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〈売春島と呼ばれた島①〉「ブローカーに売り飛ばされた女性がいた」「真夜中に海に飛び込んで逃げる少女もいた」かつては“ピンク島”“小さな歌舞伎町”といわれた島は今どうなっているのか? 現地に行ってみた

集英社オンライン / 2024年7月30日 17時0分

三重県志摩市の入り組んだ湾内に、今なお伝説として語り継がれる島がある。その名も渡鹿野島(わたかのじま)。島内のあちこちにパブやスナックを装った「置屋(売春斡旋所)」が乱立し、最盛期には200人もの娼婦が在籍していたことから「売春島」と呼ばれていたが、2016年の伊勢志摩サミットの影響で壊滅状態に追い込まれた。かつて栄華を極めたこの島は、時代とともにどう変わったのか。現地におもむき、その繁栄と没落の歴史を追った。

〈画像多数〉娼婦たちが過ごしたアパート内部や現在の島の様子、道端でのんびり過ごす野良猫など

泳いで脱走を試みる娼婦も

「渡鹿野島ねぇ、昔はピンク島なんて呼ばれとったけど、それも過去の話よ。今はアレ(置屋)も全滅したし、当時と比べものにならないほど変わったなぁ……」



かつて「売春島」と呼ばれた離島を見つめながら、地元のタクシー運転手はそうポツリとつぶやいた――。

三重県志摩市の的矢湾の奥に位置する、渡鹿野島。周囲およそ7キロほどで、本土からは小型船でしかたどり着けないこの島が、売春島と呼ばれるようになったのは1970年ごろのことだ。『売春島「最後の桃源郷」渡鹿野島ルポ』(彩図社)の著者で、漫画『売春島1981』(大洋図書)の原作を担当したノンフィクションライターの高木瑞穂氏はこう語る。

「その時期からパブやスナックを装った『置屋』(売春斡旋所)が立ち並ぶようになり、慰安旅行などの団体客を中心に人気を集めだしました。ピークを迎えたのは1980年ごろ。島内には13軒もの置屋が乱立し、夜になるとメイン通りは、“買う男”と“売る女”でお祭り騒ぎになっていたようです。

当時はホテルや旅館のほか、ゲームセンターやパチンコ屋、ストリップ劇場なども営業しており、小さな歌舞伎町のような状況になっていました」

当時の置屋に在籍していた娼婦は、10代後半から40代までさまざま。旅館やホテルで開かれる宴会が顔見せの場になっていたため、彼女たちは60分2万円の「ショート」を宴会までに何人かこなし、4万円の「ロング」で男性客と一晩を過ごすという、まさに売春漬けの日々を送っていた。

「娼婦のなかには自分の意志ではなく、付き合っていた男やブローカーに『売り飛ばされた』女性も少なくなかった。そこで島から脱走を試みた女性もいたようで、過去には、真夜中の海に飛び込んで対岸(本土)まで泳いで逃げた少女がいたそうです。

それでも当時、渡鹿野島を訪れる男性客はとんでもなく多かったわけですから、借金を返し終わっても島に残って売春を続ける女性もいたと聞いています」(同)

だが、そんな島の一大産業は徐々に陰りを見せていく。平成に入るとバブルが崩壊して団体客が減少。2000年代には、デリヘルなどの風俗業態の多様化が進み、渡鹿野島は徐々に衰退していったという。

「2016年に開催された『伊勢志摩サミット』以前までは、まだ置屋も3軒ほどあり、20代の東南アジア系の女性や、40~50代の日本人女性など20人ほどの娼婦が在籍していました。

ところが、そのサミットの影響で警察の目も厳しくなり、このまま営業を続けていくのは難しいとのことで、置屋のオーナーたちも閉業を決めたそうです。

その後も、箱型の置屋が1軒と派遣型の置屋が1軒で、合計4人の娼婦がいたそうですが、それも2年前に島の関係者から『最後の子も出ていった』と聞いたので、業態としては完全に終わったんだと思います」(同)

往時の盛り上がりが夢だったかのような島の現在

果たして実際のところはどうなのか。7月14日、名古屋駅から近鉄線に乗り換えて最寄りの鵜方駅へ。そこからタクシーで15分ほどかけて「渡鹿野渡船場」まで移動し、小型船に揺られること3分ほど。対岸に近づくにつれて、島の現状が浮かびあがってきた。

渡船場の近くに位置する5階建てのホテルは、まるで時が止まったかのように、窓にカーテンが付けられたまま閉館している。もう何年も手入れをしていないのだろう。

ホテルの壁はところどころ黒ずんでいて、正面玄関をのぞくと、エントランスにはソファが置かれたまま、テーブルの上には物が散乱していた。

さらに海岸沿いを歩くと、廃墟となったホテルや旅館がいくつも目に入る。なかには屋外にプールが併設された旅館もあるが、周囲には雑草が生い茂り、窓辺に取り付けられた障子も破れ落ちている。

島の全盛期には、こうした旅館やホテルで毎晩のように宴会が開かれていたかと思うと、それが売春目的だったとはいえ、一種の喪失感すら感じてしまう。

渡鹿野島で長年にわたり民宿を経営する女将に、島の現状について取材を申し込むと、「今はもう夜遊びできる場所はないよ」と話してくれた。

「今から4年前は、まだ1、2軒は置屋があって遊べる女の子も何人かいたんやけどな、コロナになって完全に終わったね。ただ、当時を懐かしんで磯釣りとかゴルフのついでに島に来る人はいるよ。

そういう人には、いまだに女の子と遊べるか聞かれるけど、もちろん断っとる。事前に言ってくれたら、なんとか島外のコンパニオンは呼べるけど、それもあくまで宴会のみやからな。『エッチはできへんで』と話しとる」

現在、渡鹿野島を訪れるのはカップルや家族連れがほとんど。毎年、学校が夏休みに突入すると海水浴目当てのファミリー層も増えるというが、2016年に伊勢志摩サミットが開催されるまでは、まだ売春目当ての観光客もいたのだとか。

「それまでは置屋もぜんぜんあったからな。サミットのせいで島外での警察の検問や締め付けも厳しくなったから、組合のほうでも『女の子に裏の仕事(売春)をさせんように』とお達しがきたわけさ。

せやけど、これ(売春)でしかメシ食えん人もおるわけやん。だからサミットのあとも隠れてボチボチとやってたわけやけど、コロナの3年間で置屋も全滅したってわけよ」

現在は「恋人の聖地」として売り出し 

渡鹿野島のメイン通りには、青色や紫色といった色鮮やかなスナック看板がズラリと並んでいるが、辺りが暗くなっても、それらが灯ることはほとんどない。

島の全盛期には置屋の娼婦や男性客で奥が見えないほど混雑してたというが、この日は人ひとり見当たらず、ただ虫の鳴く声だけが響きわたっていた。

島で唯一営業している定食屋の女性従業員は、寂しげに当時を振り返る。

「この島に活気があったころは、今では廃墟になってるホテルや旅館も営業してたので、そうしたお客さんたちでウチも賑わってましたよ。

お昼どきになると、観光客の方たちが食べにきてくれたし、夜になると、旅館の従業員とか(置屋の)ホステスさんも食べにくるので満席になることもありました。

その当時は周りの飲食店もやってましたし、ウチも朝8時から夜11時くらいまで営業してましたけど、今は日中と夜に少し開けるくらいです」

その一方で、渡鹿野島は航空図で見るとハート形の地形をしていることから「恋人の聖地」として近年では観光誘致に力を入れているという。この日も取材を進めるうちに、海岸沿いで観光客の姿も複数確認できた。そのなかには島の歴史を知らない人も少なくなかった。

「奥さんが旅行サイトで調べてたらこの島が出てきたんですよ。島の形がハートになってて『ハートアイランド』なんて書かれていたので、それで『ここ行ってみようよ』という流れになりまして。

もちろん僕は、生まれも育ちも三重県なので、この島で昔そういうこと(売春)が行われていたことを知ってました。ですが、奥さんはまったく知らなかったようで、そういう島だと教えたら『え、大丈夫なん?』と驚いてましたね」(三重県在住・30代夫婦)

「この島で昔エッチなことが行われていたことは、さっき彼女に聞きました(笑)。彼女は10年くらい前に家族でここに海水浴に行ったみたいで、そのときは『いい島やなぁ』と思って帰ったら、行きつけの美容院のお姉さんに島の歴史について教えてもらったみたいで。

べつに当時から観光客に見えるようにそういう商売をやっていたわけではないので、今回もとくに気にせずに来たという感じです」(奈良県在住・30代カップル)

島で唯一営業している商店の女性従業員も、「ここ数年で島に来る人たちも変化してきた」という。

「カップルとか家族連れもそうやけど、最近はサークルの合宿で来る大学生もおるみたいね。私もどうしてこんな島に? と思って聞いてみたら、『ヨソだと騒ぐと怒られるけど、ここは島だからはしゃいでも大丈夫かなと思って』とか言うんよ。これから夏にかけてそうした子も増えていくんやないかな」

かつて「売春島」と呼ばれた負のイメージを払拭し、新たな一歩を歩んでいる渡鹿野島。だが、#2で渡鹿野区長に話を聞くと、「売春」という名の一大産業に支えられてきた島が抱える、複雑な問題が浮かびあがった。

取材・文・撮影/神保英二
集英社オンライン編集部ニュース班

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