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芥川龍之介、永井荷風…文豪の背後にいた「校正の神様」? 出版された本の間違いを見つけ、著者に手紙を送っていた謎の人物とは…

集英社オンライン / 2024年10月6日 11時0分

誤字脱字の氾濫。事実関係を無視したデマの垂れ流し。衆参議院議院運営委員会理事会では法案に134カ所ものミスまで…「校正」の不在がもたらすもの〉から続く

通称「校正の神様」と呼ばれる人物がいた。彼こそ近代文学の生みの親であり、文学史上の最重要人物といえる——。作家・髙橋秀実氏の新刊『ことばの番人』は「校正」をめぐるノンフィクション。

【画像】谷崎潤一郎と論争を巻き起こした、芥川龍之介『文芸的な、余りに文芸的な』

本書より一部抜粋してお届けする(全2回の2回目)。※旧字体・異体字が正しく表示されない場合があります。

芥川龍之介が苦悶した「文章の口語化」

大学には「文学部」、世には数々の「文学賞」もあるように、詩歌、小説、戯曲はなぜか「文学」と呼ばれる。「文字」と見間違えそうな「文学」。「文芸」なら文の芸ということで理解できるのだが、「文学」は文を学ぶのだろうか。

文学作品とは「言語を問い直し、変容させ、言語にたいする無意識や言語が普通に用いられる場合の機械的操作から言語を引き離す」(ジュリア・クリステヴァ著『記号の解体学──セメイオチケ1』原田邦夫訳 せりか書房 1983年)そうだが、そのスタンスはやはり校正に近いのではないだろうか。

明治25年(1892年)生まれの芥川龍之介も何を書くかということより、どう書くかで悩んでいたらしい。

『文藝的な、餘りに文藝的な』(芥川龍之介著 岩波書店 昭和6年 以下同)によると、彼は「詩的精神を流しこん」だ「リアリズム」を貫き、「我々人間の苦しみは救ひ難い」と訴える「ジヤアナリズム」(ジャーナリズム)を書こうとしていたそうなのだが、書くにあたって「文章の口語化」という問題に向き合っていた。

それまでの漢文調から「しやべるように書け」という風潮の中で苦悶したのである。

しかし僕等の「しやべりかた」が、紅毛人(筆者注/広くは欧米人のこと)の「しやべりかた」は暫く問はず、隣國たる支那人の「しやべりかた」よりも音樂的でないことも事實である。

日本人のしゃべり方は非音楽的で書き言葉に向かないとのこと。さらに彼は「『書くやうにしやべりたい』とも思ふものである」と告白している。しゃべるように書きたいが、書くようにしゃべりたい。文章の口語化は口語の文語化を伴うようで、そのあたりのリアルな救い難さこそが「文学」だったようなのである。

13ページにわたって483カ所もの誤植のワケ

さらに私が驚かされたのが大正期の小説『銀の匙』(中勘助著 岩波書店 大正10年 以下同)だった。小説の冒頭にいきなり正誤表が掲げられている。13ページにわたって483カ所もの誤植が発表されているのである。その序文に曰く、

送り假名法や句読法や漢字のあてかた──漢字をあつべきか否か及びあてる場合の文字の選擇──前者に關しては私が最初假名を用ひたのをその原稿について御厄介になつた夏目先生の意向を尊重して漢字に書きかへたところが澤山ある──のかへたいのが無數にある。

いきなり校正の釈明。まるで校正の本なのだ。

序文の文章は非常に読みにくいので、あらためて整理すると、この小説はもともと新聞に連載していたものだったという。夏目漱石先生の意見を尊重して漢字や送り仮名を使ったのだが、著者本人としては不本意だった。

そこで単行本化する際にあらためて訂正しようと考えたのだが、本人の「不注意」から新聞の切り抜きがそのまま発行所に回ってしまい、いつの間にか印刷ができあがってしまった。

そこで「手を入れることは印刷所へも發行所へも非常な迷惑をかけることになるし、といつて全然新規に印刷し直すほどの熱心も私になかつたので、用語、文章等の是非とも變更したいところ、及び本當の誤字、誤植だけを正誤表にして附け加へて、そのほかはそのまゝにすることにした」そうなのである。

まわりに迷惑をかけるほどの熱意もないので、最低限の文章の直し、誤字脱字などを正誤表にまとめたとのことで、それゆえ、

この書物はいはゞ未成品なのであるが、それはいつかまた完成の機會があらうと思ふ。さういふ譯で次の正誤表も普通の意味での正誤表ではないのである。

自身の小説は未完成で正誤表も未完成。不本意だと言いたいのか、責任を回避したいのかよくわからないのだが、冒頭から延々と続く正誤表と言い訳を読まされると、小説の内容はまったく頭に入らず、文字遣いの揺ればかりが目に留まる。

この漢語はさっきはひらがなではなかったか。これは誤字ではないか。活字が破損しているのか。途中で主語がすり替わっていないか、とか。知らずのうちに読者ではなく、校正者になってしまうわけで、これこそ文というものを学ぶ。すなわち「文学」ではないだろうか。

名作誕生の裏には、校正の神様がいた

実際、今日の文学の礎(いしずえ)を築いた人々、例えば、有島武郎や斎藤茂吉、坪内逍遙、与謝野晶子、芥川龍之介、永井荷風、佐藤春夫などは校正されていた。

正確にいうと、彼ら自身が校正されていることを高らかに公表していた。誰に校正されていたのかというと、通称「校正の神様」。彼らは神様に校正されていたのである。

神様の名前は神代種亮(こうじろたねすけ)。実は彼こそ近代文学の生みの親なのである。文学史上の最重要人物といえるのだが、調べてみると「帚葉山人(そうようさんじん)」「校字郎(こうじろう)」「加宇字呂(かうじろ)」など様々な別名を持っており、今ひとつ正体がつかめない。

『書國畸人傳』(岡野他家夫著 桃源社 昭和37年 以下同)によると、彼は明治16年(1883年)、島根県津和野町生まれ。松江師範学校を卒業して地元の学校で教鞭をとった後に上京し、海軍文庫の図書係になったという。

勤務時間外も読書に明け暮れ、大正デモクラシーの旗手である吉野作造らが結成した「明治文化研究会」にも参加する。

神代は「とりわけ文字のことに精通していて、校正の事には格別に秀でていた」そうで、出版された本を読んで間違いを見つけ、著者に手紙を送って間違いを知らせていた。著者たちの間でそれが評判になり、「その特技が識者や出版関係者の間に認められて、種々の全集や、諸作家の小説集などの校正を懇請されるようになった」らしい。

確かに芥川龍之介の『黃雀風(こうじゃくふう)』(新潮社 大正13年)や『支那游記』(改造社 大正14年)を開いてみると、その冒頭に「神代種亮校」と明記されている。こうして校正者の名前が表記されるのは今でも珍しいことで、永井荷風などは『濹東綺譚』のあとがき(「作後贅言」)で神代種亮への思いを綴っていた。

濹東綺譚は若し帚葉翁(筆者注/神代種亮のこと)が世に在るの日であったなら、わたくしは稿を脱するや否や、直(ただち)に走って、翁を千駄木町の寓居に訪(おとな)い其の閲読を煩さねばならぬものであった。

(永井荷風著『濹東綺譚』新潮文庫 平成23年 以下同)

神代種亮は真っ先に校正してほしい人。自宅に駆けつけてでもチェックを受けたい人だったのである。

彼は文字のみならず風俗にも精通しており、小説の舞台になった界隈のことをたずねても「市中より迷宮に至る道路の地図を描き、ついで路地の出入口を記し、その分れて那辺(なへん)に至り又那辺に合するかを説明すること、掌(たなごころ)を指すが如くであった」という。

常日頃から町を観察し、人の出入りなどの記録もつけており、銀座が実は関東大震災以来、関西や九州の出身者で占められていることも彼から学んだらしい。神代は和装から洋装への変化にも敏感で、こう警告していたという。

一度崩れてしまったら、二度好くなることはないですからね。芝居でも遊芸でもそうでしょう。文章だってそうじゃないですか。勝手次第にくずしてしまったら、直そうと思ったって、もう直りはしないですよ。

校正の神様からの苦言。なんでも彼はいつも白足袋に日光下駄を履いており、「風采を一見しても直に現代人ではない事が知られる」とのこと。その存在感は浮世から離れてこの世を校正するようだったらしい。


文/髙橋秀実 サムネイル/Shutterstock.

ことばの番人

髙橋 秀実
ことばの番人
2024年9月26日発売
1,980円(税込)
四六判/224ページ
ISBN: 978-4-7976-7451-4

校正者の精緻な仕事に迫るノンフィクション。
日本最古の歴史書『古事記』で命じられた「校正」という職業。校正者は、日々、新しいことばと出合い、規範となる日本語を守っている「ことばの番人」だ。
ユーモアを忘れない著者が、校正者たちの仕事、経験、思考、エピソードなどを紹介。
「正誤ではなく違和」「著者を威嚇?」「深すぎる言海」「文字の下僕」「原点はファミコン」「すべて誤字?」「漢字の罠」「校正の神様」「誤訳で生まれる不平等」「責任の隠蔽」「AIはバカともいえる」「人体も校正」……
あまたの文献、辞書をひもとき、日本語の校正とは何かを探る。

【本文より】
文章は書くというより読まれるもの。読み手頼みの他力本願なのだ。世の中には優れた書き手などおらず、優れた校正者がいるだけではないかとさえ私は思うのである。

【目次より】
第一章 はじめに校正ありき
第二章 ただしいことば
第三章 線と面積
第四章 字を見つめる
第五章 呪文の洗礼
第六章 忘却の彼方へ
第七章 間違える宿命
第八章 悪魔の戯れ
第九章 日本国誤植憲法
第十章 校正される私たち

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