虐待、家庭内暴力、ネグレクト…毒母との愛憎の背景にあった、祖父母と母「もうひとつの親子の秘密」
集英社オンライン / 2024年6月14日 11時0分
教育虐待、折檻、無理心中未遂、肉体的、精神的ネグレクト…実の母からあらゆる虐待を受けてきたノンフィクション作家の菅野久美子氏。そんな虐待サバイバーの著者が、親の呪縛から逃れるため、人生を賭けて「母を捨てる」までの軌跡を描いた壮絶なノンフィクション『母を捨てる』。
【画像】教育虐待、折檻、無理心中未遂 、肉体的、精神的ネグレクト…実の母から受けてきた数々の虐待
一部を抜粋、編集してお届けする。
祖父母の前で泣きわめく母
私は幼少期、母から肉体的、精神的、ネグレクトなど、ありとあらゆる虐待を受けて育った。毛布の上から首を絞められて窒息して気を失ったり、水の張ったバスハブに沈められたこともある。
しかし、愛情と承認欲求という強力なアメと、憎悪とネグレクトというムチを変幻自在に使い分け、私を支配していた母にも、見えない傷がある――。そう子ども心に感じたのは、宮崎に引っ越してから数年が経った小学四年生頃だったと思う。
土日の休みや平日の夜――。母はよく私たちを、車で一時間ほどの祖父母の住む実家へと連れて行った。祖父母の家は、宮崎でも過疎地の山の中にあった。
いくつもの山あいを抜け、川を越えると祖父母の住む古民家が見えてくる。私は、このドライブが何よりもお気に入りだった。窓を開けると心地のいい風が頬をかすめ、その先々には瑞々しい雄大な自然が広がっている。
途中、道の駅に立ち寄り、母と共にソフトクリームを食べる。このときだけは、学校や家のあれこれから解放されて、嫌なことを忘れられた。
祖母は私たちがやって来ると、お手製の牡丹餅をつくって、笑顔で迎えてくれた。そして、自慢の美味しい料理をたらふく食べさせてくれた。私は中でも、祖母のつくる甘く煮込んだかぼちゃの煮っころがしが大好きだった。
祖母の手料理は、母と違ってどれも本当に美味しかった。近くにある温泉に入ったり、新興住宅地にはない近くの綺麗な渓流で水遊びをすることもあった。私にとって祖父母と過ごす時間は、まさに癒やしのひとときだった。
祖母は帰り際になるとこそっと、「お母さんには内緒よ。また遊びにおいでね」と言って、私の手に千円札を握らせてくれた。私はそれを母に見つからないように、こっそりとポケットに忍ばせたものだ。
ひたすら優しいおじいちゃんと、おばあちゃん。祖父母に対して私は、そんな思い出しかない。
しかし、どうやら母にとっては違うらしい。祖父母と母の間には、私の知らない「秘密」があるみたいだ。そんなことに気づいたのは、大好きな祖父母と母が激しくいがみ合う様子を頻繁に目撃するようになったからだと思う。私は、それを子ども心に「あれ」と名づけた。
「あれ」が起こるきっかけは、祖父母が何気なく、きょうだいの話題を口にしたときだったように思う。
「〇〇は可愛い洋服を買ってもらえたのに、私はいつもお下がりだった」
「なんでいつも〇〇ばっかり、褒めるの! 私を愛してくれなかったの! 昔からずっと、あんたたちは、そうやっちゃが!」
母は、突如として怒り狂い、老いた祖父母にまくし立てた。また「あれ」がはじまったのだ。
しかし、いつも祖父母の答えは決まっていた。
「そんなことを言われる筋合いはない! あんたたちは、みんな平等に扱ったつもりだ」
祖父母は徹底して母の訴えを無視し、突っぱねるのだ。
「〇〇は可愛い洋服を買ってもらえたのに、私はいつもお下がりだった」と食い下がることもあった。
あのとき、あの場所で、何が起こっていたのか。今振り返ってみると、母はネグレクトされた過去について、祖父母に懸命に問い詰めていたのだと思う。しかし祖父母は、母へのネグレクトを頑として認めなかった。その答えは、母の怒りに油を注いだ。
そんな祖父母を前にして、母は「うわぁぁぁぁ」といつも子どもに還ったかのように、大粒の涙を流して泣きわめいた。
「嘘つき! 久美子! 帰るよ!」
そして最後は小さな私の手をつかんで、強引に家を飛び出していく。私はただ、母に引っ張られた手が痛かったことを、鮮明に覚えている。
「あれ」が起こったあと、駐車場に止めていた車の中に私たちは戻った。私は泣きながら、助手席に乗り込んだ。運転席に座っている母は、いつもブルーのアイシャドーが涙で剥がれ落ち、化け物のような顔になっていた。
母は真っ黒な涙を流しながら、「わーんわーん、わーんわーん」と、ハンドルに顔を突っ伏した。当時の私は、祖父母が子どもだった母を傷つけていたなんて知る由もなかった。
それでも私は車の中で、母をそっと抱きしめた。なんとなく、そうしなければならない気がした。それは、母がこれまでの強大な母とは違って、まるで傷だらけの子犬のように見えたからだと思う。
そのときに感じたのは、母の温かさだ。そう、私が母に暴力を振るったときと同じように、母の体温は温かかった。
母は小さく震えていて、私は確かにその体温を感じていた。母の心臓の鼓動が伝わってくる。一瞬、母を包む存在になった気がした。かつて私の命を脅かした母。そんな母がこんなにか弱い存在であることを知った。それは私にとって、大きな驚きだった。
「お母さん、泣かないで。大丈夫だよ。私がいるから」
私は、いつかそんな言葉をかけた気がする。
「久美ちゃん、ごめんね。ごめんね。もう大丈夫だからね」
母はティッシュで涙をぬぐいながら、大きな潤んだ瞳で私を見た。そして、震える肩から絞り出すように、いつもこう言うのだ。
「私は、おじいちゃんたちと違って、絶対にあんたたちを平等に扱うからね。 絶対に、わが子にあんな思いさせないんだから。させてたまるもんか!」
母の誓い。しかし、母がその誓いを守ることができなかったのは、悲しいが、いわずもがなだ。
無理心中未遂
母は癇癪を起こしても、しばらく経つとそれを忘れたかのように、再び祖父母の家を訪ねた。そしてそのたびに、「あれ」は幾度となく繰り返された。それは、大人になっても母が、「祖父母の愛」を求めてさまよっていたからなのではないかと思う。
「あれ」が起きたとき、私は心が引き裂かれそうになった。「あれ」が起こると、どうしたらいいのかわからなくなる。私はただただ母につられて涙ぐむしかない。
母の悲しみが、激情が、私の心に伝染する。晴れていた空に突然、雲が立ち込め、真っ暗になる感覚。そんな母を前に、子どもの私は戸惑うばかりだった。
今日はあれが、起こりませんように――と。私は、いつも願っていた。
「あれ」さえなければ、楽しい時間を祖父母と過ごせるのだ。しかし、そんな願いも空しく、それはときたま、いや頻繁に起こった。
考えてみれば、私が生まれたときから、祖父母はいつも優しかった。母が私につらく当たっても、いつも優しく慰めてくれたのは祖父母だった。
それなのに、母の「あれ」が起こると激しい罵り合いとなり、祖父母もそれに応戦するのだ。大声を上げて罵倒しているのだ。子どもである私には、何が何やらわからなかった。
「あれ」が起こった帰り道は、いつも恐怖に打ち震えていた。それは、母が無理心中を図ろうとするからだ。間一髪で、子どもである私に命の危険がおよびかけたのだ。
「もう、お母さん、死ぬ! このまま 死んでやるっちゃが! どうなってもいいっちゃが。あんたたちも、みんないっしょに死ぬんだからね!」
母は、そう絶叫しながら突然、真っ暗な夜道でハンドルをジグザグに切った。
体を激しく打ちつけられるような、すさまじい衝撃。車が白線を越えて、対向車線に飛び出す。目の前の対向車から時折鳴らされる「ビーーーー」という、聞いたこともない異常な連続したクラクションの音。迫りくるガードレール。いまだにあのときの恐怖は、忘れることができない。
「お母さん、やめて! お願いだから、やめて! 怖いよ! 死にたくない! 死にたくないよ!」
私は叫び、泣きわめいた。弟が車に乗っていたときもあった。弟も泣いていたと思う。私は、小さな弟を抱きしめた。
とにかく怖くて、怖くてたまらなかった。母の幼少期の行き場のない哀しみは、私たちを道連れにして、命さえも奪うほどの強烈なものだったのだ。
母が単に鬼のような存在でいてくれたら、どんなによかっただろう
あのとき一番恐ろしかったのは、車がひとえに母のハンドルに委ねられているということだ。この空間から逃げ出すことができない私は、母と運命共同体なのだ。
母の感情に翻弄され、その生死さえも母に決定権がある。そのときの無力感といったら、母から暴力を受けたときに匹敵するほどだったと思う。
それでも私たちはなんとか、九死に一生を得た。それは今思うと、ただの偶然に過ぎな
いと感じる。私が母の虐待を生き延びたのも偶然ならば、母の無理心中で死ななかったのも、偶然なのだ。
私たちは、いつもそうやって命からがら何とか帰路についた。母の運転する車から解放されると、一気に力が抜けたものだ。
家に着くと私たちは、二人とも涙でボロボロだった。さっき起こったことで、まだ心臓の動悸が止まらないのだ。それでも「お母さん、大丈夫?」と声をかけたのは、母がわなわなと震えていたからかもしれない。
「ごめんね。あんなことして、ごめんね」
母は、私を見て再び泣き崩れた。そんなことがあった夜でも母は台所に立ち、うつろな目で夕飯の準備をはじめた。
その頃から、私は母を何としてでも守らなければと思って、ずっと生きてきた気がする。 私が感じたのは、子どものように泣きじゃくる母そのものだ。母には誰も頼れる人がいない。父は到底、頼りにならない。母の悲しみを受けとめる度量はない。
きっと、私しかいない。私しか、いないのだ。母に全身全霊で向き合うことができるのは、私しかいないのだ――。そう強く思った。あのとき、母の「傷」をただただ無心に受けとめていたのは、たった一人、私だけだったのだ、と。
私は、母の凶悪な面と、子どものように泣き崩れる両面を知っている。たとえどんなに命を脅かされようと、母の悲しみがやっぱり私の悲しみのように思えてくるのだ。
母が単に鬼のような存在でいてくれたら、どんなによかっただろう。私は、母の弱さを知っている。苦しさを知っている。
だからこそ、母の呪縛から、この歳まで逃れられなかったのだ。このように母親分析をしてみると、そんな自分と母のアンビバレントな関係性まで浮き彫りになるのがわかる。
私はあのときを振り返って思うことがある。大人になった母も、きっとあのとき、祖父母に「ごめんね」と素直に謝ってもらいたかったのではないか、と。寂しい思いをさせてごめんね、と――。
そうしたら幼い母の魂は少しでも浄化され、癒やされたのではないだろうか。しかし、祖父母はそれを最後まで放棄した。それが結果的に母を暴走させ、無理心中未遂へと駆り立てたのだ。
文/菅野久美子 写真/shutterstock
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