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イギリスで壮大な「国民IDカード」構想がまさかの頓挫! 政府はなぜ根拠に乏しい計画を強引に進めようとするのか

集英社オンライン / 2024年7月2日 8時0分

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日本ではマイナンバーカードが導入されて様々な面で議論を呼んでいるが、イギリスでは21世紀に入り、「国民IDカード」制度を導入しようと奮闘したことがあった。しかし計画は思わぬ形で挫折してしまう。いったい何が原因だったのだろうか? 話題の書籍『ヤバい統計』から一部を抜粋して紹介する。

「国民IDカード」が導入されれば、暴力的なサッカーファンたちにも対処できる

なぜ「国民IDカード」が必要なのか

2001年9月11日、米国同時多発テロが起きた。英国内務大臣のデイヴィッド・ブランケットは、見るからに神経を尖らせていた。「同様のテロ攻撃が英国内で起こらないようにするために、内務省はどういった対策をしているのか」と、繰り返し尋ねられていたからだ。



内務省ではさまざまな案が飛び交い、激しい議論が繰り返されていた。案が書かれたメモの嵐のなかには、書類棚の奥から誰かが見つけて引っ張り出してきた昔の案もあった。

それは、英国に居住するすべての人に国民IDカードを持たせるというものだった。

ブランケット内務大臣は、その案を推し進めることにした。国民IDカードを導入すれば、個人情報の窃盗という「商売道具を手にするためのテロ集団のお家芸」を防げて、テロ活動との戦いに役立つのに加えて、薬物犯罪、人身売買、売春の阻止にも効果がある、というのが大臣の主張だった。

また、政府によると、テロ集団以外の犯行も含めた個人情報窃盗への国の年間対策費用は13億ポンド(約2461億円)にものぼっていて、国民IDカードはそれらの犯罪の防止にも役立つという。

さらに、年額およそ5000万ポンド(約95億円)にのぼる給付金詐欺のみならず、不法就労、不法入国、国民保健サービスでの無料医療を目的とする入国および、資金洗浄の防止にも効果が期待できる(毎年発生していた3億9000万ポンド(約738億円)の損失を防げる)ということだった。

国民IDカードの構想が初めて持ち上がったのは、はるか昔のことだ。だが、この政策を推進するにあたって、これほど多くの利点がうたわれたのは初めてのことだった。

英国では第二次世界大戦中、人々が国民IDカードを携帯するよう義務づけられていたが、戦後まもなく廃止された。

その後、再び国民IDカードの導入が検討されるようになったのは、1980年代に入ってからだった。そのときの理由は、「暴力的なサッカーファン」と「一般的な犯罪」に対処するためだった。

国民IDカードはあらゆる問題を解決する?

1989年に、ある議員が提出した議員法案での主張は、「国民IDカードを再導入することで、犯罪、薬物、学校のずる休み、未成年者の飲酒、不法入国、テロ行為の問題に対処できるようになる。そしてもちろん、暴力的なサッカーファンたちにも」というものだった。

1990年代初め、国民IDカード導入の問題についての政府内での意見は分かれていた。ジョン・メージャー首相をはじめ、安全保障上の利点から導入に傾いていた派もあれば、国民IDカード導入は不要な欧州統合をますます促進することになるとみなす派もあった。

そして1996年になるころには、内務省特別委員会なども国民IDカード導入を熱心に支持するようになっていた。

同委員会では、議員法案で挙げられた利点に加えて、「公務員を騙った偽電話、詐欺ではない軽犯罪、未成年者に対する酒類や煙草の販売への対処や、選挙の事務手続き、旅行の手続きの円滑化にも有効である」と判断された。

ところが、1997年に首相になったトニー・ブレアが国民IDカード導入に賛同しなかったため、構想は途絶えた。

今回の賛成派の意見をまとめると、国民IDカードとは、「多くの細菌に有効な『広域抗生物質』のようなもの」だそうだ。彼らにとって国民IDカードの導入は、社会のほぼすべての悪(少なくとも内務省が対処すべき範囲内のもの)に対する万能の解決策に見えたのだ。

2006年、政府は「国民ID登録簿」の作成に取りかかるための法を成立させた(注:このときの首相もトニー・ブレアだった)。これは、対象者全員に個別の番号が与えられ、希望者にはカードも発行されるというものだった。

だが、この導入計画は、結局のところたいして進まず、2010年に同法が廃止された時点で発行されていたカードは、わずか1万5000枚程度だった。

費用だけがどんどん膨らんでいく

英国のあらゆる問題の解決策と期待されていたものが、とりたてて成果を出さないままごみ箱行きになってしまったのはなぜなのだろうか。その責任の一端は、「バッドデータ」(注:統計学的に理想的なデータに紛れ込んで分析を邪魔する粗悪なデータ)にあった。

成りすまし犯罪による納税者の負担が、年間13億ポンド(約2786億円)にものぼっていたことは推計されていたが、うたわれていたほかの利点に関することについては、どれも一度もきちんと数値化されていなかった。

それらに対して政府はインパクト評価(注:政策によって予想されるプラス面とマイナス面を数量的に比較検討すること)を行わなかったため、たとえば「不法就労者や国民保健サービスでの無料医療を目的とする入国者を減らせたことによって、将来的にいくら損失が防げるか」について、世間が状況を把握したり批判したりできるような具体的な情報は何もなかったのだ。

また、国民IDカードの導入計画の支持者たちは、住民全員が一つずつ番号をもつことで実現する「完全な住民登録簿」には、データを国民保健サービスや国民保険といったほかの記録システムに紐づけられるという、きわめて大きな利点があることを強く訴えなかった。

英国ではいまなお、正確な出入国者数も把握できていなければ、すべての大都市に加えて一部の市の人口さえも、まったく摑めていない。

「より効率的なシステムがあれば、どんなことがどれくらい軽減できるか」について、なぜ数字を出せなかったのだろうか。

公務員たちは、日々の管理業務においてさえも、統合されていない各システムから大量のデータを、きわめて多くの時間をかけて苦労しながら拾い出さなければならない。「その作業が不要になることで、労働時間を毎年どれほど削減できるか」について、なぜ数字を出せなかったのだろうか。

一方、実際に議論の対象になりえたほぼ唯一の具体的な数字は、国民IDカード制度自体を立ち上げるための費用だった。当初の見積もりでは、13億ポンド(約2443億円)から31億ポンド(約5826億円)のあいだに収まるはずだった。

ところが2007年には、10年にわたる制度立ち上げ費用の概算は57億5000万ポンド(約1兆3548億円)になっていた。すでに評判が下がっていた国民IDカード導入計画に、年間およそ6億ポンド(約1414億円)もの税金が使われていることが判明すると、政府は大打撃を受けた。

政府は根拠の薄いデータで壮大な計画を立てる

政府には、導入計画の有効性を示すために打てる手が一つも残されていなかった。大雑把な計算による、個人情報窃盗への対策費用の金額以外に、政府が出せたデータは世論調査の結果のみだった。

初期のころの調査は、世間が国民IDカード導入案を強く支持していたことを示していた。2003年9月の調査では、回答者の80%が国民IDカードの導入に賛成していて、さらに、「国民IDカードの導入は、国民保健サービスでの無料医療を目的とする入国、犯罪、不法入国、給付金詐欺の防止につながると確信している」と答えた人も同程度だった。

そして、2006年の調査では以前ほどの盛り上がりはなかったが、それでも52%が導入を支持していて、ほぼ60%が「国民IDカードは当初の目的を達成する」と信じていることが明らかになった。

とはいえ、2003年においてさえ、疑問の声は多少なりともあった。「個人情報は機密として保持され、政府外の人々と共有されることはない」との説明について、回答者のほぼ半数(49%)は、「信じない」と答えていた。

しかし2006年の調査では、3分の2が「どんな政党による政府も、個人情報を機密として保持できるとは思えない」と回答した。また、「国民IDカードは、テロ行為の脅威を減らすためになんらかの役に立つ」と答えたのは、5人に1人程度にすぎなかった。

さらに、5人中4人が「英国は『監視社会』になりつつある」と回答していて、「この国は独裁者による監視国家へ向かっている」という人権擁護運動家たちが蒔いた不安の種が、かなりの影響をもたらすようになっていることも示された。

結局のところ、この国民IDカード導入計画は奇妙な出来事だった。政府はこの構想にそれほど乗り気ではなかったにもかかわらず、その一方で計画を推し進めようとする意欲はあった。

そして、実施した世論調査の結果から、世間が国民IDカード導入を大いに求めていると判断し、それを何十億ポンドもの費用を正当化するための拠り所にした。

2005年、国民IDカード導入計画の擁護に努めていた内務省委員会の議長は、「『この計画がすべての問題に対する万能薬でないのなら、やる価値がない』という極端な意見ばかりで、話し合いが進まない」と嘆いた。

しかし残念ながら、とうてい果たせないほど壮大かつ漠然とした公約を掲げたのは、そもそも議長自身が所属している政党と政府だったのだ。

政府は根拠の薄いお粗末なデータを利用して、壮大な費用対効果の見積もりを出す癖がある。そうしてしまうおもな理由は、公約に掲げようとすることが、数々の予測のみでつくられた将来のシナリオ(モデル)にすぎないからだ。

写真/shutterstock

ヤバい統計 政府、政治家、世論はなぜ数字に騙されるのか

著者:ジョージナ・スタージ
訳者:尼丁 千津子
2024年1月26日
2,640円
四六判/368ページ
ISBN:978-4-08-737003-4
【絶賛!】
政策はAI(人工知能)では作れないことを、徹底的にわからせてくれる。
――藻谷浩介氏(『里山資本主義』)

その数字は、つくり笑いかもしれないし、ウソ泣きかもしれない。
データの表面を信じてはいけない。その隠された素顔を知るための一冊!
――泉房穂氏(前・兵庫県明石市長)

【データの“罠”が国家戦略を迷走させる!? ビッグデータ時代の必読書!】

「データ」や「エビデンス」に基づいてさえいれば、その政策や意思決定は正しく、信用できると言えるのか?

私たちは政府統計を信頼しきっているが、その調査の過程やデータが生み出されるまでの裏側を覗けば、あまりにも人間臭いドタバタ劇が繰り広げられていて驚くはずだ。本書は英国国家統計局にも関わり、政府統計の世界を知りつくす著者が、ユーモア溢れる筆致でその舞台裏を紹介した一冊である。

扱われるのは、英国の移民政策、人口、教育、犯罪数、失業者数から飲酒量まで、実に多彩な事例。それぞれの分野で「ヤバい統計」が混乱をもたらした一部始終が解説される。いずれも、日本でも同じことが起こっているのではないかと思うような話ばかりだ。

現在、この国では「根拠(エビデンス)に基づいた政策決定(EBPM)」が流行り言葉のようになっている。人工知能の発達も急速に進みつつあり、アルゴリズムに意思決定や判断を任せようとの動きも見られる。「無意識データ民主主義」といった言葉も脚光を浴びつつある。しかし本書を読めば、数字やデータだけを頼りに物事を決めることの危うさが理解できるはずだ。

数学や統計学の予備知識はいっさい不要。楽しみながらデータリテラシーが身に着く、いま注目の集英社シリーズ・コモン第3弾!

【目次】
第一章 人々
第二章 質問する
第三章 概念
第四章 変化
第五章 データなし
第六章 モデル
第七章 不確かさ

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