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戦争当初は攻撃目標でなかった首里城は、なぜ狙われたのか…首里城が沖縄戦で焼け落ちるまで「海兵隊による文化財の略奪を防ぐねらいも…」

集英社オンライン / 2024年8月13日 8時0分

なぜ沖縄が第二次世界大戦で戦いの最前線になってしまったのか? 本土での日米決戦の時間稼ぎのために沖縄が犠牲になった「吸血ポンプ作戦」の真実〉から続く

2019年の10月、沖縄・那覇の首里城が焼失したが、実はこれが初めてではない。第二次世界大戦中、日本軍第32軍司令部が置かれた首里城は沖縄戦でも失われているのだ。しかし、戦時中の当初は米軍の攻撃目標ではなかったという首里城。いったいなぜ失われてしまったのか。

【写真】1945年の首里城の航空写真

『首里城と沖縄戦』より一部を抜粋・再構成し、お届けする。

首里城攻撃の中止要請

1945年3月24日。

「偵察機による確認では、それまでに(首里一帯の)建物の損傷は確認できなかった。3回目の一斉砲撃後、射撃は偵察機のアル・オリバー中佐により、古ぼけた建物の要塞(首里城)と思われる場所に移った。



偵察機のオリバー中佐は、『火砲にさらされているあの建物群を残すよう頼む。病院として使われているか、もしくはある種の宗教的な建物としてあるのかはっきりしない。

450メートル以下の高度で、建物に最初に一斉射撃を行なったとき、数人の女性と子どもたちがその場所から走って逃げ出すのがはっきり見えた』と回想している。そこは、沖縄の地上部隊に対する主要司令部のある首里城であることが判明した(*1)」

第二次世界大戦下、米軍では航空部隊に対し、歴史的建造物や病院、傷病者用の病棟は、攻撃目標から外すよう指示を出していた。

オリバー中佐は、「古ぼけた建物の要塞」としてある首里城を、「病院、もしくは宗教的建物」とみなし、砲撃を控えるよう要請し、結果的に首里城は、米軍の第一次総攻撃が行なわれる4月18日まで、無傷のまま残ることになった。

さて、オリバー中佐の報告の真偽を確かめるため、その日のうちに戦艦ノースカロライナは調査を行ない、そこは主要司令部が置かれた首里城であると判定した。また、同日の「アクション・レポート」には、観測機が撮影した首里城の航空写真も添付されている。

一方、偵察機が飛行中、数人の女性と子どもたちが走って逃げ出すのが見えたというが、このとき首里城内には複数の自然洞窟や、市民100人以上が避難できる「竹林壕」と呼ばれる大型の壕もあった。

さらに壕に入り切れない民間人は、城壁の隙間に逃げ込んだりしていた。オリバー中佐が目視した民間人は、学校施設にでも隠れていたのだろうが、子どもたちの行動が目に留まり、一時的にせよ首里城への攻撃を先延ばしするのに一役買ったようだ。

一方、米第10軍情報部は、首里城一帯に重要軍事建造物があり、第32軍司令部が首里城にあることは沖縄戦の前から実は分かっていたという。沖縄戦が終了した8月に出された『インテリジェンス・モノグラフ(Intelligence Monograph)』(報告書)は、具体的にこう述べている。

「沖縄作戦開始前から、第32軍司令部は首里城か、もしくはその近辺に布陣しているのはわかっていた。この神々しい建築群は、小都市首里にわずかに占める南端台地に位置し、旧琉球国王の居城であった。(中略)作戦開始後の捕虜尋問と記録によれば、第32軍司令部は、首里城台地下を走る精巧な地下坑道に布陣していたことが明らかになった(*2)」

米第10軍が日本軍司令部の位置をつかんだのは、日本軍が発信した暗号電の解読を通してである。米軍が南西諸島の日本軍電文を傍受‐解読し始めたのは、1944年3月の第32軍創設にまでさかのぼる。

その後ハワイの情報部を中心に、第32軍関連暗号電を追い続け、ついには連合艦隊司令部が1945年3月25日に沖縄海軍根拠地隊に打電した「我が(海軍の)砲撃部隊は、敵が陸上陣地に到達するまで米舟艇を砲撃してはならず(*3)」との電文まで解読している。これは、米軍が沖縄に上陸しても反撃してはならないと指示した海軍最高レベルの暗号電であった。

もちろん米軍側は上陸時、日本軍の無抵抗方針が分かっていても、総勢18万人に及ぶ沖縄上陸作戦を用意周到に決行した。暗号解読の秘策は、それが解読されていることを絶対に敵に気づかせず優位に行動に移すことである。

米第10軍司令部は、沖縄作戦開始前から第32軍司令部位置や日本軍作戦を知悉していても、それを上陸部隊や航空部隊に通報することはなく、そのため米第58機動部隊や艦載機は、独自の判断で文化施設と目される首里城への艦砲射撃や機銃掃射を回避したのであろう。

米軍による沖縄調査と首里城の保護

首里城は、うっそうと茂る樹木に囲まれた高台にあった。ハワイ・オアフ島に司令部を置く米第10軍は、1945年春に予定されている沖縄侵攻のために大至急情報収集を開始した。

ただし沖縄の地形に関する情報が集まらず、古い出版物から情報を得て、さらに航空写真で不足分を補った。また米工兵隊は、作戦地に関する立体モデル(ジオラマ)を作成し、その中には精度の高い首里城・首里高地の立体モデルも含まれていた。

米第10軍では「そこ(首里城一帯)では、最も強力に建築物が守られているに違いない(*4)」としつつ、1944年10月以来、首里地区の特別監視活動を続けていた。

これとともに米軍は、沖縄侵攻と同時に始まる民間人統治、いわゆる軍政府施行のための報告書を出している。これは、米海軍省の作成になるもので『民事ハンドブック琉球列島』(1944年11月刊行)と呼ばれた。その中で首里は、単に行政区分の市として分類分けされているだけだ。

「王府の古城が高台にあり、市全体を見おろしている。その北側には有名な円覚寺や市役所があり、周辺には多数の歴史的・宗教的建築物がある(*5)」

貼付された図録に、首里城正殿の写真が掲載されている。

次いで沖縄侵攻作戦の全体像を示した『第10軍作戦アイスバーグ作戦』(1945年1月6日策定)の中で、首里地区内の攻撃目標を定めているが、首里城は攻撃目標にも回避すべき対象どちらにも入っていない。

ところが、『アイスバーグ作戦』を出した同じ日に軍政府関係者へ通達された「作戦指令第7号(略称ゴーパー)」には、「文化的な価値のある遺産や記念物は、軍事状況の許す限り保護され、保存される(*6)」と指示している。

これとほぼ同様な文言が、1945年3月1日に公布された「ニミッツ(最終)指令」にも記載されている。この考えは、第二次世界大戦レベルで言われた一般命令と同じで、文化財の保護と自国軍隊による文化財の略奪を防ぐねらいもあった。

また、沖縄戦のさ中の1945年5月、米陸軍動員部隊司令部は、『日本の文化施設への爆撃制限』と題する手引書を作成している。手引書では、日本国内の重要文化施設などに対し、爆撃を制限すべきだとして一覧表が掲載されている。その中に首里城も入っていた(*7)。

手引書が具体的にどのように活用されたかはっきりしないが、翻訳者の解説によれば、「戦時中に、日本の文化施設に対する考察がこの『手引き』のようになされていたということだけは事実(*8)」であると記載している。

ただし、軍事施設が置かれた岡山城(岡山県)や広島城など、19カ所の国宝・文化財が空襲や原爆などにより、首里城と同じく焼失しており、一概に手引書に基づき文化財が残されたとは言えまい。

かくして、1944年10月の「沖縄大空襲」から翌1945年4月までの約半年間、首里城は一度も攻撃を受けなかった。

前年10月10日の空襲で作成された「攻撃目標地点首里第17」では、首里地区に重要な軍事施設があると結論づけたが、とりたてて首里城を「攻撃地点」や「爆撃制限」地区に指定してはいない。

そうすると米軍は、首里城一帯に軍事的構築物があることを承知の上で、一時的に砲爆撃の回避地区に指定したといってよい。これは首里城地域が、沖縄で最も伝統的建築物の集合的場所であることと、第10軍が長期にわたり首里地区の追跡調査を行なった結果、ある程度の軍事的目安がついていたことと関係がありそうだ。

首里地区攻撃への米軍判断

米第10軍は、1944年10月10日の沖縄大空襲で、大掛かりな航空写真撮影に成功した。空撮をもとに、1944年11月には「攻撃目標地図(ターゲット・エリア)」を作成し、攻撃目標地点を示した「地理座標地図(グリッド・マップ)」を完成している。

その結果、首里地区は、「攻撃目標地点首里第17」に入り、詳細な市街地地図も作成された。米軍が示した主要な建物は、以下の通りである(註数字番号は、地図上のポイントを表す)。説明文から、首里城は、08地点に含まれ、神社施設と一体化して記述されている。

米軍が割り振った目標図と番号をもとに、戦前の首里地区地図とを照合すると以下のようになる。

首里城周囲には、多数の無線塔と関連建屋が配置され、軍事的利用の推測もできたはずだ。この中で比較的分かりやすいポイントは、師範学校や国民学校の学校敷地である。また、沖縄放送局の送信塔は、首里寒川町と崎山町に建立されており、米軍の観測通り間違いない。分かりづらいポイントもあるが、米軍の分析に大きな過ちは見られない。

さて米軍の上空監視活動は、1945年に入ると一段と強化され、2月28日、この日もB-29が沖縄に飛来し、首里城の真上から鮮明な写真を写した。日本兵の日記に、この日のことが書いてある。

「好天が続き、B-29が飛んで来る。空襲警報は発令ならず。みんなこれを『定期便』と呼んでいる。今日は、2機が飛来した(*9)」

日本軍は、「定期便」が来たなどとおもしろおかしく騒ぎ立てたが、この間米軍は、攻撃目標を定めるため鵜の目鷹の目で空撮を行なっていたのである。

日記の持ち主は、2月はじめに休養日を利用して必勝祈願をかね部隊全員で首里に向かうが、立ち入り制限が行われ、首里地区に入ることができず残念がっている。このとき首里は、軍機保護法上最大の規制と監視体制が敷かれ、元々の住民や陣地構築に動員された民間人を除き、自由に街中に入ることは許されなかった。

しかし首里上空は、全くの無警戒で、敵の目にさらされ続いたわけである。

さて、1944年10月段階で首里には、ごく一部の陣地しかなかったが、1945年3月には第32軍地下司令部壕の他、6つの日本軍壕が第32軍司令部壕を取り囲む形で配置された。また首里城から南に約1.3キロ離れた繁多川地区にも2つの海上部隊司令部が置かれ、海上作戦の全般的な命令を下していた。

さらに周囲の高台には、電波塔、送信塔が敷設され、大本営や台湾の第10方面軍と交信を行なっていた。このとき首里は、全国でも有数の軍事要塞基地として機能していたのである。

モノクロ写真・図/書籍『首里城と沖縄戦』より
写真/shutterstock

*1 Battleship NC, “Battle of Okinawa”, Action Report. 1945年3月24日。
https://battleshipnc.com/battle-of-okinawa/

*2 NARA RG407 Box2946 Army, 10th Army, G-2, Intelligence Monograph, Ryukyus Campaign(Okinawa, 1945), PartII SectionD, p.6.

*3 詳しくは、保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』紫峰出版、2013年、103―172頁を参照。

*4 Dale E. Floyd, Cave Warfare on Okinawa, Army History, U.S.Army Center of Military History, Spring/Summer 1995, No.34,p.6.

*5 沖縄県立図書館史料編集室編『沖縄県史 資料編1 民事ハンドブック 沖縄戦1 和訳編』沖縄県教育委員会、1995年、134頁。

*6 名護市史編さん委員会編『名護市史 本編3 名護・やんばるの沖縄戦 資料編3』名護市役所、2019年、30頁。

*7 『東京大空襲・戦災誌』編集委員会編『東京大空襲・戦災誌第3巻 軍・政府(日米)公式記録集』東京空襲を記録する会、1973年、932頁。

*8 同上、針生一郎の解説、925頁。

*9 NARA RG407 Box5352 WWII Operation Records XXIV Translations of Captured Documents 高橋上等兵日記、1945年2月28日。

首里城と沖縄戦 最後の日本軍地下司令部

保坂 廣志
首里城と沖縄戦 最後の日本軍地下司令部
2024年6月17日発売
1,012円(税込)
新書判/224ページ
ISBN: 978-4-08-721320-1

首里城地下の日本軍第32軍司令部の真実

2019年10月の火災で焼失した沖縄・那覇の首里城。

焼けたのは平成に再建されたもの。だが、首里城が失われたのはこれが初めてではない。

民間人を含む20万人もの犠牲を出した第二次世界大戦の沖縄戦では、日本軍第32軍が首里城地下に司令部壕を構えた。

抗戦の結果、米軍の猛攻で城は城壁を含めほぼ完全崩壊し、古都首里もろとも死屍累々の焦土となった。

ならば、令和の復元では琉球王朝の建築だけではなく、地下司令部の戦跡も可能な限り整備、公開し、日本軍第32軍の戦争加害の実態と平和を考える場にすべきではないか? 

この問題意識から沖縄戦史研究者が、日米の資料を駆使して地下司令部壕の実態に迫る。

◆目次◆
プロローグ 首里城と沖縄戦
第1章 第32軍地下司令部壕の建設
第2章 米軍の第32軍地下司令部壕作戦
第3章 米軍が見た第32軍地下司令部壕
第4章 日本軍にとっての地下司令部壕
第5章 首里城地下司令部壕の遺したもの
エピローグ 戦争の予感と恐れ

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