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「桐島は私が来ると思ってずっと湘南で待ってたんじゃないかな…」元メンバー・宇賀神寿一が明かす「さそり」結成と東アジア反日武装戦線合流、桐島聡への想い

集英社オンライン / 2024年9月24日 11時0分

〈桐島聡と逃走した男・独占インタビュー〉東アジア反日武装戦線「さそり」元メンバー・宇賀神寿一が語る「闘争の原点」と「さそり結成まで」〉から続く

東アジア反日武装戦線「さそり」メンバーとして、7年の逃亡生活の果てに逮捕され、懲役18年の服役を終えて20年あまり。宇賀神寿一さんは大学の後輩であり、同じ「さそり」メンバーである、桐島聡さんの死を前に、「約束の9月」を思う。「そのことが、君を湘南から離れさせなかったのではなかったのか」と。

【画像】「9月に会おう」宇賀神寿一と桐島聡が待ち合わせを約束していた神社

後の「さそり」リーダー・黒川芳正との出会い

1972年夏、京都の集会で釜共闘(暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議)メンバーや、船本洲治さんと出会ったことにより、宇賀神さんは寄せ場における日雇い労働者の闘いを知った。



「東京に帰って、『面白い会議があるから』と誘われて、初めて山谷へ行った。それが『底辺委員会』で、そこで黒川くんと会った」(宇賀神さん)

1972年秋のことだ。なぜ、「さそり」リーダーとなる黒川芳正さんが山谷にいたのか。宇賀神さんの取材に同行する道中さん(仮名・前編参照)男性が、説明してくれた。

「1972年当時、山谷では『現場闘争委員会(現闘委)』、釜ヶ崎では『釜共闘』の2つが、現場で闘っていて、両者の関係を繋いだのが船本だった。現闘委の支援組織として、黒川くんを中心に『底辺委員会』が活動していた。

黒川くんは都立大哲学科闘争委員会で活動して、自分の冊子を山谷近くの印刷所に印刷に来たのが1971年。そこに当時、船本がいて、理詰めの黒川くんとはタイプがだいぶ違うけれど、2人はよく話し合っていたし、きちんと話し合える関係性だったと思う」

とはいえ宇賀神さんにとって、初めて会った黒川さんは、「不気味な印象で、近寄りがたい人」でしかなかった。

「実際、黒川くんの印象は最悪だった。でも、底辺委員会の会議に皆勤で出ていたのは、山谷について知りたかったからだと思う」(宇賀神さん)

これまで沖縄、三里塚と1人で動いてきた宇賀神さんがまさか、1年もたたないうちに、この黒川さんと「さそり」というチームを組むことになるのだ。

「私のようないい加減な人間が、黒川くんのような優等生的な活動には合わないのは確か。ただ自分には合わないけど、なんか、憧れのようなものはあったんだろうな。いろんなことが整理されていて、キチキチと行なうという」

宇賀神さんの隣で、道中さんが笑う。

「黒川くんは、喋らないから。酒も全然、飲まないし。彼は会議に出て、発言はしないけれど、ちゃんと次の日にレジメを作ってくる。当時の底辺委員会で、彼の役割は大きかった。雑多な討論の中で、きちんと方向性をレジメとしてまとめる。それは、貴重な役割。そんな人、山谷にはいないから」(道中さん)

「革命後の社会ってこんな感じかなって思えた」

この1972年冬、現闘委は初めての「越冬闘争」を闘った。越冬闘争は年末年始の役所の閉庁期間に、労働者を「野垂れ死に」させることなく、生き抜いて、衣食住の問題を解決し、仲間の団結を高めていく闘いだ。

宇賀神さんは個人として、越冬闘争に参加したことで初めて、山谷労働者のありのままを目の当たりにする。積極的にパトロールや炊き出しに参加していく労働者たちの生き生きとした姿に、血湧き肉躍る思いがした。それは、三里塚で味わった思いと同じだった。

「非常に労働者が生き生きとして、炊事活動で美味しいものを作って、人民パトロールで寝ている人を起こしてテント村に来ないかと呼びかけて、誰も死なせない活動を一緒に闘って、それが面白くて、革命後の社会、コミューンってこんな感じかなって思えた」(宇賀神さん)

1973年夏は単身、釜ヶ崎に行き、ドヤに泊まって日雇い労働をした。そこで、労働者の怒りで暴動が起きそうな場面に遭遇。しかし、群衆に紛れた私服警官がナチス棒で次々に怒りを表明する労働者に襲いかかり、火種を根こそぎ叩き潰すさまを目の当たりにした。

1973年秋は黒川さんの依頼で、現闘委の活動として高田馬場の悪徳手配業者を調査し、追放闘争の後方支援を担った。労働者の賃金をピンハネしたり、暴力で脅したり、不当労働行為の下、寄せ場労働者を酷使・搾取する「悪徳」手配業者が後を絶たなかったからだ。

対象とされたのが、新井技建だ。道中さんは当時、現闘委で実際に闘争の渦中にいた。

「労働災害が起きてもほったらかしにするわ、調査によって最低の賃金で、棒で叩いて脅してコキ使うのも明らかになった。1973年6月、朝早く南千住から現闘委が15人、国鉄で高田馬場まで行き、駅に降りた途端、みんなが走り出して、新井技建のマイクロバスをメチャクチャに壊した。この闘争でパクられたのは2人、すぐに出てきたけど」(道中さん)

これが、現闘委の悪徳業者を許さない闘いだった。宇賀神さんは野次馬の1人として、素知らぬ顔で見物していた。

「寄せ場から追放されて、当然の業者だった。私は心の中で、『思い知ったか! 反省しろ!』と叫んでいた。この後、手配師や業者の、労働者への対応が少し違ってきて、寄せ場の主人公は誰なのか、よくわかった闘いだった」(宇賀神さん)

三菱重工爆破事件と「狼」の誤算

年末年始は行政による労働者の収容施設に潜入し、現闘委と合流し、待遇改善を求める収容所闘争の事前工作を行なうなど、自分なりに納得して山谷での活動を行なっていた。

1974年春、大学で空手サークルを開くことになり、指導員として黒川さんが大学にやってきた。映画研究会やクラス闘争委員会で活動している桐島聡さんに声をかけると快諾し、空手サークルのメンバーとなった。ここで、2人の前に桐島さんが初めて登場した。

「桐島は法学部の4年生、私は社会学部の5年生、留年して。どういう映画が好きかは、彼とは話したことはない。映画といえば、当時は名前を知らなかったけど、狼のメンバー、多分、大道寺くんあたりから、『戒厳令』というフランス映画があって、都市ゲリラ“ツパマロス”がゲリラ戦の参考になるから観ろということを、黒川くんから伝えられて1人で、川崎で観たのは覚えている」(宇賀神さん)

ここで、東アジア反日武装戦線を立ち上げた「狼」の中心メンバー、大道寺将司さんの名が出てきたが、いつの時点からか、黒川さんは極秘に「狼」と接触を始めた。

「1974年の4月か5月頃、狼とはわかっていなかったと思うけど、黒川くんから武装闘争を志向しているグループとやりとりをしているという話を、この時期に聞いた」

なぜ黒川さんは現場闘争の後方支援から、武装闘争を志向するようになったのか、道中さんがこの時期の情勢を教えてくれた。

「1974年は寄せ場の運動は弾圧に次ぐ弾圧で、船本が『あいりんセンター爆破容疑』で指名手配になり、逮捕者が相次ぎ、闘いが警察に潰されてしまう状況だった。それで違うところからと、黒川くんが考えたのか……」

閉塞状況下、黒川さんと2人で話し合うことになり、宇賀神さんは釜ヶ崎で目撃した、私服警官の「リンチ」が暴動を押し込めた経緯を伝えた。やはり、寄せ場労働者の闘いを守るためには、武装闘争が必要なのだ。この日、2人はこのように合意した。

「敵に打撃を与えつつ、味方はやられない、そのようなスタイルの闘いを準備していこう」

8月30日、三菱重工爆破事件はあまりにも突然のことだった。死傷者の多さ、目を覆う惨劇に言葉もなかった。

「自分も黒川くんも、かなりショックだった。起きたことの凄まじさに、狼たちがひどく意気消沈し、力も萎え、狼狽している状態が、連絡員の黒川くんの伝聞報告からビンビンに伝わってきた。自分たちの犯した誤りに打ち震える狼たちが、あたかもそばにいるようだった」(宇賀神さん)

「さそり」と命名された本当の理由

9月23日には「爆死し、負傷した人間は“労働者”でも、“一般市民”でもない“植民者”だ」と犯行を正当化する声明が、「狼」名義で出された。宇賀神さん曰く、「居直り声明」だ。

「望んだわけではない多数の死傷者に対し、今後は決して出さないことを誓い、青酸カリでの自決を覚悟して闘うことが狼の総括だった」

三菱直前、黒川さんと宇賀神さんは水戸で、爆弾材料である除草剤を購入している。闘争の準備段階に入っていたとはいえ、惨劇を前に、武装闘争を断念する道もあったのではないか?

「身を引く、方針を変えるという気持ちにはなれなかった。黒川くんとの関係を絶ち、行方をくらますこともできただろう。しかし、私はそうしなかった。打ちひしがれている狼たちを置いて逃げるのではなく、一緒に誤りを総括して、人的被害を出さない闘いをしていこうと考えた」

10月、宇賀神さんと黒川さんは奥多摩で、初めて爆破実験を行なった。もちろん『腹腹時計』(注1)という、指南書あってのことだ。

「爆弾はほとんど黒川くんが作って、その過程を私は見ていた。わりかし簡単にできるって、書いてある通りだった。土に埋めて、導線で電池を繋げて。爆破はうまくいった」

「さそり」という命名は、黒川さんによるが、実は宇賀神さんも考えていた。

「2人で、『部隊名、どうしよう』ってなったとき、最初に私が、『黒い炎』って言ったら、即、却下。黒川くんの頭の中には、すでに『さそり』があった。大変な境遇でも、大きな敵を撃っていくイメージ。『黒い炎』は、怨念。戦前、強制連行された中国人や朝鮮人の思い」

日本人としてアジアへの加害者性に立つ視点は、東アジア反日武装戦線の根幹を成すものだ。「連続企業爆破事件」は戦前に、強制連行した中国人や朝鮮人への虐待行為の責任を問い、現在も続くアジアへの経済侵略を糺すために行なわれたものだ。決して、私たち日本人は無辜な被害者ではないのだと。それは、3部隊共通の思いだ。そのうえで、「さそり」の独自性とは何なのか。

「さそりの目的は、建設会社に寄せ場労働者への収奪・酷使を具体的に『やめさせる』こと。当時、考えたのは『効果的である』ということ」
 

爆弾闘争を開始するにあたり、「もう1人、仲間が欲しい」と黒川さんから打診があり、浮上したのが桐島さんだった。

「桐島は学内で政治的な運動をやっていて、黒川くんとも空手サークルで関係がある。何より、桐島は真面目に考える人。問題に対して、逃げることはしない人間だから」

桐島さんが承諾したことで、「さそり」は3人になった。初陣は12月23日、鹿島建設の資材置き場をターゲットとし、戦前の中国人強制連行への弾劾を込め、「花岡作戦」と名付けた。戦時下、鹿島建設の花岡鉱山に強制連行されていた中国人が過酷な虐待に対し、一斉蜂起。鎮圧後、その多くが殺されることとなったのが「花岡事件」だ。


(注1)「はらはらとけい」。1974年3月、東アジア反日武装戦線「狼」により、地下出版。自らの思想、爆弾製造方法や都市ゲリラ戦法などを記したもの。

桐島との約束「9月に会おう」

「船本も言及していたし、自分たちの意識にも花岡事件は強くあった。このときは桐島が見張りで、物置みたいなところに黒川くんが仕掛けた。実際は、花火を上げた程度だったけど。私はバイトで、この日は現場に行っていない」

2回目は、間組を対象とした。これは「さそり」が提唱し、初の3部隊合同作戦となった。題して、「キソダニ・テメンゴール作戦」。戦時中、間組が行なった木曽谷の水力発電所での中国人労働者への虐待を弾劾し、マレーシアのテメンゴールダム建設反対行動への連帯をその名に込めた。

「今、行なわれている侵略行為に対しても、告発していく。過去の行為に対してと同様、連帯の意思を表明するという」

「大地の牙」が埼玉の大宮工場、「狼」と「さそり」が東京の青山の本社を同時爆破、黒川さんが予告電話をかけた。

「桐島が途中までトランクを運んで、青山の並木の便所で私が引き取って、私が間ビル6階のロッカーの上に置いてきた。狼は、本社の9階のコンピュータールーム。テメンゴールダムの工事を、担当している部署だった」

ふと、「さそり」には爆弾製造技術で、「狼」へのコンプレックスがあったのではないかと気になった。

「そりゃ、明らかに製造能力は劣っている。さそりには、雷管は作れない。専門的な火薬の知識が必要だし。だから、狼から提供されて使っていた。大地の牙も作れない。大地の牙も、狼から回してもらっていた」

「さそり」3回目の作戦は、間組の江戸川作業所。入念な下見を重ね、夜間は人がいないと確認したにもかかわらず、1人の重傷者が出た。6日後の1975年5月4日、同じ場所でコンプレッサーに爆弾を仕掛けたのは、前回の不発弾処理のためだった。

「江戸川では桐島が爆弾を置いたから、彼は悩んでいた。負傷させてしまったと……」

5月19日。その日は、朝から雨が降りそぼっていた。テレビ画面で息急き切ったアナウンサーが、「東アジア反日武装戦線メンバー数人を逮捕」と告げた瞬間、宇賀神さんは桐島さんのアパートに走った。警察はまだ来ていない。2人で話し合って、これからのことを決めた。

「二人で行動するのは目立つから、別行動にしよう。ただ、年に1回は会おうよ」 

「さそり」とはなんだったのか?

「9月に会おう」と、再会の場所と日時を確認して、お互い、逃亡者として生きる運命に身を任せた。宇賀神さんが指定した場所は、鎌倉の「銭洗弁天」。まさか、そこが「宇賀神社」だったとは、宇賀神さんも行ってみるまではわからなかった。

「約束した時間に、私はその場所へ行った。だけど沿線で爆弾事件があって、警察が動いていたこともあり、早々に立ち去った」

それから、49年。会うことがないまま、突然の今年の一報となった。会って話をしたかったが、一縷の望みも虚しく桐島さんは亡くなり、死に顔を見ることも叶わず、亡骸は荼毘に付された。

「あの手配写真のように、明るく笑う男だったよ。桐島は私が来ると思って、待っていたんじゃないかな。湘南を離れず、神社の近くで。それが、ちょっと悲しくなる。私も逮捕されるまでは桐島に会おうと、“約束の9月”に、神社に通っていたんだよ。報道で知る限り、桐島のやさしさが多くの人に親しまれ、桐島はありのままの“我”を楽しんで生きたのだと思う」

話し終えた宇賀神さんに、「さそりとはなんだったか」と、最後に尋ねた。飄々とした笑顔で、宇賀神さんはサラリと言った。

「さそりの半年は密度濃い時間とは言えなかったけれど、その後、非常に興味深い時間に引っ張られて生かされた。逃亡中、獄中、こんな経験、なかなかできない。得がたい、いい人生だった。まだ、終わっていないけど。負傷者を出してしまったことは、悔やんでも悔やみきれないものとして残っている」


取材・文/黒川祥子

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