に出たと記されている。
しかし先に述べたように、同年に初めて麻婆豆腐を紹介したのは王馬熙純である。番組テキストをすべて確認したが、陳建民が登場した形跡はない。
答えは、番組の制作に長年携わってきた河村明子による『テレビ料理人列伝』(日本放送出版協会、2003年)にあった。
同書によれば、陳建民が麻婆豆腐で初出演するのは1966年(昭和41)4月だという。ただ残念なことに、テキストの掲載はなく、実際のレシピを確認することはできない。
だが、おそらくは愛嬌のある話しぶりで視聴者を惹きつけ、麻婆豆腐の知名度を上げるのに大いに貢献したにちがいない。
CMが広めた「麻婆豆腐の素」
麻婆豆腐のレシピがテレビの料理番組を通じて広まっていった頃は、餃子に欠かせないラー油も浸透していった時期と重なる。エスビー食品から「中華オイル」として市販のラー油が発売されたのは1966年(昭和41)である。
また同時期、トウガラシを使った洋風調味料であるタバスコも普及した。タバスコが日本に初めて伝わったのは戦後の昭和20年代で、本格的な輸入が始まったのはピザやスパゲティが広まった昭和30年代以降だ。
じつはタバスコをピザやスパゲティにかけるのは、日本独自の使い方だ。本場アメリカではスープの隠し味、ステーキやドレッシングの調味料に使われることが多い。
タバスコの歴史を追った読売新聞1993年(平成5)8月19日朝刊の記事では「スパゲティにかける日本独特の食べ方は、当時タバスコの輸入・販売を手掛けていた赤峰俊氏(故人)が、苦心の末に考え出したといわれる」と記されている。
新しいトウガラシの調味料が、昔なじみの七味唐辛子と同じように「振りかける」という使い方によって受け入れられたというのは興味深い。
ラー油もしかりだが、これまでと同じ感覚で料理にあとからアクセントとして使う調味料の普及が、麻婆豆腐よりもひと足先にトウガラシの辛さへの抵抗感を薄れさせた面もあっただろう。
その後、麻婆豆腐をさらに広めたのは、1971年(昭和46)に丸美屋から発売された「麻婆豆腐の素」だった。
日本初のレトルトカレー「ボンカレー」が大塚食品工業(現・大塚食品)から発売されたのは1968年(昭和43)だ。ときはインスタント食品が花開いた時期である。すでにいくつかの中華系のインスタント調味料が売り出され、市場に受け入れられていた。
日本缶詰協会(現・日本缶詰びん詰レトルト食品協会)発行の業界誌『缶詰時報』1971年8月号には、「江崎グリコ、ミツカン、タマノ井酢に代表される酢豚の素は4年前ころから売出されたが、最近はすっかり定着した商品となっており、メーカーの地道な実演販売などで浸透をみた」とある。
酢豚の素の成功に乗って八宝菜の素も登場し、さらに「このところ麻婆豆腐の素がミツカン、丸美屋、常陸屋本舗などから売出され、中華風の粉末調味食品が賑わいをみせている」と多様化する市場の活況ぶりを伝えている
丸美屋が売り出したのはひき肉入りの濃縮ソースと、とろみ粉を個別にパックしたもの。他社がどのような商品だったかはわからないが、先駆けとして今に伝わるほど丸美屋製品が有名になったのは、いち早くテレビコマーシャルを打ったからだろう。
麻婆豆腐はいわば「テレビの申し子」だった
麻婆豆腐研究会『麻婆豆腐大全』(講談社、2005年)によれば、「麻婆豆腐の素」のテレビCMがオンエアされたのは発売の翌年だった。もともと丸美屋は新商品の宣伝媒体として、テレビというメディアに早くから注目していたという。
当時、すでに創業からの主力商品であるふりかけの名前とブランド力を、CMを通じて浸透させていた。「麻婆豆腐の素」でも同じ手法がとられ、「発売当時には15秒、30秒といったいわゆる『CMタイム』だけでなく、生放送の情報番組の中に実演CMを挿入することもあったほど」だった。
丸美屋の麻婆豆腐のCMといえば、「麻婆といったら丸美屋〜」という決めフレーズとともに、1992年からCMに出演してきた三宅裕司の顔が浮かぶ。
ちなみに初代の看板タレントは食通で知られる俳人の楠本憲吉だった。テレビCMに力を入れる戦略は昔からのお家芸だったのである。
その効果は絶大で、1977年(昭和52)には5000トンまでに市場規模は拡大し、そのうち丸美屋がシェアの半分を占めるようになった。
1960年代にテレビの料理番組を通じて知られるようになった麻婆豆腐という新しい異国の料理。それをさらに有名にしたのもまたテレビのCMだった。麻婆豆腐はいわばテレビの申し子だったのである。
文/澁川祐子 写真/shutterstock
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