ドラフト1期生・広野功は、なぜドジャース入団を断ったのか…メジャー球団から求められた「覚悟」と父からの切腹寸前の猛反対
集英社オンライン / 2024年10月21日 11時0分
慶應義塾大学時代に長嶋茂雄の通算本塁打記録(当時)である8本に並ぶ活躍を見せ、ドラフト3位で中日に入団した広野功。中日含め3球団を渡り歩き、引退後は中日スポーツ記者、コーチ、編成部長などを務めた生粋の野球人の彼だが、実は中日に入団する前にドジャース入りの話があった。しかしそれはとある理由で幻となってしまった…。一体何が起きていたのか。
『野球に翻弄された男 広野功・伝』(扶桑社)より、一部抜粋、再構成してお届けする。
日本学生選抜のユニフォームは「KOMAZAWA」だった?
1965(昭和40)年11月17日、日本のプロ野球界ではじめてのドラフト会議が開催され、広野功はいわばドラフト一期生として中日から3位指名を受けて入団している。
だが本人としては、大学3年の頃から、アメリカに目が向いていたという。
広野がアメリカを意識したきっかけは、3年次の1964年10月11日に開催された東京五輪のデモンストレーションゲームだ。
この日、日本学生選抜と社会人選抜がそれぞれ全米アマチュア選抜と1試合ずつ戦い、神宮球場には約4万5000人の観衆が集まった。
そして、大下剛史(駒澤大、元・東映など)や長池徳士(法政大、元・阪急)、末次民夫(中央大、元・巨人)、武上四郎(中央大、元・サンケイ、ヤクルト)など錚々たるメンツの中で広野は4番ファーストとして起用されたのである。
「帽子には『J』と書いてましたけど、共通のユニフォームまで作る時間や取り仕切る連盟がないから、みんな駒澤大のユニフォームを着させられました。その前の日本選手権で駒澤大が優勝したせいで、駒澤大から選ばれたメンバーが多かった。だから、他の大学の選手も『KOMAZAWA』ユニフォームで揃えなさいということ。なんとも乱暴な話なんですよ」
ちなみに、社会人選抜も同様で都市対抗野球で優勝した日本通運のユニフォームを着用。胸には「JAPANEXPRESS」の文字が刻まれた。
そんなちぐはぐなユニフォームに、広野は苦笑いするが、試合が始まるとそんな不満は吹き飛んだという。
広野に興味を示したドジャース
アメリカの選手のプレーや体格に圧倒されたのだ。
試合は学生選抜は2対2でアメリカと引き分け、広野はノーヒットに終わる。ただ、この経験を経て広野のなかでは、アメリカで野球を学びたいという思いが沸々と湧いたのである。
その気持ちを受け止めたのが、慶應大の前田監督だ。
「お前なら、日本石油、日本鋼管、カネボウだろうが、慶應ラインでどこへでも行けるが、就職どうするんだ?」と進路を尋ね、これに広野が「アメリカに行きたい」と即答すると、さっそく動き出したのである。
前田は伝手をたどり、繋がったのは鈴木惣太郎である。
鈴木といえば、プロ野球草創期の日米野球交流に尽力し、野球殿堂入りも果たした日本球界を語るうえで欠かせない人物だ。
1934(昭和9)年の日米野球の際は来日を渋るベーブルースの説得のため、アポ無しで散髪中の彼のもとを訪れたことは有名である。
また、戦後はプロ野球再興のため、GHQに接収されていた神宮球場、阪急西宮球場、阪神甲子園球場の解除に奔走したことでも知られる。
アメリカとの太いパイプを持つ鈴木は「そのフロンティア精神は素晴らしい。応援する」と快諾し、ドジャースのオーナーだったウォルター・オマリーへ話を持っていったのだ。
六大学を代表するスラッガーだった広野に興味を示したドジャースは調査を開始し、当時中日にドジャースから臨時コーチとして来日していたハートフィールドに広野のレポートを出すよう指令が下った。
アジア大会で3本塁打、これ以上ないアピールをしたが…
長嶋(茂雄)に並ぶ記録を打ち立てた六大学野球のスターが日本球界をスルーしてアメリカに渡ると聞きつけたマスコミも騒ぎ立てる。
10月22日には『スポーツニッポン』が早くも「広野ドジャースへ」という記事を飛ばした。
記事では西鉄スカウトが「ドラフトなんか作るからいい選手がどんどん逃げていってしまう」と言えば、近鉄の永江球団社長も「ランクの書き直しをしなくてはいけない」とコメントを発するなど球界全体が広野の動向に注目していたことがうかがえる。
このようななか、1965(昭和40)年11月17日、第1回ドラフト会議が開催される。前出スポニチの記事では中日スカウトが広野に対して「精神的な弱さ、つまり野生味に欠けるような感じはあるが……」とコメントしていたが、当の中日から広野は3位で指名されたのである。
ただ、広野の心はすでにアメリカにあった。中日の指名を意に介さない男の目は、ハートフィールドの視察がある12月4日からのアジア大会を見つめていた。
早稲田大学野球部の安部球場で大会前の合同練習が行われると、メンバーは開催地のフィリピン・マニラを訪れた。
5勝1敗で優勝を果たした日本チームを牽引したのは、3本塁打を放った広野だ。合同練習から視察に訪れていたハートフィールドへ、これ以上ないアピールぶりだった。
「アジア大会後の12月25日、前田監督、鈴木さんと帝国ホテルで飯を食いながら、ドジャースから送られてきた視察内容の手紙を読んだんです。そこには、獲得の意思が書いてありましたが、留学というんじゃなしに、骨を埋める覚悟があるなら受け入れてやろうという条件付き。というのも、マッシー村上さんの問題が影響してるわけですわ。広野もマッシー村上のようになっては困るとオマリーさんは思ったわけです」
マッシー村上こと村上雅則はアジア人初のメジャーリーガーだ。
1964年に南海ホークスの選手としてアメリカへ野球留学に来た村上は、マイナーからメジャーへ昇格。メジャーで投げるには契約書へのサインが必要なのだが、これが南海との二重契約となり、日米間で問題となったのである。
こうした経緯もあって、オマリーは広野へ「覚悟」を求めたのだ。
アメリカに骨を埋める覚悟とは、徳島の実家との離縁に等しい。とても、自分だけでは決められなかった。この日、広野は父へ初めてアメリカ行きの希望を伝えた。
「親父は明治生まれで、満州に渡って、敗戦後に命からがら引き上げてきた男ですからね。『アメリカなんてとんでもない!中日が指名してくれたのにどういうことや、ふざけるな!』と。息子がアメリカへ行くようなら切腹しなきゃいけない、ぐらいの勢いで、反対されたわけですわ」
広野の父親にとっては、まだアメリカは敵国であり、戦後は終わっていなかったのである。
また、広野の次兄は経済的に浪人ができなかった。そんな事情もあり、次兄は阪急へと入団し、プロで得られた給料で広野家の家計を助けたのである。
そんな家庭事情のなかで、広野は万全のサポート体制で慶應大に合格したのだ。一家総出で支援した結果、アメリカに骨を埋めるとはどういうことかと怒る父の気持ちもわからなくはない。
当の広野もアメリカの技術を学び、将来は日本のプロ野球で活動したいと考えていたため、アメリカに骨を埋めるつもりは毛頭なかった。
こうしてドジャースへ断りを入れ、広野のメジャー球団との契約は幻と消えたのだった。
文/沼澤典史 写真/Shutterstock
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