「語れない」をテーマに描く、女性同士の繫がりと植民地の歴史『日月潭の朱い花』青波 杏 インタビュー
集英社オンライン / 2024年8月4日 10時0分
二〇二二年に第三十五回小説すばる新人賞を受賞した『楊花の歌』でデビューを果たした青波杏さん。待望の第二作『日月潭の朱い花』は、現代の台湾に生きる女性二人が、古い日記に隠された真実を探る物語。
「語れない」をテーマに描く、
女性同士の繫がりと植民地の歴史
二〇二二年に第三十五回小説すばる新人賞を受賞した『楊花の歌』でデビューを果たした青波杏さん。待望の第二作『日月潭の朱い花』は、現代の台湾に生きる女性二人が、古い日記に隠された真実を探る物語。謎と日常、過去の歴史と現在が交わる中で見えてくるものとは。
聞き手・構成=瀧井朝世/撮影=大槻志穂
――新作『日月潭の朱い花』は、台湾を舞台に現在と過去が交錯していく話です。どんな着想だったのですか。
最初は古道具屋で見つけたトランクの中から少女が書いた日記が出てくる、というくらいのアイデアでした。しかもその時イメージした舞台は中国の廈門でした。
――青波さんは以前、実際に廈門で日本語教師をされていましたよね。『楊花の歌』も、一九四一年の廈門での暗殺事件の前後から始まり、後半は台湾が舞台となる物語でした。今回、廈門から台北に舞台を変えたのはどうしてだったのでしょう。
『楊花の歌』はハッピーエンド的な瞬間で物語が終わりますが、実際には、あの後台湾が辿った歴史は全然ハッピーではなかった、というのが自分の中で宿題のように残っていたんです。それで、台湾に生きていた人たちがその後どうなったかを書きたいという気持ちがありました。それに台北も旅行でよく行っていた好きな町ですし。
――物語は現代の話の中に、過去に書かれた日記の内容が挿入されていく形で進みます。現代パートの視点人物は台北で日本語教師をしている二十五歳の長澤サチコ。彼女は日本で生きづらさを感じて台湾にやってきた人ですね。
サチコは自分がどういう混乱を抱えているのかよく分からないまま、必死に生きようとする中で台湾に辿りついた人です。僕も、大変だった時期に廈門で日本語教師の話があったのであちらに行って、ずいぶん楽になったんです。それまでと違う場所に行ってみたら、自分が抱えていた悩みやしんどさがふっと遠のく瞬間があった。その感覚は、この作品の第一部に表れていると思います。
それに、廈門に行った時、現地の人たちの言葉を通してはじめてそこにあった歴史に触れたと感じたので、そういうことも書きたいなと思っていました。
――サチコがひょんなことから部屋に居候させることになるのが、二歳年下のジュリです。在日コリアンの彼女も様々な生きづらさを抱えて、長い引きこもりの末に台湾に辿り着きます。
女性と女性の繫がりを描きたいという気持ちは『楊花の歌』を書いた時から連続してありました。ジュリを在日コリアンにしたのは、二人とももともと日本社会にいたけれども、違う土地で一緒に暮らす中で、まったく異なる現実を生きてきたことが見えてくる物語を作りたかったからです。
ただ、ジュリのキャラクターを作る時には苦労しました。在日の友達に相談したり、作品に目を通してもらったりして。そういう意味ではジュリは、いろんな人たちの声や、いろんなもので読んだことを反映させてできた人物です。
――ジュリが古道具屋で買ってきたトランクから見つかったのが、日本占領期の一九四一年の台湾で秋子という少女が書いた日記です。興味を抱いたジュリが調べると、当時の新聞から、秋子がある青年と訪れた日月潭で姿を消したという記事が見つかります。事件なのか、心中なのか。二人は秋子に何があったのか調べていく。サチコは大学で歴史を学んでいて文献検索の経験があり、ジュリはネットを駆使して情報を集めていく。よい探偵コンビですね。
歴史学探偵という感じですよね(笑)。最初からそうしようと思ったわけではなく、書いているうちにキャラクターがどんどん立ち上がってくる感じでした。
――今回、ミステリ要素は明確に意識されていたのですか。
北欧ミステリを読んできた影響が大きい気がしていて。たとえばアイスランドのインドリダソンが書いた『緑衣の女』などは、現代で発掘された骨から冷戦時代の歴史が浮かび上がってくる話でした。エーズラ・オールスンの「特捜部Q」シリーズにも『カルテ番号64』という、映画にもなった有名な作品があって、これは一九六〇年代の孤島における囚人の虐待や優生手術が現代の殺人と関係しているという話。そうした、現代で何かが発見され、そのルーツを辿っていくとその国の負の歴史が関わっていた、という話が結構あったんです。今回も発想としてはそういう感じです。
ただ、日本のミステリを読んでいると、キャラクターがそのうち事件の話しかしなくなるところが気になるんです。なので、今回は登場人物たちが生きる日常も書きたいなと思っていました。
――だから生活の様子が細やかに描かれるんですね。台湾の人はあまり自炊をしないと聞きますが、サチコもいつも総菜を買うので、現地のいろんなメニューが分かって楽しかったです。
台湾の友達に原稿を見てもらったら、ひとつだけ違和感があると言われました。サチコの部屋にはキッチンがあるけれど、安いレンタル住居にはキッチンがついていないよ、と。ただ彼女たちが暮らす部屋にはキッチンがあったほうがいいなと思って、建物の設定のほうを変えました。
――いろんな場所にも行きますよね。台北の街中はもちろん、足を延ばして淡水や日月潭にも行く。台湾にはすでに何度も行かれているそうですが、取材旅行はされたのですか。
実際に行った時のことを思い返したり、グーグルマップのストリートビューを見ながら書き上げた後、去年の六月に淡水や、はじめて日月潭にも行きました。淡水で驚いたのは、想像して小説に書いたのと同じように、海を見下ろすベンチのそばに鳳凰木の赤い花がたくさん咲いていたことですね。日月潭も鳳凰木が満開できれいでした。
――日月潭は台湾中部にある大きな湖で、観光地としても有名ですよね。
それまで行ったことはなかったけれども、日本の植民地時代にダムが造られて大きな湖になったことは知ってはいました。でも正直、そこまで正確なイメージがあったわけではなくて、湖に浮かぶ島との距離などは実際行ってみていろいろ確認しました。
――秋子は日月潭で姿を消したわけですが、彼女が住んでいる町のイメージは。
漠然と台中を考えていました。物語に出てくる恩寵高等女学校は実在しませんが、高等女学校があるくらいの規模の町でなければいけなくて。町の地理などは、台湾に取材に行った時に台中で買った本が役に立ちました。
「語れない」ということが大きなテーマ
――その秋子の日記もすごく面白かったです。
当時の日本の外務省の役人の娘で、比較的恵まれた環境にいる女の子をイメージしていました。そこに全然違うバックグラウンドを持った白川さんという転校生がやってきて交流を深めることは比較的早い段階で決めていた気がします。
――秋子は白川さんから本を借りたりして、親しくなるんですよね。漱石の『こころ』や『坊っちゃん』、雑誌の「少女の友」や「講談俱楽部」、立原道造の詩集など具体名がいろいろ出てきます。
当時の女学生の嗜好として立原道造は微妙なところかもしれません。僕が好きだから書いちゃったんですけれど(笑)。日記は苦労しました。書き始めた時は手元に資料がなくて、今と違う時代を生きた、しかも十五歳の女学生の文章を想像していくしかなくて。
ただ、最近になって京都の友人が、一九一八年から綴られた女学生の日記を出版したんです。その友人の大伯母さんの日記が京都の徳正寺の蔵から見つかったんだそうです(『ためさるる日 井上正子日記 1918–1922』法藏館)。出版前に日記を見せていただく機会がありました。それを読んで、当時の女学校では生徒に日記を書かせて、先生が添削するシステムがあったと知ったんですよ。当然先生に見せても問題ないことしか書けないわけですが、ちょっと逸脱した部分もあって、そのバランス感覚が面白いなと思いました。秋子が日記を書いたのは一九四一年ですからかなり時代背景は違いますが、先生に提出するために日記を書いているというアイデアはそこからきました。
――それが重要なんですよね。じつは秋子の日記には、秘密が隠されている。
やはり「語れない」ということはすごく大きなテーマになっています。先生に見せる日記では語れない、ということだけでなく、現代にも通じることですが、家父長制の抑圧で女性が語れない、という問題ですね。語られていないことに近づいていく、ということもテーマのひとつとしてありました。
――日記には数年前に台湾で大地震が起きたことなど、当時の出来事などがさりげなく含まれているのも興味深かったです。
一応、日記が書かれた期間の台湾の新聞に目を通して、当時の事件などは確認しました。
ただ、作中にも書きましたが、一九四一年になると新聞も事件やゴシップ報道は減っていくんです。日記が書かれた時期を一九四一年十二月以降にすると新聞も戦争報道だけになるし、そもそも日記を書いていられるような日常はなくなってしまう。それで日記が書かれたのは一九四一年の秋という設定になりました。
――現代パートは二〇一三年の設定ですよね。それも接続の問題ですか。
それもありますが、日本の中での排外主義が強くなってきたのが二〇一〇年頃からだったことが関係しています。それと、サチコたちはスマホを使っていますが、二〇一三年あたりからスマホの使われ方が広がった感じがあったので。
植民地支配の歴史を知ること
――読み進めるうちに、台湾の歴史や民族のこともいろいろ見えてきます。
そうですね。作中、サチコが親しくしている同僚のおばあさんやひいおばあさんが出てきて少しだけファミリーヒストリーが語られますが、そうした台湾の戦後史も大きなテーマですね。
やはり日本では、小説作品の中で植民地支配の歴史が描かれることが少ない印象があります。でもアジアの近隣諸国にとっては植民地支配されたということは、かなり大きな歴史なわけです。そういうことをどのように書くのかはすごく意識しています。
――一九四八年の朝鮮の済州島四・三事件が言及される箇所もありますよね。朝鮮半島の歴史も、触れておきたかったことなんですね。
はい。日本では一九四五年の敗戦で全部終わったイメージがあるけれど、旧植民地では終わったどころか、その後もっとひどいことが起きている。それは間違いなく知ったほうがいい歴史だと思います。
――それにしても、終盤にまさかサチコたちがナポリまで行くとは。
書きたいものを書くというのが基本だと思うので、そのあたりは好きに書きました。僕がイタリア好きというのもあるんですけれど(笑)、主人公たちがそういう環境に行くこと自体の楽しさもあるだろう、と。
――サチコが空港を出た後で勧められて昼食を食べたお店も実際にあるんですか。
はい。あのポルケッタ屋さんはまだあると思います(笑)。
――イタリアでクライマックスを迎えるのかと思ったら、そこからがまた怒濤の展開で。その中で、サチコの内面や、最初は距離のあったジュリとの関係が変化していくのも読みどころでした。
不思議なもので、自分で書いているのに二人の距離が生き物のように変わっていく感じでした。なのでそれは流れに任せました。
サチコに関しては、周りの人たちからすると一体どういうジェンダーアイデンティティを持っていて、セクシュアルオリエンテーションはどうなっているのかがあまり分からないと思います。それは本人も分かっていないということなんですね。最初のうちに彼女はレズビアンであるとかバイセクシュアルであるといった位置づけをすれば物語はシンプルにはなるんですが、今回はサチコ自体の分からなさを含めて書こうと思いました。
――そうしたことも含め、非常に濃密な物語になりましたね。
一人称で書くには複雑な話だったかなと思っています。サラ・パレツキーのミステリのような翻訳文体の三人称寄りの一人称にしたんですが、三人称にしたほうがもっと書きやすかった気がします。
――デビュー作も今作も海外が舞台ですが、そのほうが書きやすいのですか。
日本を舞台にしたほうが書きやすいと思うんですよね(笑)。今度「小説すばる」八月号に『日月潭の朱い花』のスピンオフ短篇が載るんですが、富山から始まって飯能に行く話です。ジュリが主人公で、『日月潭の朱い花』の後の話です。そっちは三人称で、書きやすかったです(笑)。
――今後、長篇ではどんなものを書こうと思っていますか。
打ち合わせはこれからなんですが、次は北海道の話を書こうと思っています。
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