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大正時代に建てられた長谷の和モダン建築で味わう研ぎ澄まされた蕎麦と香り豊かなコーヒー〜鎌倉 北橋

集英社オンライン / 2024年11月27日 11時0分

材木座に現れた、肩の力の抜けた海街の気軽さと都会のクールさが混在するカフェ&レストラン〉から続く

鎌倉で育ち、今も鎌倉に住み、当地を愛し続ける作家の甘糟りり子氏。食に関するエッセイも多い氏が、鎌倉だから味わえる美味のあれこれをお届けする。趣のある建物が多い鎌倉だが、大正時代に建てられて長谷の古民家が今夏、蕎麦屋&カフェとして新しい命を吹き込まれた。絶品の蕎麦とコーヒーと建物を味わえる「鎌倉 北橋」だ。

〈画像〉歴史を感じる和洋が溶け合う建築と蕎麦の絶品献立

大正時代の日本家屋と洋館が蕎麦屋&カフェに

鎌倉の楽しみ方でおすすめの一つは建築探索だ。
かつて別荘地として栄えた鎌倉には凝った建築の古い建物がたくさん残っていて、一般公開されていたりレストランやカフェになっていたりするものも少なくない。中でも由比ヶ浜通り近辺は鎌倉市が指定する景観重要建築物が点在しているので、ぶらぶら歩くだけでもちょっとした時代旅行ができる。

かいひん荘 鎌倉、ハリス幼稚園、旧吉屋信子邸、長谷こども会館、鎌倉彫の白日堂、寸松堂、旅館の対僊閣、のり真安齋商店などがある。

2026年まで大規模改修中の鎌倉文学館の公開も待ち遠しい。指定重要建築物ではないけれど、柴崎牛乳店も見る価値のある建物だ。

私は建築の知識はほとんどないけれど、建売なんて発想がなかった時代の職人たちの知恵と技術と情熱を感じると気分が上がる。自分の中に潜んでいた、古き良き時代への敬意と親しみがふつふつと静かに音を立て始めるのだ。

長谷にある景観重要建築物の旧加賀谷邸は、数年間をかけて蕎麦屋&カフェ「鎌倉 北橋」として生まれ変わった。この家屋が造られたのは大正時代。日本家屋の一部が洋館になっているのは当時の流行りだったという。

シンプルなものこそ、作り手が丸ごと表れる

日本家屋の部分がお蕎麦屋さんである。お蕎麦屋さんなんだから当たり前なのだが、お蕎麦が本当においしい。コシがあってみずみずしくて、蕎麦が喉を通り抜ける度に晴れやかな気持ちが重なっていく。おいしい水を飲んだ時のような衝撃、といったらいいだろうか。家族連れやカップルに混じって、一人何かを確認する表情で蕎麦を手繰っている客が少なくないのも、さもありなん。蕎麦のおいしさは向こうからやってくるのではなくて、食べる側が自らの感覚を研ぎ澄まして探すものという気がする。

初めて訪れたなら、ぜひ「食べ比べ」を注文してほしい。産地の違う蕎麦粉を、つなぎを一切使わない生粉打ち(きこうち、と読みます。十割蕎麦のこと)、殻ごと粗挽きにした玄挽き、一割だけ小麦粉が入っている九一などで食べ比べができるメニューだ。
すっきりしていたり、ワイルドだったり、ふくよかだったり。蕎麦という世界の多彩さをひしひしと感じられる。同時にシンプルなものこそ、作り手が丸ごと表れるということにも気が付かされる。

「食べ比べ」には二種類と三種類があって、女性だと三種類はお腹がいっぱいになるはずだが、私はつい欲張って三種類を注文してしまうことが多い。せっかく北橋に来たのなら、蕎麦の世界に浸りたいから。

そして、私がもう一つ、ぜひ食べてみてほしいのはだし巻き卵。こちらも何か特筆するべき変わったところがあるわけではないのだけれど、でも特筆するべきおいしさだ。ふんわりとした食感、控えめな出汁の味、卵のまろやかさ。聞けば、店主は卵を薄―くひいては巻き、薄―くひいては巻き、を繰り返しているそう。何事も細部の積み重ねなのだ。

玄関から飲食のスペースまでの廊下の左側に蕎麦打ちの小さなコーナーがある。蕎麦を打ち終わった後のすっきりとした空間もまたこの店の味わい。
店主の北橋さんは自らを「蕎麦オタク」といい、「うちは蕎麦屋ですから蕎麦一枚から使ってくださいね」とおっしゃるのだが、ここはそれだけではもったいない。メニューにはお酒のアテにいい一品料理がずらりと並んでいる。

天ぷらや鴨焼き、しらすの沖漬けに甘海老の醤油漬け、磯海苔の三杯酢などに、そばがき、蕎麦寿司、蕎麦味噌なんていうのもある。日本酒ももちろんいいけれど、蕎麦焼酎という選択がこれほどぴったりくるお店もなかなかない。私はふだん焼酎はあまり飲まないのだけれど、ここでのお酒はまず蕎麦焼酎からスタートする。気の置けない友人たちとあれこれ頼んで、飲みながらおしゃべりに花を咲かせ、最後にフレッシュな蕎麦で締めくくる、なんていうのもまた楽しい。

蕎麦会席のコースもあって、人数によっては襖を閉めて奥のスペースを個室のように使うことも可能。気軽に蕎麦一枚からおもてなしまで幅広い使い方ができる。

カフェで楽しみたいのは「コーヒー」と「建築」

建物の洋館の部分はカフェ。こちらではコーヒーが楽しめる。いやコーヒーと建築が楽しめると書き直しておこう。天井の高いこの部屋はダンスホールであったらしい。個人宅にダンスホールがあったとは! 天井からは大きなシャンデリア、壁にはマントルピース。シャンデリアは新調されたものだが、マントルピースや窓枠は当時のままだそう。

コーヒーをゆっくり味わっていると、何十年も昔のホームパーティーの様子が頭に浮かび、人々の会話や当時のざわめきが聞こえてくる気がする。住宅街ゆえに不可能なことは百も承知だけれど、ここでパーティーをやってみたい。大きなスピーカーを置いて音楽をかけ、お酒と一緒に楽しんだら気持ちいいだろうなあ。お酒はちょっといい赤ワインやシングルモルト・ウイスキーかなんかをたくさん並べてね。なーんてことを想像したくなってしまう空間なのだ。

コーヒーを監修しているのは原宿の「ノージー・コーヒー」。コーヒーのシングル・オリジンという概念を定着させた集団だ。ちなみにシングル・オリジンとは、ワインのように農場という単位でコーヒー豆を取り扱うこと。なんてことも、こちらのセミナーで知った。時々ノージー・コーヒーの創業者である能城政隆さんがセミナーを行なっている。

北橋カフェではコーヒーのティーバッグが販売されていて、最近コーヒーのハンドドリップに凝っている私は、内心「ティーバッグ?」なんて思ったのだけれど、使ってみて最初に心の中で謝りました。ハンドドリップの余裕がない時にはこれで充分だった。

先日は海外から帰国して鎌倉に遊びにくる友人をランチの後にどこか案内したいと相談され、北橋のカフェを推薦したら、とても喜ばれた。

さて、小腹も空いてきたことだし、パソコンを閉めて、北橋に時間旅行に出かけよう。

写真・文/甘糟りり子 

鎌倉だから、おいしい。

甘糟りり子
100種類近いアラカルトを好きなように楽しめるオステリア…究極の普段使いのレストラン「コマチーナ」_10
2020年4月3日発売
1,650円(税込)
四六判/192ページ
ISBN:978-4-08-788037-3

この本を手にとってくださって、ありがとう。
でも、もし、あなたが鎌倉の飲食店のガイドブックを探しているのなら、
ごめんなさい。これは、そういう本ではありません。(著者まえがきより抜粋)

幼少期から鎌倉で育ち、今なお住み続ける著者が、愛し、慈しみ、ともに過ごしてきたともいえる、鎌倉の珠玉の美味を語るエッセイ集。
お屋敷街に佇む未来の老舗(イチリンハナレ)、自営の畑を持つ野菜のビーン・トゥー・バー(オステリア・ジョイア)、カレーもいいけれど私はビーフサラダ(珊瑚礁 本店)、今はなき丸山亭の流れをくむ一軒(ブラッスリー・シェ・アキ)、かつての鎌倉文士に想いを馳せながら(天ぷら ひろみ)……ガイドブックやグルメサイトでは絶対にわからない、鎌倉育ちだから知っているおいしさと魅力に出会える1冊。
素材が豪華ならいいというものでもない、店の内装もまた味わいの一端を担うもの、いいバーとバーテンダーに出会う喜び……著者自身の思い出や実体験とともに語られる鎌倉のおいしいものたちは、自然と「いい店」「いい味」ってこういうことなんだな、という読後感をくれる。
版画のように精緻なタッチで描かれた阿部伸二によるイラストも美しく、まさに読んでおいしい、これまでなかった大人のための鎌倉グルメエッセイ。

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