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厚労省が日本国内の認知症患者が700万人に達すると予測「認知症の人には、言葉以外はすべてある」と脳科学者は言うが…我々はどのように向き合うべきなのか

集英社オンライン / 2024年10月20日 16時0分

日本と同じ? イギリスでも法律上は「軍隊の保持」が禁止されている――今こそ、自衛隊と憲法9条について議論しよう。リベラルが読むべき1冊、保守が読むべき1冊とは。〉から続く

ノンフィクション本の新刊をフックに、書評のような顔をして、そうでもないコラムを藤野眞功が綴る〈ノンフィクション新刊〉よろず帳。今回は、脳科学者の恩蔵絢子と信友直子(映画監督)による『認知症介護のリアル 笑いと涙の母娘の日々(そして時々、父も)』(ビジネス社)から垣間見える日本社会の歪みと、共助と寛容のための「財源」について――。

【画像】母が母でなくなってしまうかもしれない…認知症のリアル

65歳以上の5人にひとり

厚労省の予測によれば、早くも来年、日本の認知症患者は700万人に達する。65歳以上の5人にひとりだ【1】。かつて痴呆症と呼ばれた病は「認知症」と看板を付け替えられたが、名前を変えたからといって、病の本質が変わるわけではない。

認知症は、人の知性を委縮させる【2】。それは否定しがたい科学的事実である。

認知症はときに「子供がえり」とも云われるが、認知症患者の「間違った行動」が、幼い子供らの「間違った行動」のように優しく受け取られることは少ないかもしれない。子供らは日々成長して、いずれ社会を支える働き手となるが、認知症患者の知性は委縮していく一方で、成長の見込みはないからだ【3】。

認知症患者は、社会や家庭の厄介者――日々を重ねるごとにできないことが増え、最後には何もできなくなる。脳科学者の恩蔵絢子と信友直子(映画監督)はこうした人間観に抗い、それぞれ興味深い作品を発表した。

高学歴シングルと老親

恩蔵が書いた『脳科学者の母、認知症になる』と、信友が監督した映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』はほとんど同時に発表され、2018年、2019年に話題を呼んだので、タイトルに覚えのある読者も多いだろう【4】。

作品を発表した時期以外にも、恩蔵と信友にはたくさんの共通点がある。まず、ふたりは高学歴者だ。恩蔵は上智大学を経て東京工業大学で博士号を取得、信友は東京大学を卒業している。そして未婚者でもある。彼女らの両親がともに存命で、父ではなく母が認知症を発症したことも重なっている【5】。

ひとつだけ大きく違うのは、両親との生活の密度だ。恩蔵は以前から両親と同居しており、信友は年に一度帰省するかどうかの別居。同じ主題に挑み、同時期に売れたにもかかわらず、これまで接点のなかったふたりの対談を組んだ『認知症介護のリアル 笑いと涙の母娘の日々(そして時々、父も)』からは、立場の違いが綾なす組み合わせの妙と、是正されるべき日本社会の歪みが垣間見える。

労働生産性が低い者

評者は先に、恩蔵と信友が同じ主題に挑んだと書いたが、これは「母親が認知症になった」という共通点を指しているのではない。上っ面の表現を採るなら、ふたりは「人が、如何にして他者を受け入れ得るか」を自らの経験として実践し、思索したと言うことができる。

では、嫌われる言い方に書き換えるとどうか。彼女らが思い悩み、ついに突破するに至った共通の障壁とは何だったのか。それは「労働生産性が低い者を、我々はいかにして包摂し得るか」という問いである。

たとえば、母親に認知症の兆候を認めた恩蔵は、科学的事実を告げられることを怖れるあまり、1年近くも専門医に診せることができず、ただ泣き暮らしていた。

このままでは〈母が母でなくなってしまうかもしれない〉【6】と、思いあぐねた恩蔵は懊悩の末、ひとつの信念に殉ずる覚悟を決める。

〈私はアルツハイマー型認知症の人に関しては、言葉以外のものは全部あると思っています。言葉にするのが苦手になるだけ(…)言葉でうまく言えないだけで、認知症のある人も健康な人と同じようにすごく複雑な感情を持っていると思うんです〉【6】

それでも彼女は、脳科学者として「科学」と「自らの思い」に一線を引くことは忘れない。〈アルツハイマー型認知症の人に関しては、言葉以外のものは全部ある〉も〈認知症のある人も健康な人と同じように複雑な感情を持っている〉も、現時点では科学的事実と断定はできないので、末尾には必ず〈思う〉と付け足している。

「明晰な瞬間」の驚きと歓喜

しかし、実際に身の回りに認知症を患う者がいる人の中には、恩蔵の信念を経験則として確信する向きもあるだろう。評者もそのうちのひとりだ。およそ柔和な表情というものが消え失せ、言葉を失い、湯飲みの上げ下げすら叶わなくなった者が、久方ぶりに会った友人に対して、その友人のためだけの言葉を口にした後、涙を流す。

ラシッド・モーメント(明晰な瞬間)の驚きと歓喜は、目の当たりにした者の胸中に深く染み入る。

知性も感情も十全に保持されているにもかかわらず、外部に向かって「表現することだけができない」という状態を、誰にでも分かりやすく形容するとしたら、ジョーダン・ピール監督の映画『ゲットアウト』における呪術(催眠術+手術)の描写が適当かもしれない。

この映画における呪術は、マトリョーシカのような「心身二元論」として表現される。肉体としての「自分」の内側に、精神としての「自分」が入れ子になっているわけである。呪術をかけられる以前には、「内側の自分」と「外部から見える、肉体としての自分」はシンクロしているが、呪術によってその連携は断たれてしまう。

内側にいる「本当の自分」は生きており、動いている。しかし、その意思や動作や感情は外側のマトリョーシカには反映されない。

人権と科学的根拠

認知症がもたらすディスコミュニケーションの有様を、あたかも脳性麻痺のように捉える恩蔵の人間観を「非科学的だ」と切り捨てることは難しくないだろう【7】。

だが「科学的根拠に基づかない人間観」を即座に間違ったものとみなすのであれば、「ひとりひとりの人間が基本的人権を有する」という理屈もまた間違っているということになってしまうのではないか。天賦人権説には、科学的根拠など存在しない。

ようするに、近代社会の根柢を支えているのは一種の「道徳的人間観」なのである。

なぜ、恩蔵は目に見える行動や言葉ではなく、目に見えず、聞こえないもの、あるいは見えたもの、聞こえたものとは異なる意味を「じつは内面は保持している」と信じることを止めないのか。それは彼女(や信友)が、母親を愛し続けたいからだ。

恩蔵が重ね重ね強調する「その人らしさ」とは、すなわち「主体性」である。自分自身の判断で、自らの意思を行動に移し、その結果の責任を負う。主体性は、一般的にはそのように捉えられているが、恩蔵は「判断(意思)」と「行動(結果)」を切り離して受け取ることの重要性を説いている。

つまり、「表現すること」それ自体が大切なので、その「失敗」の責任を直接本人に負わせるのは誤りだというのが、彼女の主張の本質なのである。失敗によって生じる損失ないし負担は、余力のある者(家族や社会)が解消すればよい【8】。

この思想は、恩蔵や信友のような介護者だけではなく、認知症の当事者たちの求めにもぴたりと重なる。

社会的弱者とは誰か

たとえば、若年性アルツハイマーの当事者であることを公表している丹野智文は、著書『認知症の私から見える社会』の冒頭で、自身が考える「正しさ」を説いている【9】。

〈「正解」か「間違い」かで判断するのではなく、みなさんが関わる認知症の人たちが「幸せと感じているか」を振り返っていただきたい(…)喋れない人の話は、誰かが代弁したら良いし、道具を使えない人には使えるようにサポートしたら良いのです〉【10】

丹野の言い分はよく理解できる。認知症の当事者たちが主体性を発揮し、幸せを感じることができるような手厚い支援体制が整った社会は理想的だろう。だが、それは認知症の者たちだけに限った話なのだろうか。恩蔵と信友のやり取りから浮かび上がる社会変革の要件は、特定の病を患う者ではなく、すべての社会的弱者の包摂を要請するはずだ。

言葉狩り

ねじくれた言い方に見えるかもしれないが、こうした人間観は、根本的には――第5回の本コラムで触れたように――ヘイトスピーチ条例を始めとした「法的な表現規制」の不毛と党派性を示唆するだろう。

外国籍の者や特別永住者に対する憎悪的言説とされる「日本が嫌なら、祖国へ帰れ」は、それを叫ぶ者の感情や思想、その人自身を正確に表してはいないかもしれない。

決まりきった安直なフレーズを咄嗟に使わざるを得ないほど話者の怒りを喚起している、現今の拙速な移民導入や特別永住者をめぐる報道や政策の功罪を問い、議論することをせず、ただ舌足らずな言葉を発した者だけを取り締まるのは、言論の自由を圧殺する振舞いに等しいのではないか。

相反する考えを持つ集団を批判する際、メディアも活動家も、相手方の「上等な言論」に挑むのではなく、手軽に「底」を拾って叩く。SNSの書き込みは、そうしたみっともない戦い方に使うには最適だが、それはもはや議論ではない。流麗な言葉を持たない人々がやむを得ず使う言葉は、決して彼らの真情を代弁しないからである。

たとえば、恩蔵は言う。

〈ある日、母の友人が母を音楽会に誘い出してくれた。帰ってきた母に感想を尋ねると、「ぜんぜん上手じゃなかったわ」と返ってきた。

ところがその二時間後の夕食中、再び音楽会の話題になると「すごく上手だったのよ」と正反対のことを言った(…)こう聞かれれば、こう答えるけれど、ああいう聞かれ方には、ああ答えるということがあるのであって、ひとつの出来事に対して、ひとつの見方しか持ってはいけないなんて、論理を通せなんて、生身の人間を縛るべきではないのかもしれない、と母を見ていて思った〉【11】

憎悪的な言葉は、彼らの憎悪を証しするのではなく、ただ、彼らが置かれている状況に怒っていること、ストレスや悲しみを感じているという事実を示すだけだ。こうした「言葉狩り」は、「怒りの感情を表明すること」それ自体の禁止に直結する。

それでもなお、法的規制を表現の圧殺ではないと捉える者は、結局、自己および自己が属する利益集団の権力獲得にしか関心がないのだろう。

同様に、日本国民を「劣等民族」と呼び、鼻で嗤ったジャーナリストの青木理について、その言葉だけを理由に彼をキャンセルしようと画策する動きも間違っている。出演の自粛に快哉を叫ぶのではなく、そうした発言に至る彼の真意や狙いを論じ、議論することこそがメディアの務めではないのか。

金持ちに課税せよ

最後にひとつ、介護経験者である恩蔵や信友、認知症の当事者である丹野の著作に共通する「沈黙」についても触れておきたい。

彼らは共助や寛容の必要性を説くが、社会全体で助け合うために必要な資金(財源)を誰が負担すべきであるかについては、ほとんど語らない。この点については、ごく当たり前に考えて「我が国には、社会保障のための財源が不足しているので、金持ちの税負担を大幅に上げろ」と言うほかないのではないか。

評者は、努力の成果としての一定の格差を肯定するが、資本主義を我が国の「正典」であるとは考えていない。我が国の「現下の正典」は自由民主主義であり、資本主義はその隷下に付随しているはずだからだ。

野村総研の推計【12】によれば、純金融資産保有額が1億円以上5億円未満の富裕層、5億円以上の超富裕層は、日本国内に約149万世帯。その純金融資産総額は、364兆円に上る。中間層、低所得層の「勤労所得」への課税をこれ以上重くする前に、まずは超富裕層、富裕層の保有資産に課税するのが、人間的な筋というものではあるまいか。

これは個人の努力の否定でも、無効化でもない。超富裕層と富裕層に重課しても、相対的な格差は残り続けるからである。

文/藤野眞功

【1】飯塚友道『認知症パンデミック』(ちくま新書)を参照。

【2】本稿における〈認知症〉は、もっとも患者数の多いアルツハイマー型認知症を指す。

【3】後述する丹野智文のように、若年性認知症を発症しても働いている者もいる。

【4】信友が監督した映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』の公開は、2018年。映画をもとにした同名の単行本(新潮社)の刊行は、2019年。恩蔵の著書『脳科学者の母が、認知症になる 記憶を失うとその人は〝その人〟でなくなるのか?』(河出書房新社)の刊行は2019年である。

【5】両親が存命だったのは「脳科学者の母が~」および「ぼけますから~」刊行時の状況である。「認知症介護のリアル」刊行時には、ふたりの母は亡くなっている。

【6】「認知症介護のリアル」より引用。

【7】恩蔵は、専門家としての科学的知見を用い「その人らしさの定義」を拡張することによって、認知症が「拡張された定義における人格」に与える影響を少なく見積もることに成功している。
評者は「知性に基づくコミュニケーション能力」を、一般に定義される「その人らしさ」だと規定しているので、両者の定義にはズレがある。そのため、評者の見地からは「拡張された定義におけるその人らしさ(知性に基づくコミュニケーション能力以外の要素を、その人らしさに含めるという考え方)」は〈非科学的〉である、ということになる。

【8】財源と実現性の観点から、福祉に関する現実的な議論はユートピア的無国境主義ではなく、国民国家の単位でおこなわれるのが常である。

【9】丹野智文『認知症の私から見える社会』(講談社+α新書)

【10】「認知症の私~」より引用。

【11】恩蔵絢子『脳科学者の母が、認知症になる』(河出文庫)より引用。

【12】2023年3月1日 株式会社野村総合研究所ニュースリリースhttps://www.nri.com/-/media/Corporate/jp/Files/PDF/news/newsrelease/cc/2023/230301_1.pdf

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