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「統合失調症の娘の虚ろだった目が生気を帯びてきて…」講談師・神田香織さんを支えた1冊の本と、映画「生きて、生きて、生きろ。」

集英社オンライン / 2024年7月17日 8時0分

今年2月、19歳で統合失調症を発症した次女のケアを10年以上、続けてきたことを初めて告白した講談師の神田香織さん。以後、同じ病を抱えた多くの人たちと情報交換や励まし合いができるようになったというが、そんななか、次女にも変化が起きているという。

映画「生きて、生きて、生きろ。」アフタートークでの神田香織さん

「生きて、生きて、生きろ。」

5月25日に公開されたドキュメンタリー映画「生きて、生きて、生きろ。」は東日本大震災や福島第一原発事故から13年が経ち、喪失と絶望に打ちのめされながらも日々を生きようとする人々や、彼らを支えるために奔走する南相馬市の精神科・蟻塚亮二先生と医療従事者たちの姿を追った作品です。



連日盛況が続いています。私は5月27日の上映後の島田陽磨監督とのアフタートークに出演させてもらいました。監督が私に質問する形で進められたトークは、蟻塚先生との出会いについてからはじまりました。

私は結婚生活が破綻した1994年に娘2人を連れて実家のあるいわき市に出戻りました。そして長女の高校進学の都合で再び東京に戻るまでの8年半、いわき市を拠点に福島県内で公演を重ね、多くの方と知り合うことができました。

東京に戻ってから8年後、東日本大震災、原発事故が勃発。私はいわき市出身の友人たちとNPO法人「ふくしま支援・人と文化ネットワーク」を立ち上げ、福島支援に乗り出しました。こうして再び福島の知人たちと連絡を取り合ったり、活動を共にしたりし始めたのです。

この頃、長女が精神的に不調をきたしており、ごく親しい福島の友人に相談したところ、南相馬市在住の、私もよく知っている方に電話を繋いでくれたのです。

その方は「震災後、鬱になってしまった娘が、蟻塚先生の手によって職場復帰できた。ぜひ診てもらった方がいい」と強く勧めてくれたのでした。

それが実現したのが2016年の4月のこと。翌月には「ふくしま支援・人と文化ネットワーク」の講演会の講師を蟻塚先生にお願いしていたので、ご挨拶も兼ねたメールで娘の診察をお願いし、南相馬のメンタルクリニックなごみまで車で向かった次第でした。

初めてお会いした蟻塚先生は白衣ではなく普段着でした。とてもラフな方で、まるで前からの知り合いの様な雰囲気で長女の話を聞いてくれました。そして診察後にはハイタッチ。帰り際、長女は気持ちが明るくなったようでした。

「悲しむことは生きること」

ほどなくして、19歳で統合失調症を発症した次女のミーが少しずつの自立を目標に、グループホームに入ることになりました。

グループホームとは 精神障害などがある人を対象にした共同生活住居で、 金銭管理、服薬管理、外出同行、各種手続きや相談など、日常生活に必要な援助を行い、入居者の社会復帰をすすめることを目的にしているところです。

さいたま市にあるホームを何ヶ所か見学したのですが、なかなか決まらないので、先生にメールで相談したところ、江東区の社会福祉法人の経営するグループホームを教えてもらいました。そしてそのホームに2019年6月に入居したのでした。

ミーがホームの3階から転落したのはそれから1年2ヶ月後の2020年8月のことでした。6箇所骨折、入院、手術、リハビリと半年かかって退院。その後、結婚。

精神科への通院は続いていたものの、服薬がうまくいかず幻聴の影響で昨年の8月、動きだした車両に接触し、両足切断という大事故に見舞われてしまったのでした。

私はプライベートなことだから、ごく親しい人以外には誰にも言うまいと心に決めて、今思うと能面のような凍りついた気持ちで「元気」に仕事をしていたのでした。

アフタートークにて、私がフェイスブックにミーの事故のことを書こうと思ったのは、昨年11月に蟻塚先生が送ってくれた新刊「悲しむことは生きること」を読んだことがきっかけであると、本書にあった次の一文を紹介させてもらいました。

「悲しむ事は一緒に悲しんでくれる人がいて可能となる。心が凍て付いている時に、人は悲しんだり泣いたりする事ができない。だから悲しむことの前提には人間に対する信頼感がある。それは見えなかった未来が見えてくることである。だから『悲しむ事は生きる事』なのだ」

事故から約3ヶ月間、仕事に打ち込むことで叫びたくなるような気持ちを抑えていた私は、この一文で心が解放されたのでした。私は泣いていいんだ、ミーのことを話していいんだ、一緒に泣いてもらっていいんだ、と。

私はすぐに蟻塚先生に電話し、泣きながら本のお礼とミーの報告をしたのでした。

そう、この本との出会いがなかったら私は今でも凍て付いた心のまま生活していたかもしれません。その姿はあまりに痛々しい…と今では思えます。

次女の幻聴が以前より減ってきて

今年2月、これらのことを集英社オンラインに書かせていただいたことで、統合失調症という病を抱えた多くの皆さんと繋がることができ、情報交換や励まし合いといったことがごく普通にできるようになりました。

ある方は、中学の時に統合失調症を発症した娘さんにミーのことを話したところ、「ミーちゃんに送って」と言って自身が描いた絵を持ってきてくれたそうです。そして、その絵をスマホに撮って私に送ってくれました。

ミーは「すごい、上手」とじっと見つめていました。この娘さんはミーより一つ年下だとか。

また、私の講談の生徒さんのなかには、私の記事を読んで「先生も頑張っている、よし自分も」と気合いが入り、メキメキ上達している人もいます。何か微笑ましいような不思議な気がしております。

何よりよかったのはミーの幻聴が以前より減ってきたことです。幻聴のことをミーは「透明人間」と表現していて、一日中大勢の「透明人間」が「あーだこーだとうるさい」と、いつもイライラしていました。

もちろん看護士さんたちのケアや薬が合ってきたということもありますが、やはり、見守ってくれている人たちがいることが励みになっていると思うのです。虚ろだった目が今では生気を帯びてきたように感じます。

先月は面会の帰りに「お母さん、今日は写真撮らなくていいの」とも。自分の元気な様子を応援してくれる皆さんに知らせてねというミーの気持ちでしょうか。

そして6月13日。この日の面会で、まず目に入ったのはミーのほどよく伸びた髪。思わず「とてもきれい」と言ったら「今お風呂に入ったばかりだから」とはにかむような笑顔をみせてくれました。事故前の何気ない日常のワンシーンが蘇ったようでした。

ただ、幻聴は減ったとはいえ消えることはなく、最近は5、6人の透明人間が痴漢をしてくるとぼやいていました。

また「年配女性の透明人間にみたらしバター餅を作ってあげる約束をしたので、そのために自宅へ外泊したい」と半年ぐらい前から訴えているのですが、それもそのままです。

今夏は講談「はだしのゲン」パート2も

さて、肝心の治療の方は、前回お知らせしたように膝から下が残っている左足に義足をつけてリハビリテーションをするため、相談員の方が民間のみならず、市立、県立、国立の精神科があるリハビリーションセンター数カ所、さらには前にお世話になった都内のセンターにも問い合わせてくれたのですが、そのすべてで断られました。

理由は精神科の先生がいても病棟が無い。あるいは症状が悪くなった時に対応ができない、といった最悪のケースを考慮しての判断です。

相談員の方が「症状が悪くなったらこちらで引き取る」と言っても断られたとのことですが、せめて公立の病院は受け入れを前提に検討してほしいと願います。

話は戻りますが、私はトークをこう締めました。

「この映画は最初から泣かされて、最後も泣かされるのですが、最初の涙と最後の涙は違うんです。どんな絶望の淵に立っていても、何かをとっかかりとして一日一日を生きていくことができることをこの映画は教えてくれました」

まさに今のミーもその通りだと思うのです。フェイスブックのミーの写真に「元気そうでよかった」「目がしっかりしてきたね」とコメントをいただきました。ミーにとっての「とっかかり」は自分のことを励まして、応援していくれる人たちがいる、ということだと思うのです。

メディアのコラムという場をお借りして申し上げるのも恐縮ですが、今までずっと沈黙を守ってきた私からあえてあらためて言わせて下さい。どうかこれからもミーを応援してもらえましたら幸いです。

最後に今夏は実に18年ぶりに「はだしのゲン」の続編「パート2」を高座にかけます。

ウクライナ戦争、そしてガザ攻撃でも多くの命が失われています。その姿は戦時中、原爆投下や東京大空襲をはじめとした各地への空襲、沖縄戦などで殺戮されたわが国の赤ん坊や子どもたち、女性、お年寄りたちと同じです。

戦争体験者が少なくなっている今こそ、ゲンの姿を通じて戦争の惨禍を我がことと感じてもらいたいと願います。

文/神田香織

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