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【没後35年】再起不能と心配された美空ひばり「ああよかった。ちゃんと声が出るわ!」復帰後初のレコーディングで見せた日本歌謡界の女王としての矜持

集英社オンライン / 2024年6月24日 8時0分

今から35年前の1989年6月24日、美空ひばりさんは52歳という若さで亡くなった。国民的歌手として今でも絶大な人気を誇る彼女が、なぜ“不死鳥”と呼ばれるようになったのか。その伝説の一部を紹介しよう。

【画像】15歳の美空ひばり

「美空ひばりはファンにとっても、歌手にとっても”燈台”なんだ」

1987年3月の初め。作詞家の星野哲郎は、常磐線の特急ひたち3号に乗って、福島県いわき市にある塩屋岬へ向かった。

長期入院を余儀なくされていた美空ひばりが退院して、病からの復帰第一作となる新作をコロムビア・レコードから頼まれたからだ。

前年に病に倒れて危機にあった美空ひばりの復帰作にあたって、作詞を星野に、作曲を船村徹に依頼したのは、コロムビアで長くディレクターを担当していた森啓である。

星野が森から言われたのは、福島県の塩屋岬あたりを見に行ってほしいとのことだった。どういう詞が求められているのか、いろいろ感じてもらえるはずだと。

森がその時に心の奥で思っていたのは、「美空ひばりはファンにとっても、そして歌手にとっても目標、つまり”燈台”なんだ」ということだった。だからそんな思いを、そのまま歌にしてほしかった。

朝一番の汽車に乗ってやってきた塩屋岬の周囲には、太平洋に臨む“燈台”が一つあるだけで、人影のない海岸線は荒涼としていた。

星野は、ぱっとしない景色の中で、どうすれば人間ドラマを描けるのかを考えながら、あてどなく浜辺を歩き続けた。そして夕暮れ時。振り返ると、夕陽の中に白い燈台が立っていた。今まで遠くにあった燈台が、大きく見えた。

誰もいない大海原に向かって命の光を放つ燈台が、次々に家族を失っていく哀しみの中で、孤独感に包まれていた美空ひばりに重なって見えた……。

母や弟が亡くなり、ついに身体が限界を迎える…

戦後の日本に彗星のごとく現れた歌手、美空ひばり。

9歳で天才少女歌手といわれ、1949年に12歳でレコードデビューを果たすと、同年に主演した映画『悲しき竹笛』の主題歌が大ヒット。それから数年間のうちに国民的なスターとなり、その後は日本の芸能・歌謡界を常に第一線で牽引していった。

その活躍を影で支え続けていたのが、母の喜美枝だった。マネージャーとして、そして母として、ひばりに付き添って尽力してきた。

そんな喜美枝が、転移性脳腫瘍によって68歳で逝去したのが1981年。さらには2人の弟。ひばりプロダクションの社長でプロデューサーとして陣頭指揮を執っていたかとう哲也と俳優・歌手の香山武彦も、1983年と1986年に共に42歳の若さで亡くなってしまう。

わずか数年で3人もの肉親を失うという深い悲しみの中で、ひばり自身の身体までもが次第に蝕まれていった。そして1987年4月22日、ついに身体が限界を迎えることになる。

全国ツアー公演先の福岡市で緊急入院。重度の慢性肝炎および両側特発性大腿骨頭壊死症と診断された。予定は全てキャンセルされ、療養生活に専念することになった。

そんな中、今度は親交が深かった昭和の大スター、鶴田浩二が6月16日に62歳で他界。さらには7月17日、よき友だった石原裕次郎も52歳で永眠。

精神面でのダメージを受けていたはずの美空ひばりだったが、入院から3か月半後の8月3日に退院して、気力だけで東京の自宅に戻った。そこで復帰の日を待つことにした。

日本歌謡界の女王としての矜持

その間に再起をかける新曲の『みだれ髪/塩屋崎』(作詞:星野哲郎/作曲:船村徹)が完成し、レコーディング日が10月9日に決まった。

ところが、親しくしていたスポーツニッポン新聞の小西良太郎が10月初めに自宅を訪れると、美空ひばりは前日に初めて立つことができたという状態だった。

「今日初めて10分くらい立ってみた。少しふらついたけど、もう大丈夫」と、その場で微笑む。

誰が見ても、歌える体調ではない。しかし、レコーディングの当日。美空ひばりが希望して行われたオーケストラとの一発録りの同時録音は、完璧なものだった。

第一声は「ああよかった。ちゃんと声が出るわ!」

歌い終わるごとに椅子に腰をおろし、テープを再生して聴き直した。近寄りがたい厳しい表情で、スピーカーから流れる自分の声をチェックした。自らイメージした歌の完成図と突き合わせているのか? 次の歌唱のために緊張感を高めているのか?

美空ひばりは、テストで2回、本番でも2回、フルコーラスを一気に歌った。いつもよりも念入りの同時録音だったが、それですべてが終了したのである。

立ち会っていた小西は、その気迫と集中力にあらためて驚かされた。そこには日本歌謡界の女王としての矜持があった。

歌い手は思ったに違いない。復帰を待っているファンだけでなく、もっと広い音楽ファンに現在の自分をアピールしなければならない。そんな折に舞い込んできたのが、翌年に完成予定の東京ドームでのコンサートだったのだ。

美空ひばりはコンサートを催すうえで、花道を用意してほしいとリクエストした。それは歩くことすら困難な状態を味わったからこそ、自分はまだ歩けるし、これから先も歌手としてまだまだ歩いて行く。そのことをファンに伝えたいという想いの現れだった。

1988年4月11日、東京ドーム。復帰公演『不死鳥~翔ぶ新しき空へ向かって』のステージから一番近い部屋に用意された楽屋には、医師と簡易ベッドが待機し、最悪の事態に備えて外では救急車もスタンバイしていた。

それでも美空ひばりは、2時間半で39曲を熱唱し、5万人の大観衆の心を打った。そして最後はファンの声援に応えながら、決意も新たに花道を一歩一歩と進んでいく。

歌手としての道を全うすることを誓った東京ドームでの姿は、日本の音楽史において忘れ得ぬ光景となった。

文/佐藤剛 編集/TAP the POP サムネイル/2024年5月29日発売『歌は我が命 1989 in 小倉 〜美空ひばりラスト・オン・ステージ「さよならの向うに」〜』(日本コロムビア)

参考文献/引用
森啓『美空ひばり 燃えつきるまで』(草思社)
小西良太郎『美空ひばり 涙の河を越えて』(光文社)
小西良太郎『海鳴りの詩 星野哲郎歌書き一代』(ホーム社)
星野哲郎『歌、いとしきものよ』(岩波書店)
美空ひばり公式ウェブサイト

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