なぜ沖縄が第二次世界大戦で戦いの最前線になってしまったのか? 本土での日米決戦の時間稼ぎのために沖縄が犠牲になった「吸血ポンプ作戦」の真実
集英社オンライン / 2024年8月11日 8時0分
民間人を含む20万人もの犠牲を出した第二次世界大戦の沖縄戦。なぜこんなにも多くの犠牲者を出さなければならなかったのか。防衛にあたった日本軍第32軍の責任は?
【図】沖縄戦が始まる前に米軍が調査・作成した日本軍の陣地
『首里城と沖縄戦』より一部を抜粋・再構成し、地上戦開戦前夜の日本軍の足跡をたどる。
第32軍の編成と前線基地沖縄
まず、配備当初、司令部には、参謀部や情報部、事務職員など340人余が配置され、司令部は旧真和志村(現在の那覇市)松川の公共建物に落ち着いた。
その他の司令部付き部隊は、沖縄県立第一高等女学校の敷地を借りるなどして、司令部と同じく最後まで独自の営舎・施設は持たなかった。
第32軍創設時の軍の任務は、航空基地の建設と敵の奇襲攻撃に備えるため港湾を建設し、そこを防衛することであった。飛行場建設のため、県下から労務者と呼ばれる住民が駆り集められた。
労働力として中等学校生や女学生、さらには婦人会までもが動員された。作業はスコップやツルハシ、モッコなどの木工、運搬具を用い、人海戦術で進められた。
だが、炎天下の飛行場建設が進むさ中の1944年7月7日、日本が守るべき「絶対国防圏」の最前線にあたるサイパン島が陥落した。大本営は、サイパン島が米軍の支配下に入ったので新たに沖縄を日本国領土の最前線とすることを決め、沖縄防衛の強化に取り組むことにした。
首里城の要塞化はここに端を発している。
このため旧満州を警備していた関東軍傘下の師団や日本国内の予備役兵を合わせて6万人以上の兵員(第9師団、第24師団、第62師団など)が、沖縄に動員された。南西諸島は、またたく間に軍人であふれかえった。
沖縄派遣部隊の代表的師団が、満州牡丹江から派遣された関東軍傘下の第9師団(兵員約1万4000人)である。
第9師団は、一般兵士が輸送船で移動し、司令部要員のみ、7月10日から同12日にかけ空路沖縄に到着した。血気にはやる司令部要員は、飛行場に到着するや否や、「直ちに抜刀し『敵は何処か!!』と叫んだという。
(中略)彼らはアメリカ軍がすでに沖縄に上陸したものと思い込んでいた(*1)のである。
第9師団の首里地区配備
1944年7月、日本軍の沖縄派遣と同時に、首里市一帯は、軍事要衝地帯に変わっていった。首里地区に最初に軍事施設を構築したのが、第9師団である。同師団は、7月に沖縄に上陸し、その年の12月末には台湾へと移動している。
同師団は、石川県金沢市の金沢城内に司令部庁舎を構える伝統的な陸軍部隊である。師団は、金沢市の中心部に練兵場や兵器庫などを配置し、同市は軍都として広く知られていた。
沖縄に到着した第9師団は、軍が駐屯すべき陣地や兵舎もなく、全くの無防備なことに驚いたという。
「これでよいのか、敵は既に目前に迫っているではないか、内地部隊はたるんでいるぞ(*2)」と満州から来た将校らは憤慨した。
そこで「師団は直ちに司令部を首里の師範学校におき、歩兵第7連隊を首里南方の南風原から大里地区に、歩兵第19連隊を東風平地区に、歩兵第35連隊を南部島尻地区に配置(*3)」し、それぞれ独立した陣地を構築することにした。
このとき、第9師団司令部は、首里城に近接する土地を首里市から入手し、独自の司令部壕を建設することを決めた。そのとき首里市といかなる軍用地折衝を行なったかは不明である。
この時期の沖縄の日本軍は、用地の提供についてなかば強制的に借り上げ、有無を言わさず承諾印を押させている。軍用地接収は軍事機密にも関わることなので、おそらく首里市独自の判断で、軍用地として無償貸与したものと考えられる。
ところで第9師団は、司令部と通信隊だけを首里に配備し、実動作戦部隊は、主に南部一帯に配置した。これは、敵の沖縄上陸予測地を南部地区とみなしたことに関係がある。
第32軍司令部は、この段階で海岸部にて敵を叩く「水際攻撃」も計画しており、読谷山村を中心とした中部地区の沿岸防衛には、第24師団を配備した。
沖縄10・10大空襲が決定づけた地上戦の方針
米軍の沖縄来襲を見越し、軍や民間人が基地建設や陣地壕建設に励むさ中の1944年10月10日、沖縄は大規模な米艦載機攻撃を受けた。那覇市一円は大炎上し、近隣の港湾やふ頭、飛行場なども爆撃を受け、死者225人、負傷者358人、全市域の90パーセント近くが焼失した。
那覇市が大被害を受けたことにより、この日の米軍攻撃を「那覇10・10大空襲」と呼ぶものもいる。この後、第32軍は、今までの飛行場建設を停止し、敵を水際で叩く計画に変更、県民を動員した陸上陣地の構築に励んだ。
大空襲から約1カ月が経った11月3日、突然第32軍司令部に大本営陸軍部から、「第32軍は1個師団を台湾に転出されたい」との命令を受けた。沖縄と上級司令部の台湾軍との厳しいやり取りがあったが、結局大本営命令で11月17日、第9師団の転出が決まった。
これを契機に、新たな沖縄防衛構想が一挙に走り出した。それは、一旦敵を沖縄に上陸させ、一日でも長く「地上戦闘」を続ける戦法に変更することであった。これにより、本土での日米決戦の時間を稼ぐことが可能となり、大本営も賛成した戦術である。
長参謀長は、この戦いを「吸血ポンプ作戦」と命名し、努めて多く敵の損害を強要するのだと兵士らを激励した。
1944年11月26日、第32軍司令部は地上戦を想定し各部隊の陣地の転換命令を出した。これに伴い、各部隊はそれまでの陣地を放棄することになった。
住民を多数動員して昼夜にわたった陣地構築も、ここで終わりとなり、各部隊は夜間に人目につかない「秘匿演習」と銘打った陣地移動を行なった。
度重なる陣地移動に不満を言うものも多く、これとともに日本軍の士気もみるみるうちに下がっていった。沖縄戦が事実上終了した1945年6月23日、沖縄南部で米軍に投降した一人の日本兵は、「米軍の沖縄上陸前から、日本軍の大多数は、米軍に打ち負かされるのは間違いなく、このため士気も低かった(*4)」と述べている。
この証言を裏付けるかのように、移動先の陣地において、「(将校らは)戦況が不利であるのを知っており、女たちと遊び呆け、酒を飲んで騒いでいた。(中略)将校たちがこうした行動を見せたのは、戦闘精神を喪失し気落ちした結果からだ(*5)」と第62師団情報将校は述べている。
ただし地元新聞の「沖縄新報」だけは、「捨て身の必殺精神」「死中に活あり」「軍民一如一人一殺」などと書き立て、戦意を高揚したが、大局的には当初から日本軍の勝利はほぼ絶望的な作戦計画であった。
モノクロ写真・図/書籍『首里城と沖縄戦』より
写真/shutterstock
*1 八原博通『沖縄決戦―高級参謀の手記』読売新聞社、1972年、32頁。
*2 第10師団「第九師団戦史」
(https://www8.cao.go.jp/okinawa/okinawasen/pdf/b0305362/b0305362.pdf)212頁。
*3 同上、213頁。
*4 保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言―針穴から戦場を穿つ』上、紫峰出版、2015年、195頁。
*5 保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言―針穴から戦場を穿つ』下、紫峰出版、2015年、262頁。
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