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ダウンタウン松本人志の笑いは本当に許されないほど悪質な「いじめの笑い」だったのか?

集英社オンライン / 2024年11月9日 9時0分

松本人志は、なぜ30年近くにわたってトップに立ち続けていたのか。そして「ポスト松本」時代のお笑いとテレビは、どう変わるのか。『松本人志とお笑いとテレビ』(中央公論新社)より一部抜粋・再構成してお届けする。

【画像】若者たちが「人を傷つける笑い」に拒否反応を示す理由

芸人に良識が求められる時代 

ここ数年、お笑いの世界でもコンプライアンス(法令遵守)が求められるようになってきた。 

肉体的・精神的に苦痛を伴うような笑いの手法に対して批判が高まるようになった。立場が上の者が下の者に対して高圧的に振る舞うようなパワハラ的な笑いも嫌われることが多くなってきた。また、女性の容姿イジリが問題視されたり、LGBTQなどのマイノリティ差別と見られるような笑いに関して、否定的に見る風潮がどんどん強まっている。 

さらに、芸人のプライベートにも一般的な常識が求められるようになり、不倫などの問題を起こすと厳しく非難されるようになってきた。 

そのような風潮が強まっている主な理由は、芸人の地位が上がったことと、社会そのものが変化したことである。一昔前までは、芸人にはある程度の自由が認められていた。過激な表現もそれなりに許容されていたし、当時の人々もそれに腹を抱えて笑っていた。
 

芸人がプライベートで派手な女遊びをしたり、借金を作ったりしても、それほど批判されることはなかった。芸人が派手に女遊びをしていることをテレビであけすけに語っても、ほとんど問題視する人はいなかった。 

かつて芸人は世捨て人のような扱いを受けていたので、一般人と同じレベルのモラルを求められることがなかった。それは、芸人が社会の中で低く見られていたことの裏返しでもある。 だが、時代が進むにつれて芸人の地位が上がったことで、今では一般的な常識が求められるようになった。 

それに加えて、時代が進むにつれて社会の健全化が進んでいき、あらゆる分野でコンプライアンスが重視されるようになってきた。 

そんな時代の変化を象徴していたのが、2011年の島田紳助引退騒動である。紳助は週刊誌で暴力団と交際している疑惑を報じられ、それがきっかけで芸能界を引退することになった。数多くの人気番組を抱えていた名司会者の突然の引退劇は、人々を驚かせた。 

もともと芸能界や興行の世界と、いわゆる任侠の世界は切っても切れない関係にあった。そこがつながっているのは当たり前のことだった。 

しかし、時代が進んで、1992年には「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律(暴力団対策法)」が施行され、暴力団の反社会的行為が規制されることになった。ここから暴力団は法的にも明白な「社会悪」として位置づけられた。紳助引退後の2011年10月には暴力団排除条例(暴排条例)が全都道府県で施行され、一般市民の暴力団への協力や商取引が事実上禁じられた。 

ダウンタウンの笑いは本当に単なる「いじめの笑い」なのか?

その後、2019年には芸人の闇営業騒動が起こった。複数の芸人が事務所を通さずに反社会的勢力の会合に参加して金銭を受け取っていたことが報じられ、宮迫博之らが事務所を解雇された。 

そして、2023年には松本人志の性加害疑惑が持ち上がった。当初は事務所も強気な対応をしていたが、その後は一転して被害を訴えている女性がいる事実を重く受け止め、コンプライアンスの指導・教育や事実確認を進めていくことを発表した。 

「芸人の女遊びぐらい大目に見ろよ」というのがかつての常識だったが、今ではそれは通用しなくなっている。 

ここでは「お笑いとコンプラ」の問題について考えることにする。あらかじめ断っておくと、こういった問題に関しては感情的な対立が生まれやすいことに注意しなければいけない。 

「女性への容姿イジリなんて今の時代に許されるわけがない。言語道断である」といった主張をする人がいる一方で、「最近はコンプラ、コンプラとうるさくて、過激な企画ができないのでテレビが全然面白くない。昔のような番組がもっと見たい」というような、正反対の立場から強い主張をする人もいる。 

個人的には、どちらの主張にも違和感を感じる部分がある。この問題の正しい答えはこれだ、などと考えて、一方的に断罪を求めるような風潮はやりすぎではないかと思う。 

一方、大雑把にひとくくりにして「昔は良かった」などと言うのも、問題を単純化しすぎではないか。社会的な問題に関して個人としてつらい思いをした経験がある人もいるからだ。 
そういった「0か100か」といった極端な主張は、ほとんどの場合、お笑いそのものの価値を過度に軽く見積もっていることから生まれる。 

たとえば、松本人志の性加害疑惑が出たときに「ダウンタウンのお笑いはいじめの笑いだから、私はもともと嫌いだった」というようなことをSNSで書く人が散見された。そういうことを言いたくなる気持ちはわからなくもないが、芸人の個人的な問題と、笑いの本質は別のところにある。 

仮に、ダウンタウンの笑いが本当に単なる「いじめの笑い」であり、許されないほど悪質なものなのだとしたら、ここまで長年にわたって多くの人に愛されることはなかったのではないか。つまり、ここには明らかに言い過ぎている部分がある。言い過ぎだということをきちんと踏まえておかないと、議論がまともに進まない。 

そもそも何かを見て笑えるか笑えないかというのは個人的な感覚に依存する部分が大きいので、お笑いに関しては極端な感情論が横行しやすい。だからこそ、つとめて冷静に考える必要がある。 

「人を傷つける笑い」に拒否反応を示す若者たち 

先日、大学講師の知人に依頼されて、大学の講義で話をすることになった。講義に先立って、学生にお笑いに関するアンケート調査を行った。 

「好きな芸人とその理由は?」「嫌いな芸人とその理由は?」という2つの項目について、メールで答えてもらうという簡単なアンケートだった。 数十人の学生から返ってきた回答内容を見て個人的に興味深いと思ったのは、嫌いな芸人についての回答に1つの傾向が見られたことだ。 

それは、偉そうな態度を取ったり、痛みや苦しみを見せたりするようなもの、いわゆる「人を傷つける笑い」に嫌悪感を抱いている学生が想像以上に多かったことだ。 

もちろん、アンケートで回答を求められたことで、何かを答えないといけないと思い、無難にそういう回答をしただけの人もいるかもしれない。ただ、それを考慮してもなお、こちらが想像している以上に、若い世代の間で人を傷つける笑いを嫌う風潮があることに驚いた。

彼らが嫌っているものの多くは、私が学生だった90年代頃には、テレビでも当たり前のように見られていたものだ。ダウンタウンやとんねるずはよくパワハラ的なノリのお笑いをやっていた。 

『進め!電波少年』(日本テレビ系)が大ヒットしていて、そこでは芸人を生命の危険にさらすほどの過激なロケが行われていた。 当時からそういうものに対する批判の声はあったが、それ以上にそういった芸人や番組には圧倒的な人気があったし、支持している人も多かった。 

特に、大学生のような若い世代の人間は、過激なものに憧れを抱きやすかった。だからこそ、時代が変わったとはいえ、学生の多くがいまやそういう笑いを敬遠している雰囲気があることに驚いたのだ。 

ただ、よくよく考えてみれば、そもそも社会が変わっているし、世の中の空気が変わっているのだから、求められる笑いのあり方も変わっていくのは当然のことだ。 

たとえば、かつての学校教育や部活動では、厳しい指導の一貫として体罰がまかり通っていた。しかし、今では体罰が発覚すれば、マスコミで報じられるほどの大問題になるだろう。暴力に対する抵抗感が昔と今の若者では大きく異なる。 

また、パワハラ、セクハラ、モラハラといったハラスメントに対する意識も、一昔前と今ではずいぶん変わっている。 そういう時代の変化がある以上、今の若者が人を傷つけるような笑いを敬遠するのは当然のことなのかもしれない。

ラリー遠田
1979年、愛知県名古屋市生まれ。東京大学文学部卒業。専攻は哲学。テレビ番組制作会社勤務を経て、フリーライターに。在野のお笑い評論家として、テレビやお笑いに関する取材、執筆、イベント主催など、多岐にわたる活動を行っている。著書に、『松本人志とお笑いとテレビ』(中公新書ラクレ)、『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社新書)、『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと『めちゃイケ』の終わり 〈ポスト平成〉のテレビバラエティ論』(イースト新書)他。

松本人志とお笑いとテレビ

ラリー遠田
松本人志とお笑いとテレビ
2024/10/8
924円(税込)
208ページ
ISBN: 978-4121508201
松本人志は、なぜ30年近くにわたってトップに立ち続けていたのか。そして「ポスト松本」時代のお笑いとテレビは、どう変わるのか。

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