横浜流星演じる2025年NHK大河の主人公・蔦屋重三郎はなぜ、大勢の売れっ子狂歌師を囲うことができたのか?
集英社オンライン / 2025年1月4日 12時0分
蔦屋重三郎は版元でありながら、自ら狂歌師となり、江戸中期に盛んだった狂歌のサークルに参加。また「吉原連」というサークルのスポンサーになり、舟遊びや宴会などのイベントを開催した。それは、版元・狂歌師・ファンの読者にとってまさに「三方よし」のビジネスモデルの構築のためだったのだが、その革新的な手段に至った経緯にはどのようなことがあったのだろうか。
【画像】蔦屋重三郎を「風流も無く」と書いた曲亭馬琴の生誕の地
本稿は、車 浮代著『蔦屋重三郎と江戸文化を創った13人』(PHP文庫)を一部抜粋・編集したものをお届けする。
なぜ蔦重は、自ら狂歌師になったのか?
のちに蔦重(つたじゅう:蔦屋重三郎の当時からの略称)のもとで手代をしながら才能を開花させた作家、『南総里見八犬伝』で知られる曲亭馬琴は、蔦屋重三郎のことを次のように書いています。
「顧(おも)ふに件(くだん)の蔦重は風流も無く文字もなけれど、世才人に捷(すぐ)
れたりければ、当時の諸才子に愛顧せられ、其資(たすけ)によりて刊行の冊子、皆時好にかなひしかは、十余年の間発跡して一二を争ふ地本問屋になりぬ」(『近世物之本江戸作者部類』)
蔦重は学識がなく、文化的素養を持っていたわけではなかったけれど、人一倍の才覚は持っていて、当時いた多くの賢者たちから愛された。
その結果、出す本がことごとく時代のニーズに合致し、一、二を争う版元としてのし上がった……と。
もちろんアイデア力に優れていたことは確かですが、近くにいた人間からは、「有力な知識人たち皆に愛された」ことが、成功の大きな要因だったように見えたわけです。
『吉原細見』を独占販売することになった1783年、蔦重は江戸の商業の中心地であった日本橋通油町(とおりあぶらちょう)に、新たな「耕書堂」の店舗をオープンします(1号店は吉原)。
これはハリウッド映画のスケールでいえば、スラム街で生まれた子供がウォール街に本社を構えるようなもの。この店を本店とし、蔦重は江戸一番の版元を目指して躍進します。
そしてこの頃から蔦重は、「蔦唐丸(つたのからまる)」を名乗り、“狂歌師”としても活動してゆくことになります。
もちろん現在も、自ら作家として本を書いたり、句集を作る出版社社長はいますが、それでもレアなケースには違いないでしょう。
曲亭馬琴に「風流も無く」と書かれてしまった蔦重。
数々の文才に囲まれながら、自身の文才が劣っていることは十分に認識していたと思うのですが、それでも狂歌師を名乗ったのには人脈を築く、という意図があったと考えられます。
「三方よし」のビジネスモデル
そもそも「狂歌」とは、一体どのような文学だったのでしょうか?
五・七・五・七・七で詠む詩という点では、古代からの和歌と変わりません。
まずは五・七・五の俳句から、季語を無視して、社会風刺や世相の滑稽さを盛り込んだ川柳が先にブームとなります。
その後、十七文字では言い足りない、あるいは上の句を詠んで、別の人間が下の句を詠む連歌遊び(日本テレビの『笑点』でよくお題に出されるアレです)を楽しみたいと、五・七・五・七・七で作るようになった知的な創作活動として、狂歌が江戸中期にブームとなったのです。
唐衣橘洲(からごろもきっしゅう:小島源之助)、朱楽菅江(あけらかんこう:山崎景貫[かげつら])、四方赤良(よものあから:大田南畝[なんぼ])など、著名な狂歌師が続々と登場します。その中には文学者としての顔を持つ、先の平賀源内もいました。
そして彼らは、今でいうコミュニティやサロンのようなものを作り、互いに創作した狂歌を見せ合い、競い合ったのです。
全盛期には江戸に十数組の「狂歌連」といわれるサークルがあり、狂歌人気を支えていました。
この狂歌のサークルに、版元の経営者である蔦重が参加することは、そのまま大勢の狂歌師を人脈に加えることになります。
それは自身でも狂歌を作り、ただ親しくなるというだけではありません。
蔦重は「吉原連」というサークルのスポンサーとなり、まさに江戸の情報発信地である吉原を起点にして、狂歌師を集めて舟遊びをしたり、宴会を開催したりというイベントも行っていました。
狂歌師たちにとってみれば、版元の経営者との人脈ができることは、自分の本の出版にとってありがたいことです。そのうえ、数々の接待込みのイベントに招待されるとあれば、ますます蔦重と懇意になりたくなるもの。
狂歌師たちを集めるイベントでは、皆その場で歌を詠み、披露します。その歌をまとめて書物として刊行すれば、人気の狂歌師たちの作品集が、あっという間にできてしまいます。
これは狂歌師にとっても、ファンの読者にとっても、非常にありがたいことです。
しかも原稿料はタダなので、本の売り上げで、イベント開催費や接待費がペイできることは想像に難くありません。
開催地である吉原も潤います。これぞ「三方よし」の、皆が幸せになれるビジネスの極意です。
また狂歌師には、物語を書く人もいれば、戯曲を書く人もいる。中には絵が描ける人もいます。
そうすると狂歌師のサークルで知り合った著者を想定して、さらにたくさんの企画も考えられます。
こうして蔦重の出版は、多くのジャンルで、幅広い読者層へ広がってゆくことになりました。中でも大きかったのは、挿絵を多用したビジュアル化でした。
フルカラーの「錦絵」が誕生
狂歌がブームになっていたとはいえ、それは文字で書かれた詩です。
興味のない人は手に取って詩集を読もうと思わないし、ましてや普段から書物を読む習慣のない人には、貴重な本も無価値な品でしかありません。
しかし、これに絵を挿入したら、どうなるでしょう?
現代でも、「小説は読まないけれど、漫画は読む」という読者は大勢います。
また、難しい経済の理論や世界情勢の話でも、漫画や図解でわかりやすいものにすれば、「皆が手に取ってくれる」ということは考えられます。
古くからの日本の出版物は、木版画で摺られていました。墨一色の文字摺りだけだったものに、やがて挿絵が入り、その挿絵が人気となって、独立した浮世絵版画が誕生したのが江戸時代初期のこと。
墨一色の絵では物足りないと手彩色(てさいしき)が施され始めますが、1枚1枚手で塗っていては量産できないので、墨絵に紅と緑の版を摺り重ねる「紅摺絵(べにずりえ)」というものが出回ります。そこから一挙にフルカラーの「錦絵」が誕生しました。
18世紀の中頃になると、役者や力士を描いた錦絵が登場し、町人たちの人気を集めていました。勝川春章などの、有名な浮世絵師も世に登場しています。
そこで狂歌集を作る際、蔦重は人気絵師の挿絵を大きく入れた「狂歌絵本」という新しいジャンルで、続々とヒット作を生み出しました。
ただし蔦重以前から、書物に挿絵を入れるアイデアは、すでに行われていました。鱗形屋(うろこがたや)孫兵衛も、挿絵の入った狂歌本を出版していますが、狂歌が主体で絵は添え物程度の目立たないものでした。
それに対して蔦重は完全に逆の発想から、挿絵が主体で、上部に狂歌が1、2首掲載されているという狂歌絵本を定着させたのです。
そもそも江戸の人々は、どんな理由で「錦絵」を求めていたのでしょうか? 一番は好きな役者や力士の、肖像画を楽しむためです。
蔦重はこの考え方を「狂歌絵本」に生かします。さながら「百人一首」のように、人気の狂歌師たちのフルカラーの肖像画とともに、各人の作品を紹介したのです。
テレビやネットのない時代、人々は高名な狂歌師たちがどのような風体をしているのかわからないため、狂歌師のガイドブックともいうべきこの『吾妻曲(あずまぶり)狂歌文庫』は狂歌絵本ブームに火をつけました。
文/車 浮代
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