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人が人でなくなっていく教育現場:「旭川中2少女いじめ凍死事件」を生んだ現代の生徒指導の在り方と、教員の「働き方改革」の問題点

集英社オンライン / 2024年12月18日 9時0分

「不良生徒は警察に突き出せばいい?」サービス業に徹する学校や教員が求めた生活指導方針「ゼロトレランス」とは?〉から続く

「旭川14歳少女いじめ凍死事件」は凄惨ないじめが原因で起きた事件だ。その背景を読み解くと、現代の生徒指導の在り方と、「働き方改革」の問題点が浮かび上がってくる。

【画像】逗子市教育委員会が、警察と連携する旨を保護者に通知した資料

書籍『崩壊する日本の公教育』より一部を抜粋・再構成し教育現場が抱える闇を明らかにする。

旭川中2少女いじめ凍死事件

「小学校6年間を自由に過ごしてきた不良少年たちが次に求めたものは性でした。どれだけ同級生をいたぶっても自分たちに危害が及ばないことを6年間身をもって学んでいますから、彼らは躊躇なく抵抗のできない生徒をおもちゃのように扱っていきます」實川瑞樹(みのりかわみずき)さん(当時高校生)

この言葉を実証する凄惨ないじめ事件が、實川さんのエッセイが書かれた翌年、2019年に北海道旭川市で起きている。

後に、文春オンラインが「旭川14歳少女イジメ凍死事件*1」として報じているものだ。当時中学1年生だった少女が、自身のわいせつ画像の撮影を強要されたり、先輩や小学生が見ている前で自慰行為をさせられたりし、その画像が地元中学生らのLINEグループなどに拡散されたのだ。

全校生徒に流すからと脅された少女は、「死ぬから画像を消してください」と言い、川に飛び込んだという。目撃者の証言では、加害者の生徒たちはその様子を一斉にスマホで撮影していたというから常軌を逸している。

幸い、飛び込む直前に少女が「助けてください」とSOSの電話を学校にしていたため、駆けつけた教員らに助けられた。しかし、この性的ないじめがきっかけで彼女は学校に通えなくなり、別の学校に転校。

PTSD(心的外傷後ストレス障害)も発症し、2年後の2021年3月に市内の公園で凍死した状態で発見された。家出の直前に、彼女から友人らの携帯に送られたメッセージには、自殺の意思が告げられている。そして、加害者の生徒たちは、何のお咎めも受けずに中学校を卒業していった。

反省する機会も得ずに卒業していった加害者たち

記事で報じられたいじめの凄惨さもさることながら、私にとって最も印象的だったのは、反省すらできないいじめ加害者生徒らの姿だった。取材班は、保護者の許可を取った上で主犯格とされる生徒(取材時にはすでに中学校を卒業していた)らにインタビューしている。

被害者生徒の死を受けてどう思ったか、という質問へのA子の答えは記者を驚かせた。

「うーん、いや、正直何も思ってなかった」

一方、被害者生徒に公園で自慰行為を強要したB男は、その行為をいじめと認識しているかとの問いに、たった一言こう答えている。

「悪ふざけ」

学校の対応はどうだったのだろうか。B男は学校に5回ほど呼び出されたそうだが、「怒られるというよりは『何があったのかちゃんと話して』という感じだった」と言っている。

被害者の女子生徒は、ゴールデンウィーク中、深夜にB男に呼び出されて怖かったことを担任の先生に相談しようとしたが、「今日は彼氏とデートなので、相談は明日でもいいですか?」とあしらわれた。

また、被害者女子生徒の母親からいじめの調査を求められた学校側は、「わいせつ画像の拡散は、校内で起きたことではないので学校としては責任は負えない」と答えている。

そんな学校の対応について、「冷たい」と感じたり、「なんだそれは!?」と憤りを感じる読者は少なくないかもしれない。当然だと思う。しかし皮肉にも、政府が進める「働き方改革」のもとで評価するならば「100点満点」なのだ。

勤務時間外には教員は職員室への電話にも応えなくてよいし、勤務時間終了とともに留守番電話に切り替えられる学校がほとんどだ。

もちろん、週末に生徒から携帯に電話がかかってきても教員には対応する義務がないどころか、教員が生徒に自分の携帯番号を教えることを許している学校の方が珍しい。

画像の拡散だって、教頭の言う通り、学校外で起きたことなのだから本来学校に責任はない。ただ、本当にそれでよいのだろうか。

一つ強調したいのは、この学校では、自分のせいで14歳の少女が亡くなったかもしれないのに何にも感じない子、少女が死にたいと思ったほどの心の痛みもわからない、想像力の乏しい子どもたちが、反省する機会も得ずに卒業していったということだ。

新自由主義支配の下で教員は、「お客様を教育しなくてはならない」というジレンマを抱え、冒頭の實川さんの言葉を借りれば「抑止力」を失い、教育現場は「多種多様な悪行」がまかり通る「無法地帯」と化す。

そんな中、学校は失われた自らの威厳をどう補うのだろうか。その一つの答えが、「ゼロトレランス」による生徒指導のマニュアル化と警察への外部委託なのだろう。

人が人でなくなっていく

しかし、問題を起こした子どもに対して、教員がその子の成長を見据えて粘り強く指導するのではなく、言うことを聞かない場合は警察の力も借りて機械的に学校から排除していくそのシステムは、あまりにも冷たい。

本来、生徒指導こそが教育者としての専門性が生かされる領域だろう。日々ともに過ごす生徒のニーズを最もよく知る現場教員ならではの、それぞれの状況に応じた判断があるはずだ。

ゼロトレランスでのマニュアル化や、警察へのアウトソーシングは、教員が自分の専門性を放棄することを意味するのではないだろうか。

塵一つないほどまでにクリーンアップされた学校。その実態を知ることはあなたたち大人には絶対に不可能です。

そう實川さんは断言する。何を言ってもどうせ変わらない、と思っている生徒は、一見「平和」で、きれいな学校の裏側を、自分たちを守ってもくれない大人に伝えるはずがないのだ。

こうして子どもたちは、大人に幻滅し、理不尽で、不公平で、正義が通らない「社会に絶望」する中で、保身のための無関心、そして思考停止状態に追いやられていく。

もはや人としての成長を促すという意味での「教育」が成り立っていない實川さんの学校の話を読んでも、私は別に驚かない。どこでも起こり得る話なのではないだろうか。

中学校の教員である私の恩師は、實川さんのエッセイを読み、こう言った。

「『現場から心がなくなっていく』を通り越して、人が人でなくなっていく」

その言葉は「世界最大の悪は、ごく平凡な人間、つまり人であることを拒絶したものが行う悪である」というハンナ・アーレントの言葉を彷彿させる。

ナチス占領下のドイツでユダヤ人の大量虐殺という前代未聞の大罪が起こった理由を追及したアーレントは、「悪の凡庸さ」という結論にたどり着いた。

悪とは、普通の人間には理解不能な異質な存在などではなく、実はもっと身近なもの。ごく普通の人々が集団的に思考停止状態に陥った時、そこに悪が繁殖し得るモラルの空白が生まれるのだ。

問題は複雑で、体罰をなくしたら学校が平和になると思ったら大間違いと指摘する實川さん。

その通りだ。しかし、だからといって、体罰を復活させたら学校が平和になるかといえば、それもまた違う。本当は、体罰などよりもっときついものがある。それは、自分が心から「先生」と思える人との信頼関係を失うことだ。

「学校における働き方改革」の本質はどこにあるのか

「学校における働き方改革」の本質はどこにあるのだろうか。業務の効率化と生産性の向上、部活動の地域移行、タイムカードの導入による勤務実態の把握、給特法の改正、留守番電話による勤務時間後対応など、さまざまな対策が議論されてきた。

しかし、政府が進める「学校における働き方改革」は、どうしても教職員の勤務時間の削減に意識が囚われ過ぎているように感じる。

「減らす」というベクトルが強過ぎて、政府が投資をして「増やす」というベクトルとのバランスがあまりにも悪いのだ。

また、どうも私には議論が表面的に見えてならない。もし本当に「学校における働き方改革」に取り組むなら、「学校の役割とは何か」「教師の仕事とは何か」という根源的な問いと向き合わずに実現できるわけがない。そこがすっぽり抜け落ちているから、小手先だけの改革に終わってしまうのだ。

そもそも何のための「働き方改革」なのだろうか。教員の長時間労働を是正することなのか、残業に見合う手当を支給することなのか、仕事量を削減することなのか……。私に言わせれば、これらは全て手段に過ぎない。

せっかく「働き方改革」を行うのなら、私はそれが、「子どもの学習権の保障」と「教師としての幸せ」のためであって欲しいと思う。

そして、この二つは決して矛盾するものではない。「子どもの学習権の保障」は、広い意味では子どもの人としての成長を担保するための条件だ。だから前者がなければ後者もない。

35人学級は「少人数学級」ではない

教員にとっての労働環境は、子どもにとっての学習環境だ。教員が心身に支障をきたすほど過酷な教育現場では、教員が生徒と十分にかかわることができなかったり、教材研究の時間が十分に取れなかったりと、その専門性を発揮できるはずもなく、それは子どもの学習権の侵害につながる。

これらの課題には、教員の数を増やすことで対応できる。少子化だから教員の数を減らすのではなく、少子化の今こそ少人数学級実現のチャンスと見るべきなのではないだろうか。

2021年、文科省は小学校の学級編成の標準を約40年ぶりに現行の40人から35人へと引き下げたが、35人学級は世界基準ではもはや「少人数学級」と呼べるようなサイズではない。

これまで、日本の公教育は机上での勉強にとどまらず、掃除や給食の配膳、部活動や委員会活動、そして合唱コンクールや修学旅行といった学校行事など、その多岐にわたる教育が世界的に非常に高い評価を受けてきた。

子どもの成長とは無関係の事務作業は確かに削る必要があるが、授業だけでなくさまざまな環境で見つめる教員だからこそわかる、子どもの良さや課題がある。

授業以外のそれらの業務を一つひとつ削ぎ落としていけば、確かに教員の勤務時間は減るだろう。だが、学習指導要領の改訂がこれまで以上に学習到達度と結果責任を強調していることを考えれば、確実に学校の「塾化」が進んでしまう。

求められているのは、教科指導以外の業務削減によって教員の勤務時間を削減することではなく、これまで教員の善意と使命感のみで支えられてきた授業以外の業務を、実際に必要な人と予算をつけて維持することなのではないだろうか*2

「財政が厳しい」と強調する政府を前に、これ以上の投資を政府に期待するのは現実的でないと批判する人もいるだろう。しかし、一度立ち止まって考えてみるべきではないだろうか。そもそも、子どもの学習権の保障は、景気や財政状況に左右されてよいものなのだろうか?

*1 「『娘の遺体は凍っていた』14歳少女がマイナス17℃の旭川で凍死背景に上級生の凄惨イジメ」文春オンライン、2021年4月15日。https://bunshun.jp/articles/-/44765?fbclid=IwAR0T6bXoPW11141D14PvK_MsOLlaYQ4WRpGM7CCoAFJpQwPVjHzp1GnMy_I

*2 この点に関しては、「ゆとりある教育を求め全国の教育条件を調べる会」の山﨑洋介が『いま学校に必要なのは人と予算―少人数学級を考える』(新日本出版社、2017年)で詳しく書いている。

写真/shutterstock

崩壊する日本の公教育

鈴木 大裕
崩壊する日本の公教育
2024年10月17日発売
1,100円(税込)
新書判/288ページ
ISBN: 978-4-08-721335-5
安倍政権以降、「学力向上」や「愛国」の名の下に政治が教育に介入し始めている。
その結果、教育現場は萎縮し、教育のマニュアル化と公教育の市場化が進んだ。
学校はサービス業化、教員は「使い捨て労働者」と化し、コロナ禍で公教育の民営化も加速した。
日本の教育はこの先どうなってしまうのか? その答えは、米国の歴史にある。
『崩壊するアメリカの公教育』で新自由主義に侵された米国の教育教育「改革」の惨状を告発した著者が、米国に追随する日本の教育政策の誤りを指摘し、あるべき改革の道を提示する!

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