休めない社会だからこそ、休む人たちの物語を描きたいと思った『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』ファン・ボルム インタビュー
集英社オンライン / 2024年8月4日 12時0分
昨年9月に刊行された『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』(訳=牧野美加)は2024年の本屋大賞翻訳小説部門第1位に輝き、ロングセラーを続けています。
2024年 本屋大賞 翻訳小説部門 第1位
『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』
休めない社会だからこそ、
休む人たちの物語を描きたいと思った
昨年9月に刊行された『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』(訳=牧野美加)は2024年の本屋大賞翻訳小説部門第1位に輝き、ロングセラーを続けています。
小説の舞台はソウル市内の住宅街にできた「ヒュナム洞書店」。会社を辞めた30代の女性、ヨンジュが立ち上げた、コーヒーの飲める小さな書店です。そこに集まってくるのは、就活に失敗したバリスタ、夫の愚痴が止まらないコーヒー豆焙煎業者、身じろぎもせず座っている女性客、無気力な男子高校生、ネットでブログが炎上した作家……。平凡な日常生活を送りながらも、それぞれに悩みを抱えた人たちがヒュナム洞書店で一息つき、会話をし、本を読み、人と本とゆるやかに連帯し、自分自身に出会い直していきます。
ファン・ボルムさんの初の長編小説となるこの作品は、韓国では最初、電子書籍として出版されました。その後、瞬く間に人気を博して紙の書籍も刊行され、ベストセラーに。そして日本でもたくさんの読者の心をつかんでいます。今年4月、本屋大賞発表会のために来日したファン・ボルムさんに、お話を伺いました。
通訳=延智美/聞き手・構成=砂田明子/撮影=露木聡子
走り続けて疲れて……、私自身が休みたかった
――本屋大賞の受賞、おめでとうございます。本屋大賞は全国の書店員が「いちばん! 売りたい本」を投票で選ぶ賞です。受賞の感想を聞かせてください。
受賞の報せは、2月ごろ、韓国の出版社の代表から、電話で聞きました。私はもともと物事にあまり驚くタイプではないのですが、そのときは「えっ!」と大きな声を上げてしまったんです。普段は淡々と生活しているのに、その後1か月くらいはウキウキしながら生活していました。
この本を書くにあたり、小さな書店の店主たちが書いたエッセイをたくさん読みました。でも、私自身は書店で働いたことはありません。ですから、書店を舞台にしたこの小説を、実際に書店で働く方がどう思うだろうかと、心配していたんです。幸い韓国でも好評をいただき、日本では書店員の方々が選ぶ賞をいただけて、とてもうれしく思っています。
――小説を書いてみよう、と思いついたとき、書店の名前の最初の文字を「休」にしよう、店主はヨンジュで、バリスタはミンジュン。この三つのアイデアだけをもとに、最初の文章を書き始めたと、あとがきの「作家のことば」にあります。なぜ「休」が出てきたのでしょうか。
休みたいという気持ちが私自身にあったからです。作家になりたくて、30歳を超えたころから、自分なりにトレーニングを積んできました。一日数時間、毎日書く生活を3、4年間続けて、最初のエッセイ集を出版することはできたのですが、その後うまくいかず、走り続けているうちに疲れてしまったのです。それでも何か書きたいという気持ちはあって、では、休む物語を書いてみようと。
私に限ったことではなく、韓国社会全体が、走り続けているように感じます。休まずひたすら走り続ける。これは人間にとって不可能なことであるはずなのに、皆が競うように走っています。また、自分の意思で、あるいは外から与えられた理由によって休まざるをえない状況になったとしても、心から休めない人が多いです。だから私はこの小説で、休む人たちを描きたいと思いました。
――主人公のヨンジュは、会社を辞め、離婚をし、母親との関係に問題を抱えています。そんななかで自分が自分を大切にできる場として書店を開き、人が集まる場所へと育てていきます。思慮深さと行動力、弱さと強さ、そしてユーモアがまざりあったキャラクターが魅力的です。どのように作り上げていきましたか。
物語の始めにヨンジュが泣いているシーンを描いたので、過去につらい経験をしたことがわかります。でも、私が書きながら考えていたのは、つらい経験を、シリアスに受け止めるだけの人物にはしたくないということでした。キャラクターそのものは、明るくユーモラスにしたいなと。人にはさまざまな面があります。気持ちが沈んでいるにもかかわらず冗談を言うような、泣きながら笑顔を見せるような、ヨンジュをそんなキャラクターにしたいと思いました。具体的にイメージしたのは、こんな人がそばにいたら、絶対友だちになりたいな、と思うような人です。
――ファン・ボルムさんをヨンジュに重ねて読む読者が多いように感じますが。
「ヒュナム洞書店のような書店をオープンしたい気持ちはありますか?」と、よく韓国で聞かれるんです。そう聞いてくださる方は、私のなかにヨンジュを見ていると思うのですが、「私は決してヨンジュになれないので、ヒュナム洞書店のような書店は開けません」とお伝えしています。
仕事は階段ではなく、
毎日食べるご飯のようなもの
――この小説には、親子関係、結婚、仕事など、普遍的なテーマが盛り込まれています。たとえば、好きなことがないと悩むミンチョル、契約社員で理不尽な思いをしてきたジョンソ、あるいは「働かない権利」をテーマにした読書会の場面を通して、「仕事」について多様な視点を提示しています。〈仕事って階段のようなものだと思っていたんです。てっぺんにたどり着くために上っていく階段。でも実際には、ご飯のようなものだった。毎日食べるご飯。自分の身体と心と精神と魂に影響を与えるご飯〉という言葉が印象に残りました。仕事をどのように捉えていらっしゃいますか。
仕事は、一日のうち、もっとも多くの時間を費やすものです。そういうものであるならば、できるだけいい時間の過ごし方をしたいと私は思いますが、韓国社会では、いい時間を過ごしているかを考えるヒマがないくらい、追い立てられている雰囲気があります。なぜこの仕事をしているのか、本当に好きな仕事をしているのかを自分に問いかける隙がないくらい、がむしゃらに走り続けている感じです。
なぜ走り続けるかといえば、成功のため、競争に勝つためですが、そうしているうちに体を壊したり、メンタルを壊してしまう人がいるんです。『ヒュナム洞』には、私が考える理想の仕事の在り方を描きました。いまの韓国社会では正反対の状況が見られるからこそ、私はこのような小説を書いたのだと思います。
――母と娘、母と息子……ヨンジュもバリスタのミンジュンも、親との関係に悩んでいます。日本でも家族は一つのテーマですが、韓国でもそうでしょうか?
韓国の社会には「家族主義」が根強く存在していて、子どもがよりよい道を歩むために、親が献身して子どもを育てる文化があります。子どもにしてみたら、親は時間やお金をはじめ、多くのものを自分のために犠牲にしてくれています。そういう関係性のなかではどうしても、子は親の期待に応えなければいけないと思うようになります。自分の人生を生きるための声を、親に対して上げにくくなるのです。
ですが私の思う理想的な家族関係はそういうものではなく、「あなたと出会えてよかった」と思えるような関係です。家族も数ある人間関係の一つと捉えてある程度の距離を置き、一緒にいい時間を過ごせてよかった、そう思えるような爽やかな関係を望ましいと思っています。
――この小説には、ファンさんのそうした考えが投影されていると思います。この小説が多くの読者を獲得したということは、韓国も変わりつつあるということでしょうか?
この小説を読んで自分の親子関係が変わった、という話は聞いていませんが、深く共感したと言ってくださる人が韓国に多いことに驚きました。というのは、これまでお話ししてきたとおり、この小説には韓国のスタイルとは異なる物語が書かれているからです。本当は自分もこうしたかったとか、自分も同じように感じていたという読者が多いことに、びっくりしています。
――友人関係についていえば、仕事が終わったヨンジュの家に女友だちが集まり、ビールやつまみ片手に、寝転びながらお喋りするシーン、とても好きです。大事な時期の恋愛については聞きすぎなかったりと、距離感も絶妙です。
私のエッセイ集に『このくらいの距離がちょうどいい』というタイトルの作品があります。ほどよい距離感の関係を、私は好ましいと思っているんですね。もちろん濃密で密接な関係が必要なときもあります。ただ、そればかりだと、互いに干渉しすぎて疲れてしまったり、自分が本来やるべきことに時間がとれなかったりします。私がいいなと思うのは、親しいなかにも礼儀のあるような、気安くもあり気遣いもあるような、そういったゆるやかで優しい人間関係です。
いい本、いい人、いい人生とは何なのか
――ヒュナム洞書店で行われるイベント─作家のトークショー、読書会、コーヒーイベント、たわしイベント、映画上映会など――は、参加したくなるものばかりでした。〈何が書店を存続させるのか?〉という章もあり、書店経営の難しさと可能性について考えさせられます。
書店を続けていくためには、まずはお客さんに書店に来てもらわなければいけません。来てもらったお客さんに、本を買ってもらわなければいけません。そうするための手段として、さまざまなイベントを考えていきました。読者のなかには、ヒュナム洞書店に、近所のコミュニティのようなイメージを持たれる方がいるようです。コーヒーを飲んだり、イベントに参加したりする場所でもあるので、そのように感じられたのだと思いますが、私自身にコミュニティを書こうという意図があったのではなく、経済的な理由から要請される書店の姿を書いたという感じです。書店に関する本をたくさん読むことで、そうした現実を学びました。
――本とコーヒーは日本でも〝鉄板〟の組み合わせです。栽培地の標高による豆の香りや味の違いなど、コーヒー好きにはたまらない描写もたくさんあります。コーヒーはお好きですか?
実はそうでもなく……(笑)、本で勉強して書きました。この組み合わせを喜んでくださる方が多くてうれしいです。
――ヨンジュにとって大きな存在となる兼業作家・スンウとの緊張感あるやり取りは、文章論、作家論としても読みごたえがありました。〈何かを読んだり書いたりするときに一番注意を払うことは何ですか〉という問いに対して、スンウは〈作家の声〉と答えます。声とは具体的に何でしょうか?
作家になりたくて文章を書き始めたとき、どうしたらうまく書けるだろうかと悩みました。好きな作家のような文章を私も書きたいと思うんです。でもどれだけ真似をしても、自分には書けないと気付かされました。それは、能力が及ばないというより、その作家と私は違う人間だからです。そうした人間としての違いを表す言葉として「声」を使っています。声は、その人そのものが持っている固有のもの。いま作家になってみると、声も大切ですが、その声をのせる文章も声と同じくらい大切だと思うようになりました。
――ヨンジュがInstagramで紹介する本や、お客さんに薦める本をはじめ、この小説には、20を超える本、映画、ドラマが登場します。この本自体が作品案内にもなっていますが、どのように選ばれましたか?
自分の好きな本を厳選したと思われている方がけっこういらっしゃるのですが、そうではなく、登場人物や状況に似合う作品を入れていきました。
――ファンさんはどのような本がお好きですか?
私自身は小説が好きです。一冊を選ぶのは本当に難しいのですが……、最近読んだ本のなかでは、昨年の夏ごろに読んだ『夜のふたりの魂』(ケント・ハルフ著)がとてもよかったです。こんな小説が書けたらどんなにうれしいだろうかと思いました。この本にも出てきます。
――物語の終盤、スンウがヨンジュに差し出す本ですね。この小説の登場人物たちは、自分にとってのいい本、いい人、いい人生とは何かを考え、行動し、少しずつ変わっていきます。作品中にしばしば登場する「いい」という言葉に込めた思いや意味を、最後に教えてください。
いま感じているのは、いい人生とは、いい歳の取り方をしている人生であり、自分が自分でいることがラクになる人生だということです。自分と一緒にいることがラクになる人生とも言えるかもしれません。そのためには、さまざまな試行錯誤が必要だと思います。この本に書いたように休んでみたり、これまでの態度を変えてみたり、考え方を変えてみたり、本を読んで勉強してみたり、趣味を持ってみたりと、そうした小さな経験を積み重ねていくことで、自分が自分として過ごすことがラクになれたら、それはとてもいい人生なのではないかと思っています。
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