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「今江監督はよくやりましたよ。なのに三木谷オーナーは…」初代監督・田尾安志が嘆く20年間変わらない「楽天球団の体質」

集英社オンライン / 2024年11月8日 18時30分

「僕を地獄に落とすんですか」田尾安志はなぜ“最下位確定”だった楽天の初代監督を引き受けたのか?〈球団創設20年〉〉から続く

ちょうど20年前の1994年11月8日、この年の球界再編騒動を経て、オリックスと近鉄の選手を合併球団「オリックス」と新規球団「楽天」に振り分ける「分配ドラフト」が行われた。これにより40選手の楽天入団が決定したが、当時、楽天の戦力が著しく見劣りすることは明らかで、“火中の栗”を拾う形となった初代監督の田尾安志は苦しい戦いを強いられることになった。

【写真】かつては蜜月だった田尾監督と楽天・三木谷オーナー

中日ファンのイチロー少年も「田尾を戻せ」

1994年の球界再編騒動を経て、楽天球団の初代監督も務めた田尾安志は、プロ野球選手が球団を前にして闘う権利がなかった時代に犠牲になったある意味で象徴的な選手であった。

1975年に同志社大学からドラフト1位で中日に入団すると、1年目に打率2割7分7厘で新人王を獲得。その後も順調に打棒を振るい続け、フアンサービスにも熱心な気さくな性格からチームの顔として老若男女に愛された。

ところが、3年連続でセ・リーグ最多安打を放ち、生え抜きスターとして絶頂の最中にいた1985年。キャンプインを直前に控えた1月24日に突然、西武へのトレードを告げられたのである。

背番号「2」の選手会長は毎年、球団側にプレーをする上での環境面の改善を要求しており、そのことで当時の代表に疎まれていた。田尾は名古屋を終の棲家と考え、新居を星が丘に建てたばかりであった。何の前触れも無い、懲罰人事のようないきなりの移籍発表であった。

一方的な通達をその場で受け入れた本人以上に名古屋のフアンは納得ができず、「トレード反対」の署名運動が巻き起こった。

まだ小学生であった中日ファンのイチローが家庭科の課題で作ったエプロンに「田尾を戻せ」という刺繍を入れたことも知られた逸話である。それでも選手に可能な抵抗は、現役を引退するという事以外にはなかった時代である。

しかし、冒頭に記した通り、田尾がトレードに出された年の11月に選手会は労働組合として都労委に認定された。そして19年経った今ではオーナー側が描いていた絵図さえ覆すほどの力を持つに至った。

ならば、それを成し遂げた古田敦也らの現役選手たちのために自分がすべきことは、そのバトンを再び受け取り、例え戦力がいかに劣っていようともオファーがあったこの新チームの監督になることではないのか。

2004年10月13日に行われた就任記者会見で田尾はこう発言している。

「選手がプレーしやすい環境をつくるなど魅力ある球団にして、東北の野球ファンの熱意に応えたい」「他球団の選手が来たいという気持ちになる球団にしたい」(朝日新聞)

あくまでもプレイヤーズファーストのマインドから、環境を整えて選手が来たくなる球団を作るという言葉をまず紡いだ。11月8日に分配トレードが行われると、それに加えて他球団を自由契約になった選手や無償トレードを組み入れて突貫工事のように編成を整えた。

とにかく年内に一度、練習をしようと、大阪の近鉄の本拠地であった藤井寺球場で11月13日に初練習を行った。ユニフォームデザインも決まってなかったので、選手は真っ白のユニフォームでの秋季キャンプ参加となり、まるで高校野球のようだと言われた。

就任が決まって、2週間以内でコーチ陣も組閣して発表しなければならないというあわただしさだったが、田尾自身は選手会の導きで誕生したともいえる50年ぶりの新球団の船出にやりがいも感じていた。

楽天1年目の田尾の方針は東北にプロ野球チームを根付かせることを優先させたものであった。オーナーの三木谷には始動と同時にこう伝えた。

「球界に新規参入して頂いたことに感謝します。ただチームを自分の持ち物とは思わないで下さい。プロ野球の球団は公共財です。我々はファンのものであるんです」

これに三木谷は「分かりました」と応えたという。

開幕2戦目、屈辱の「26対0」

そしていよいよペナントレースが開幕した。歴史的開幕第一戦はエース・岩隈の好投で3対1で勝利したが、二戦目は26対0という大敗を喫した。動かしがたい戦力差は否が応でも突き付けられた。4月に11連敗をしながら、田尾はひとつのことを考えていた。

「一軍のレベルにない選手をメンバーに入れざるをえないのだから、負けるのは仕方が無い。しかし、お金を払って見に来てくださっているお客さんを一度も盛り上がらせずに帰らせるのはしたくない。だからゼロゲームだけは避けよう。そしてせめて5回までは今日は分からないぞ、というゲームを多く作ろう」

この2005年、楽天は2勝5敗のペースでシーズンを終えることになるのであるが、1試合平均失点は6.1だった。対して平均得点は3.5。例え負けても必ず盛り上がる得点シーンは必ず作ろうと心掛けた。そしてチーム内では公正な競争を宣言した。

「今まで、ベテランだから使わないとか、態度が悪いから試合に出さないとか、そういう恣意的な理由でチャンスを貰えないという選手たちがたくさんいた。僕はみんな同じスタートラインからやろうという話をして、二軍にいても結果を出したら、必ず使うと伝えました」

その基準も明確にした。先発投手なら、クオリティースタート(6イニングを自責点3点以内)を2試合継続、リリーフ投手は、1イニング無失点を3試合続けたら、それぞれ1軍に上げると伝えた。

具体的に数字の目標設定をされたことで、選手たちのモチベーションも上がった。田尾はこのやり方で、前球団で監督に干され、一時は引退を決意していた山崎武司を復活させた。

分配ドラフト、無償トレードで獲得したベテラン、自由契約からの復帰、新人…出自がバラバラの寄せ集めのような集団は、そのときそのときのベストナインを選ぶという方針のもとでひとつにまとまっていったが、大きな連敗が続くと、三木谷オーナーによる現場への介入が始まった。

「若手選手を使え」という通達が来た。育成を理由に若い選手に切り替えるのは容易であり、連敗の言い訳にすることもできるが、実力が無いのに起用を続ければ、他の選手は納得できずにチームが崩壊することが目に見えていた。

田尾は『(若手に)使える選手がいません』と拒否した。すると続いて山下大輔、駒田徳広、二人のコーチの二軍降格を告げられた。

誰かに責任を取らせるという意図だったが、『コーチが悪くて勝てないわけではありません。それなら私が辞めます』と辞表を書いて球団に持って行った(これは結局、山下コーチが、自ら二軍に行くことを受諾して田尾の辞意を留めた)。

当初は三木谷と蜜月関係にあったが、オーナーは途中から、決してイエスマンにはならず、筋を通してくる監督に対して直接のコミュニケーションを避けていった。

「球団は三木谷オーナーの持ち物じゃない」

結局、1年目のシーズン成績は38勝97敗1分の最下位。田尾は3年契約ながら1年で解任となった。三年計画で補強、育成、普及についてのビジョンを考えており、すでに来季を見据えて、ダイエーの王、ロッテのバレンタイン、両監督にレンタル移籍による選手補強を打診してOKをもらっていたところだった。

クビになる際には、とにかく今いるスタッフは極力残してもらいたいということだけを伝えてチームを去った。

ファンも選手も田尾の意志と熱意は分かっていた。最終戦はヤフードームでのソフトバンク戦。スタンドからは田尾コールが巻き起こり、選手によって最下位チームを率いた監督の胴上げが行なわれた。

「100敗もしそうな監督の胴上げなんかおかしいから止めてくれと頼んだんです。そしたら、『これは僕らの気持ちなんで、受けてください』と選手たちに言われてね。僕がオーナーともぶつかりながら、1シーズンブレずにやったのを選手たちも感じてくれたんだろうと思います」

あれから20年が経過した今年10月10日。楽天は、最下位という下馬評を覆して交流戦優勝を成し遂げた今江監督を、2年契約の1年を残し解任した。田尾は三木谷オーナーへの批判を隠そうとしない。

「今江監督は本当によくやりましたよ。オーナーは、選手の人生や生活を預かりながらチームを良くしようと24時間考えている監督の仕事をどう思っているのか。20年経ってもオーナーのひと声ですべてが決められてしまう体質が変わらないことが嘆かわしい。球団は個人の持ち物ではないんですよ」

楽天が選手会の動きによって誕生した球団であればこそ、現場の野球人に対するリスペクトを欠いて欲しくはない。今、田尾は国指定の難病「心アミロイソーシス」と闘いながら、評論活動を精力的に行っている。言説も行動も曲げないのは、現役時代から変わっていない。

取材・文/木村元彦

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