「首里の町あたり一面に死体が広がっていた」沖縄戦、民間人の半数以上は第32軍司令部の無謀な作戦が原因で命を落とした
集英社オンライン / 2024年8月14日 8時0分
〈戦争当初は攻撃目標でなかった首里城は、なぜ狙われたのか…首里城が沖縄戦で焼け落ちるまで「海兵隊による文化財の略奪を防ぐねらいも…」〉から続く
1945年の8月に日本は敗戦し、第二次世界大戦は終わった。その3か月前の5月、沖縄の首里城を司令部として戦った沖縄戦が最終局面を迎える。本土決戦の時間稼ぎとして行われた悲惨な沖縄戦の中でもひときわ壮絶な悲劇が起きたのが、軍部が首里城の地下司令部壕を捨てた後だ。
『首里城と沖縄戦』より一部抜粋・再構成し、なぜ悲劇が起きたかを解説する。
補足 1945年5月、沖縄戦では既に米軍の勝利は決定的であったが、日本軍第32軍が首里城の地下司令部壕を捨てて、南部に撤退することにより(つまり戦争を継続させることにより)、多数の沖縄県民の犠牲者が出た。沖縄戦の県民の犠牲者約9万4千人のうち半数以上が、第32軍が首里城を撤退した後の1ヶ月の間に亡くなったのだ。
地下司令部壕からの日本軍の脱出
さて、1945年5月中旬から月末に至る米軍の徹底的な首里城砦の破壊攻撃は、日本軍を壕内に閉じ込める一大作戦であった。そのため米軍情報部は、日本軍の動きを24時間体制で監視していた。ただし米軍側でも、戦闘の最後をどうするか考えあぐねていた。
米軍参謀会議で民間人問題が話し合われた5月22日、首里城地下司令部壕内において、沖縄戦の今後を左右する首里城撤退の是非が論議されていた。
第32軍高級参謀の八原大佐は、日本軍の総攻撃が失敗した5月4日後、司令部の玉砕の地をどこにするか研究を始めた。最初は、本土決戦を遅らせる戦術に知恵を絞ったが、米軍攻撃が首里近郊に及ぶにつれ、一日も早く地下司令部壕を脱出するには、どうすればいいかに傾いていった。
5月10日夜半、八原大佐は自室で赤、青チョークが入り混じった日米の戦闘地図を眺めていた。ふとそのとき、「首里高地を軍司令部の所在地としてではなく、主陣地帯上の一大拠点として見れば首里戦線は地形上なお相当長期にわたり命脈があるのだ。(中略)私はこの新たな戦線観に、形容すべからざる歓喜を覚え、自信力の湧き出るのを制することができなかった(*1)」と述べている。
八原大佐の考えは、首里地下司令部壕で最後を迎えるのではなく、ここを南部後方につながる長い廊下の中間点とみなしたことだ。
そうすると、南部への退却路がポッカリ空いており、それが摩文仁(まぶに)後退案であった。ただし同大佐の口から退却案を出すと、人望がない彼のこと、反対されるのは目に見えていた。そこで彼は、一計を案じ、若手参謀に撤退案を出させる一芝居を打った。
5月22日、軍司令官の居室に隣接する軍参謀寝室で撤退案が協議された。各部隊参謀の意見の流れは、「喜屋武半島後退案=摩文仁(まぶに)後退案」が優勢であった。会議が終了した後、八原大佐は、長少将が近くにいないのを確かめ、参謀寝室に2人の参謀を呼びつけ、再び一芝居を打った。隣には牛島満中将が耳をそばだてて、事の成り行きを注視しているのを瞬時に見て取った。
「『軍の最後の陣地は、喜屋武案でなければならぬ』と私は声を出した。その瞬間、(隣室にいる)司令官のあてどないような表情が、急に動いて嬉しそうな顔つきに一変した。将軍は黙しておられるが、心ひそかにこの案を希望しておられるな、と推断し私はしめた!と心に喜んだ(*2)」。
戦いの帰趨を決する重要な決断の際、軍師ともおぼしき八原大佐は決まって誰かの「嘲笑」や「微笑」を読み取っている。軍司令官にとり、最終地を決めるということは、死没地を決めることと同じで、一日でも生き永らえられることは無上の喜びであっただろう。
そこには、やがて来る軍民の壮絶な死が待ち受けていたが、軍指導者らの脳裏には、南部撤退は「陣地転換」ほどの意味しかなく、特段住民について論議した様子はない。
八原大佐にとってこの日の司令官の表情は、よほど印象に残ったのか、同大佐には珍しく「私はしめた!と心に喜んだ」と人間的な感情を放出している。一世一代の大芝居だったのだろうが、観客は誰もおらず、やがて来る悲劇の序章の幕が開いた。
あたり一面に死体が広がっていた
こうして5月22日、牛島司令官は、喜屋武半島後退案を決心、5月27日の軍司令官の地下司令部壕出発をはじめとし29日までの1週間、なりふりかまわぬ人間模様が展開された。この間米軍砲撃で合同無線通信所が破壊され、無線は止まり、すべての命令は通達として各部隊に発出された。
「第32軍司令部通達(退却作戦の間)絶対に話をしたり、タバコを吸ったり、明かりを点けたりしてはならず。計画は完膚無きまでに秘密にしておかなければならない(*3)」
首里撤退に際し、各部隊は前後の間隔を空け、「音を立てず、特に沈黙を保ち、絶対的な機密」を図るよう細かな注意がなされた。また、「許可なく戦場から逃亡した兵士に対し、これら(兵士には)、死罪をもって臨むべし(*4)」と牛島司令官名による命令も出ている。
まるでこれは夜逃げ同然の日本軍退却であった。死霊が飛び立つかのように、重症者や足腰の立たぬ兵士らは、その場において毒殺や自裁を強いられた。
さて、第32軍司令官らの退却は、脱出日初日の5月27日午後7時ごろ、出口は第5坑道からだった。地下司令部壕内は、連日の艦砲射撃により坑道壁は崩れ、地鳴りがし、通路には汚水があふれていた。
第32軍地下司令部を脱出する最後の様子を、参謀の一人が記している。
「(南部に撤退する5月27日)壕の壁から水がしみ出してきたかと思うと、その内壕内に水が這って流れ出した。壁が緩んで時々ガラガラと落ちてくる。十糎、二十糎、三十糎、流れる水量は増すばかりだ。所々で上壁から滝のように水が噴流する。(中略)狭い壕を通行する人々は、ざぶざぶ水をかきたてながら行く。(第5坑道に行くのに)この急斜面を奔流のように水が流れる。(中略)地下三十米メートルの壕は、地下水の排水溝の役目をしだした。笑えない悲劇だ(*5)」
梅雨の豪雨と暴風雨とにより壕内は水かさを増し、椅子や生活用具も坑道下に流れ出し、将兵らは無防備のまま土砂降りの中に突っ立っているようなものだった。自然を破壊して築城した第32軍地下司令部壕は、今まさに艦砲射撃と自然の力により崩れ去ろうとしていた。将兵らは、僅かばかりの携帯品や武器を持ち、命からがら地下司令部壕を立ち去った。
5月27日に壕を脱出した参謀は、首里の街についてこうも述べている。
「首里の町は跡形もなく廃墟と化した。家は形もなく壊れ果てている。ほのかな煙が、散乱する木片の塊の中からむらむらとあがる。(中略)数百年も経たであろう、鬱蒼たる大木も今は無残にも巨幹をもぎとられ、(中略)草木は全く生えていない。(中略)悲惨にも戦友の草むす屍が折り重なって朽ちている(*6)」
司令部壕や自然だけでなく、人も朽ち果てあたり一面に死体が広がっていた。
「死の橋」「死の十字路」
またこの日、師範学徒隊員も首里城から脱出したが、首里方面から南部への退却路は、南風原にある2つの橋(一日橋、山川橋)か十字路を通らざるを得なかった。ここに兵や民間人が押しやられ、戦後、「死の橋」「死の十字路」とたとえられた。
「米軍はこの二つの橋に照準を合わせて、それこそ四六時中砲弾の雨を降らしていた。(中略)途中、るいるいと折り重なる屍体をふみわけて進んだり、幼い子どもや老人、負傷した兵が泥の中で助けを求めてすがりついてくるのであるが、どうすることもできなかった(*7)」と証言に記録されている。
これはまるで「前門の虎、後門の狼」状況下での逃避行であった。
ところで、第32軍司令部が首里城地下司令部壕を脱出した5月27日、東京大空襲でほぼ焼け野原となった東京の中野地区で日本軍が沖縄で勝利したとの話が突如持ち上がった。このとき、人々は騒ぎ立て、万歳を叫び、国旗を立てたりなどしたという。
この話を聞いた作家の伊藤整は、日記の中でこれが事実ならば胸が躍る快挙だとそのときの興奮を記している。反面、「帝都はことごとく灰燼に帰し、沖縄の敵の全面降伏という虚報が巷に飛ぶということは、何とも言えず不安なものを感ずる(*8)」とも書いている。
そもそも沖縄戦勝利デマは、大本営が流し続けたもので、これに特攻隊攻撃や新兵器と呼ばれた人間ロケット爆弾「桜花」などの話で尾ひれがついて、荒廃した東京の街中で、デマとして飛び交ったのだろう。
戦争で周囲がいかに悲惨であっても、ある状況を人が真実ととらえれば、信念にまで高められるものであることを実証したものである。こうして、沖縄戦の勝利を願う大衆は、何ら疑いもなく、デマに踊ったのである。
*1 八原博通『沖縄決戦―高級参謀の手記』読売新聞社、1972年267頁。
*2 同上、293頁。
*3 沖縄県公文書館MCJ00527第1海兵師団情報参謀部定期報告。
*4 NARA RG407 Box2955 Operation Reports, TAMA Operation Order#37.
*5 西野弘二『紅焔―沖縄軍参謀部付一少佐の手記』星雲社、1994年、100頁。
*6 同上、93頁。
*7 諸見守康「沖縄師範の鉄血勤皇隊」、前掲『沖縄の慟哭』305頁。
*8 伊藤整『太平洋戦争日記』(三)、新潮社、1983年、321頁。
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