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幕末、国のために奔走した若き“官僚”たち『海風』今野 敏 インタビュー

集英社オンライン / 2024年9月14日 10時0分

幕末。泰平の眠りをさました黒船来航。その時、幕府の若手幕臣たちは何を考え、どう行動したのか?

幕末、国のために奔走した
若き〝官僚〟たち

幕末。泰平の眠りをさました黒船来航。その時、幕府の若手幕臣たちは何を考え、どう行動したのか?

『隠蔽捜査』などの警察小説で警察機構の官僚文化をリアルに描き、『武士マチムラ』『宗棍』などで琉球空手の歴史をダイナミックに作品にしてきた今野敏さん。新刊『海風』は、幕末を舞台にした歴史小説です。

迫られる攘夷か、開国か─。迫り来る欧米列強を前に揺れに揺れる徳川幕府。未曽有の国難に遭遇して、幕府の官僚たる若き幕臣たちが、国のために奔走する姿を描きます。

ベテラン作家が「今」、歴史小説に挑んだのはなぜなのでしょうか。そして、『海風』で描きたかったこととは? 今野さんにお話をうかがいました。



聞き手・構成=タカザワケンジ/撮影=露木聡子

「薩長史観」への疑問があった

――『海風』には黒船来航という国家の一大事に、江戸幕府がどう対応したのかが臨場感たっぷりに描かれています。幕府内でこんなことが起きていたのか、と知らないことばかりでした。

 私も知らないことばかりでした。だから書くのが大変で大変で。うっかり連載を始めて、「しまった」と、連載中ずっと後悔していました。

――そんな(笑)。

 本当に大変だったんです。調べることが多くて、普通の原稿の三倍から五倍時間がかかりました。

――今野さんの幕末の歴史小説としては二〇二〇年に出た『天を測る』(講談社)がありますね。主人公は咸臨丸で渡米し、算術・測量術でアメリカ人をあっと言わせた小野友五郎。『海風』にもチラッと登場しますね。

 出てきますね。あの時代、優秀な幕臣が何人もいたんですけど、その中の一人が小野友五郎です。大エリートですから出さないわけにはいかない。しかも小野はもとは幕臣ではなく笠間藩士の出で、一本釣りされた英才なんです。

――『天を測る』は小野友五郎が咸臨丸でアメリカに渡る物語ですが、『海風』はその少し前の時代を描いています。

 時代的にはつながりますね。というのは、もともと幕末から明治維新にかけての歴史にずっと疑問があっていつか小説に書こうと思っていたんです。その当時のことが薩長史観でしか語られていないのはおかしい。そんなはずないだろうとずっと思ってたんですよ。

 いろいろ調べてみると、明治政府を支えたのは幕臣なんですよね。大河ドラマの『青天を衝け』で描かれた渋沢栄一をはじめとして、大勢の幕臣が日本の近代化に貢献した。だから、幕臣、あるいは幕藩体制の側にいた人たちが何をしたかを描かないと、本当の幕末、維新は見えてこないだろうと思ったんです。私は本当は「明治維新」とは言いたくないんです。薩長が維新を成し遂げたというより、幕府が自分たちで幕を引いた。「幕府の瓦解」と言いたいんですけどね。

――そう思われるようになったのは、いつ頃からですか。

 かなり前からですね。うちの家系はもともと東北なんです。

――ご出身は北海道ですが、ルーツが南部藩だとうかがっています。

 そうです。生まれたのは北海道なんですが、我が家のルーツは、戊辰戦争のときにできた奥羽越列藩同盟に加わった南部藩。ですから、薩長史観はどうもうさんくさいとずっと思っていたんですよ。

 それに、ここ十年ぐらい、毎年、会津へ行く機会があったんです。会津若松市の会津まつりで、旧会津藩の藩士に扮した人たちが街を練り歩く「会津藩公行列」というイベントがありまして、その行列に筆頭家老の西郷頼母役で参加しました。その影響もあるかもしれないですね。会津から見るのと、薩摩・長州の側から見るのとでは、幕末から維新はまったく違って見えますから。

若きエリート官僚が躍動した時代

――今回の『海風』は幕臣の永井尚志を中心に、永井と学生時代から親しく交流していた岩瀬忠震、堀利熙の三人の活躍が描かれています。この三人を描こうと思われたのはなぜですか。

 江戸の官僚小説を書こうと思ったんです。それも現代でいえばキャリア採用で入庁して忙しく働いている若手の官僚たちを。幕末でそれに当たる人が誰かと考えたらこの三人だったんです。昌平坂学問所を出て幕臣になり、その能力を買われて取り立てられていく。現代でいえば東大法学部を出て官庁に入ったエリートたちと同じような立場です。じゃあ、この人たちで幕末を舞台にした若手の官僚小説を書けるなと。発想としてはそこからですね。

――若き官僚たちが活躍する時代として選んだのが幕末だったのですね。

 そうなんです。幕臣がやった仕事でハイライトになるなと思ったのは安政五カ国条約。江戸幕府がアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと結んだ条約です。つまり外交。現代でいえば外務官僚の仕事です。

――『海風』の冒頭は永井と岩瀬が黒船がやってきた衝撃を語っているところに堀がやってくる場面です。三人は昌平坂学問所の学友でしたが、永井はまだ大した仕事はなく、岩瀬は昌平坂学問所の教授方。家柄の良さで早くも大役を担っている堀が、永井が江戸城に呼ばれることを告げにきます。堀の従兄弟で、三人のうちもっとも頭のいい岩瀬もやがて取り立てられ、三者三様に外交に関わることになります。老中首座の阿部正弘が若手幕臣を抜擢していったわけで、江戸幕府は単なる旧体制ではなく、内部では改革しようとしていたんですね。

 あの時期の幕府はものすごいスピードで改革しようとしているんですよ。トップの阿部が急進的過ぎて、周りが「ちょっと待てよ」と止めていたくらいで。

――しかも、驚いたのはその若さです。

 永井が目付に取り立てられたのが数えで三十八歳。阿部は永井よりさらに三歳年下ですから。

――阿部のような若い老中首座が同世代の優秀な人材をピックアップした。

 そうなんです。だから、戊辰戦争さえなければ、幕臣によるいい政府ができた可能性もあったと思いますね。

――今野さんのお書きになる阿部正弘がまたいい味を出しています。永井に「かしこまるなよ」とかカジュアルに話しかけて。

 ああいう性格だったんだろうなと思いますね。ものすごくせっかちだったらしいし、どんどん現場に顔を出していたらしいですし。まだ若く、永井とは世代も近い。必然的にああいうしゃべり方になりました。後は官僚小説なので、いかにも官僚の人間関係だという雰囲気が出ればいいなと。

――なるほど。それは今野さんが警察小説でお書きになってきた警察官僚の世界と重なりますね。

 そうですね。『隠蔽捜査』なんかで培ったものだと思います。

――黒船来航でまったなし、という状況で、阿部は改革を進めようとしますが、当然抵抗もある。長く続いてきたシステムを変えるのはやっぱり難しいんだなとも感じました。

 改革するといっても、二百五十年以上続いてきた体制ですからね。基本的に幕府はものすごく保守的だと思うんですよ。そこで何か新しいことをやろうとするのは大変だっただろうと。今の日本にも似たところがあるんじゃないでしょうか。

――僕も読んでいて、まさに今の日本のことを思いました。

 官僚の大変さというか、改革の大変さは今も変わらないでしょうね。

――今の日本でいえば、高度経済成長で世界で一流の国になったという成功体験から、いまだに抜け出せないところがありますし。

 そうですね。でも、幕末はもっと根が深いんです。というのは、個人ではなく家単位でものを考えなくちゃいけない。侍にとっては家を存続させることが何より大切ですから。幕臣たちはそういう立場にいつつ、前例のないことをやろうとしたわけで、それはなかなか大変だったと思いますよ。ただ、やっぱり優秀だったんですよね、ものすごく。

したたかでなければ続かない
長崎での人間ドラマ

――永井は優等生ですが、岩瀬のような天才肌ではないし、堀のような豪胆さというか、力強い感じでもない。〝普通の人〟に近い人物ですね。

 幕臣としては卓越した仕事をした人で、『海風』のその後の時代にも活躍した人なんですよ。ただ、物語の視点人物はあまり個性がないほうがいいんです。そのほうが読者が物語に入っていきやすいので。その代わりに周りに面白いやつを配置しておかなきゃいけない。水野みたいに一癖も二癖もある人物とかね。

――長崎奉行の水野忠徳ですね。永井が目付として外交の最前線である長崎に赴任すると、木で鼻をくくったような対応を取ります。そうかと思うと永井をこき使ったり。

 ああいう人だったらしいです。小説ですから、キャラづくりはしていますけどね。調べてみたらあの人はキャリアが長いんですよ。長いこと幕府で働いていますから、ああいう清濁併せのむタイプだったんじゃないかなと思いますよね。

――したたかでなければ長くは続けられないんですね。「濃い」キャラの水野とは対照的に、もう一人の長崎奉行、石見守(荒尾成允)はすごく存在感が薄いという設定で、とぼけたやりとりに笑ってしまいました。

 ああいうクセのある人を長崎で活躍させたかったんですよね。花魁の浮舟大夫とかもそうですね。

――長崎の場面では、通詞(通訳)の描写が面白かったですね。英語ができないから、オランダ語を挟んで訳すとか。通詞にもランクがあったそうですね。

 大通詞、小通詞、稽古通詞がいました。大通詞が一番しっかりした通詞で交渉ごとの通訳を務めたのですが、それだけではなく、西洋人の身の回りの世話や、食事にまで気を配らなくてはいけなくて、大変な仕事だったらしい。そういう人たちの中には半分スパイみたいなことをやってる人もいたみたいです。そうかと思うと大通詞の話すオランダ語が古過ぎて分からないと言ったアメリカ人がいたり。

――日本語の訳がやたら大仰で、永井が戸惑うというエピソードもありましたね。

 通詞といっても、今みたいに学校でオランダ語を教えているわけじゃない。通詞は家業として、代々、伝えていくスタイルなので、それはどうしても古くなりますよね。

 でも、書いた私が言うのも変なのですが、よくあんな難しい交渉事を、そういう通詞でやれたものだなと思いますね。実際に交渉の現場を見てみたかった。どんな雰囲気でどんなことを話したのか。精いっぱい想像して書いたんですけどね。

――長崎に取材に行かれたそうですね。

 行きました。当時からある老舗の料亭に行って食べてきましたよ。作中にも出てきた和華蘭料理を。

――「日本風の和、清国風の華、オランダ風の蘭で和華蘭」と本文にありますね。お店も実在するんですか。

「一力」というお店です。有名なお店なんですよ。

――実在するといえば、歴史小説は史実に基づくことが原則ですよね。やはりそこに苦労されましたか。

 そうですね。調べながら書くのがしんどかったですね。長崎のことも登場人物を生かしてもっと書きたかったんですが、今のキャリア官僚と同じで、幕臣も異動が多いんです。二年ぐらいで異動するのは今とまったく変わらない。長崎奉行も一年ぐらいでころころ代わっちゃうので、面白いエピソードを思いついても「あ、あの人もう異動になってる」みたいなことの連続でしたね。

 誰がどこにいるかを調べるのも大変で、うっかりすると「せっかく書いたけどこの人、今ここにいないわ」みたいなことが起きるんですよ。たとえば、交渉相手になるオランダ船の艦長、ファビウスがどこにいるのか。ずっと長崎にいるわけじゃなくて、気がついたら函館にいたりする。ファビウスと永井が長崎で話をしている面白い場面が書けたと思ったら、実はその時、彼は下田で岩瀬と会っていたという史実がわかって慌てて書き直す、そんなことの連続でした。

――同じ歴史小説でも琉球空手の名人たちを描いた作品とは苦労の度合いが違いますか。

 そうですね。琉球は狭い島の中で起きていることなので、誰がどこにいたということでは、そんなには齟齬が起きないんですよ。琉球の王朝の仕組みを調べるのは大変でしたけど。

幕末の幕臣に見る「本物の官僚」とは何か

――意外だったのは、江戸幕府もかなり海外の事情をよく知っていて、しかもそれが漢籍から得た情報だということ。西洋事情を知っていたからこそ、危機を感じていたということがよく分かりました。

 漢文で書かれたものが日本に入ってきていたので、漢学者は西洋の事情に詳しかったようですね。幕府が一番頼りにしていたのは長崎のオランダ商館長に書かせたオランダ風説書なんですけど、それも漢文に訳されたものを漢学者が読んでいたそうです。

――薩長史観だと、薩長が幕府よりも外国のことを知っていたみたいな感じで描かれていたりしますが。

 実態は逆ですよね。幕府が一番知っていて、薩摩・長州にはあまり情報がなかったんです。知らないから攘夷、攘夷と騒いだわけです。それに比べたら、幕府が持っていた情報量にはすさまじいものがあって、長崎を通じて西洋人のことも知ってますし、ロシアの動きもちゃんと知っている。あの時代の外交を描くには幕府の動きは不可欠なんです。

――長崎では、地元で採用した「地役人」が重要な働きを担っている。もともと町人だった人を武士として使っているわけで、幕臣たちは現場でかなり柔軟に動いていたんですね。

 人材不足だったんだと思います。長崎の事情を知っている人を使うしかなかったんですよね、多分。

――現場で官僚たちが知恵を絞って融通無碍にやっていたということですね。

 そうだと思いますね。いきなり海軍の伝習所をつくれと上から言われても、何から手をつけていいか分からないですよね。でも、永井たちはそれをやりおおせてしまうわけです。海軍の士官を育てて、数年後には咸臨丸で太平洋を越えてアメリカまで行ってしまう。すごいことですよ。

――永井は水野に、製鉄所を併設した造船所もつくれとむちゃぶりされますしね。

 伝習所の運営に責任を持つ「伝習所総督」という役職にあったとはいえ、独断で製鉄所のための建設機械や資材を発注していますから、決断力が半端じゃないですよね。おかげでその時の長崎奉行の不興を買うんだけど。

――その時に永井がつくった長崎造船所がのちに三菱重工業長崎造船所になる。日本の近代化に大きな貢献をするわけですよね。でも、永井尚志の名前はあまり知られていません。

 永井も知られていないし、横須賀に製鉄所、造船所をつくった小栗上野介(忠順)も知られていない。小栗は本当にすごい官僚だったんですよ。江戸幕府の財政を立て直し、西洋式の軍隊を整備して、製鉄所と造船所をつくったんだから。

――小栗は永井のさらに一回り下の世代なんですね。当時の江戸幕府は、優秀な若者たちが国の危機に立ち向かった。若者たちはなぜあんなふうに前例がないことをできたんでしょうか。

 なぜでしょうね。官僚ってふつう、前例のないことはやりたがらないものなんです。でも、本物の官僚はきっとそうじゃないんでしょう。国にとって必要なことをしかるべき時にする。それが官僚なんだということもこの小説で書きたかった。どんな時にも合理的に考えて、国にとって一番いいことを進めていくのが官僚であるべきなんです。永井たちがやったことはそういうことだったと思います。

海風

今野 敏
海風
2024年8月26日発売
1,980円(税込)
四六判/344ページ
ISBN: 978-4-08-771874-4
迫られる攘夷か、開国か――。
嘉永六年(一八五三年)六月、浦賀にその姿を現した四隻のアメリカ軍艦。強大な武力をもって日本に開国を求める艦隊司令長官・ペリーの対応に幕府は苦慮していた。
清国がイギリスとの戦争に敗れ、世界の勢力図が大きく変わろうとするなか、小姓組番士・永井尚志は、老中首座・阿部伊勢守正弘により、昌平坂学問所で教授方を務める岩瀬忠震、一足先に目付になっていた岩瀬の従兄弟・堀利煕とともに、幕府の対外政策を担う海防掛に抜擢される――。
強硬な欧米列強を前に、新進の幕臣たちが未曾有の国難に立ち向かう。
現代へと繋がる日本の方向性を決定づけた重要な転換期を描く幕末外交小説!
「隠蔽捜査」シリーズをはじめ警察小説の名手が、“薩長史観”に一石を投じる!

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