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「人の目が気になったし、恥ずかしかったのでパラ出場は考えていなかった」眞田卓選手の車いすテニスとの出会い

集英社オンライン / 2024年7月10日 11時0分

岩手から母と二人で世界へ…パラ陸上小野寺萌恵 。YouTubeが14歳に見せた「夢」を叶えるとき〉から続く

千葉県柏市にあるテニスコートに、力強い打球音が響き渡る。真っ黒に日焼けし、凛々しい短髪で快活な笑顔を向けるのは眞田卓選手。ロンドン・リオ・東京と、3大会連続でパラリンピックに出場し、昨年のグランドスラムではダブルスで優勝した、車いすテニス選手のベテランプレイヤーだ。

【写真】練習中の眞田選手

足を失った不安の中で出会った車いすテニス

交通事故で右足を切断した19歳。「障害者になりたてで、どう社会に出たらいいのか、右も左もわからず、不安でいっぱいでした」義足も不自由だったという。「切断したての時って義足を履くだけで痛いんです。

歩くなんてその倍も痛いし、圧迫感があって、とてもスタスタ歩けるもんじゃありません」 障害者の輪に入って少しでも安心感を得られればと、始めはつながりを求めていた。

「義足を作るために入院していたリハビリ病院で車いすバスケットの授業を見学しました。車いすのスピーディな動きに『すごいなーっ』って感心したのが、この世界に入ったきっかけですね」この授業後に、参加していた生徒さんから声をかけられた。

「ぼくが学生時代にソフトテニスをしたことがあるって言ったら、車いすテニスをやってみない?』って誘われたんです」 社会との接点を作る意味で「埼玉県車いすテニス協会」に入ったが、車いすテニスの楽しさにも目覚めた。

「乗り物を操作するっておもしろいんです。義足よりもずっと自由に動けて、しかもテニスができるんですから」車いす競技に魅力を感じながら、障害者コミュニティを楽しんだ。

海外選手に勝利して世界が見えてきた

「人の目が気になったし、恥ずかしい気持ちがあったので、パラ出場は全く考えていませんでした」月に数回、楽しむためにテニスをし、年に3回くらい大会に出場した。でも、転職した会社の人にも勧められて、本格的に取り組むようになりました」2010年には有給を使って国内大会を回り始めた。

「日本での国際大会にも出場したところ、当時世界ランク15位以内だったオーストラリアのベンウィークス選手に勝ったんです。その時、自分は世界でも通用するんじゃないか?って思いました」 となれば、目指すは日本一を決定する全日本マスターズ。結果は3位入賞だった。

「プロに転向して、ロンドンのパラリンピックを目指すことになりました」海外遠征も積極的に開始した。

初めての海外遠征はシドニーオープン。

「初日に体調を崩して、ホテルでドクターに診てもらい、薬を処方されたんです」そこで先輩の国枝(慎吾)選手から「その薬、ドーピングに引っかからないか確認して」って言われて。

「あっ、そういうのがあるんだ、とハッとしました」本当にプロ選手として活動するんだと実感しました瞬間だった。

試合結果は、一回戦敗退。「そのとき悔しまぎれに、今回は実力が出せなかった、って話したんです。そしたら国枝さんに『海外で自分の実力を発揮するのはなかなかできないことだよ。だから練習するんだ』と言われたことを今でも覚えています」。

12年届かなかった夢「グランドスラム」

その後、日本代表として出場したパラリンピックでは、ダブルスの成績が、ロンドンベスト8、リオ4位、東京4 位、シングルスでは東京で9位、シングルランカーの実績だ。

「でもプロになって10年たってもグランドスラム大会に出られなかったんです。」世界ランキング8位にも関わらずに、だ。

「グランドスラムに出ていないことで、トップ選手のボーダーラインに本当にあと一歩届かないと、気持ちが擦り切れていく感じでした。いい位置にいても胸を張れないというか…..」もうやめたいと思ったことは何回もあった。

「でもやっぱりテニスが楽しいので続けられたのだと思います」

粘り強く転戦を重ね、ついに2023年、グランドスラムの全米オープンに出場。そして初出場にして優勝を果たしたのだ。「尊敬するウデ選手とダブルスを組んだんです!」フランスのステファン・ウデ選手は52歳。 北京、リオ、東京パラの金メダリストだ。

“90歳ダブルス”で念願の初優勝

「本当にいろんな奇跡がありました。」出発の直前、自宅でソファーにぶつけて足をパンパンに腫らしてしまった。「現地での練習も十分にできませんでした。しかも前日の30分間の練習中、車いすの大事なところが壊れてしまったんです」とにかく応急処置で出場し、1回戦は逆転勝ち。

「でも記録的な暑さで、脱水症状になっちゃいました。医師に診てもらったけど、痩せちゃって..」これらの困難を乗り越えての優勝だった。「2人で抱きあいました。『2人で足して90歳だね。優勝できて本当によかったね』と。まさに最高の瞬間でした」

“競技者”として生きるのは人生の1割

昨年、国枝選手が引退した。「これがきっかけで自分にも引退の言葉がよぎり、今このプレーができるのは最後かもしれない、と思うようになりました。そして、競技者としての人生は、人生全体の10%ぐらいだと気づいたんです。だから、それ以外のことにも目を向けたくて、カメラにも挑戦しています」テニス仲間の、競技以外の時の自然な表情を撮るのが楽しいと笑顔を見せる。

14年間プロとして続けてこられた理由も、やはり「楽しさ」だった。「試合に勝てれば単純に嬉しい。ランキングが上の人や2メートル級の選手に勝てればすごく嬉しい。車いすテニスはプロでも一般の人でも健常者でも、誰とでもコミュニティが作れるんです」

チームジャパンの柱として

パリ大会に出場すれば4度目のパラリンピックとなる。「ここまでキャリアを積んで来て、成績は上向いています。これまでより上を狙います!」連戦の影響で肘に怪我も抱えているが、「ここまで逆境が自分を成長させてくれました。

怪我をしたときも、その後さらに強くなってきたんです。だから今の怪我も次のステップに何かよい影響を与えてくれるはずって、期待しています」その目は輝いている。

「国枝さんが引退して、自分が年長者としてチームを引っぱっていく責任も感じます。パリではリーダーとして、チームに貢献したいと思います」若手選手の台頭や技術の進化に、「新しい時代のテニスだ」と感じながらも、自身の14年間の経験と技術でパリパラリンピックに挑む。

その姿には、現代のサムライといった風格が感じられた。

取材・撮影/越智貴雄[カンパラプレス]

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