「ルックスが合わない」デビュー時に解雇されたローリング・ストーンズの6人目…イアン・スチュワートの果たした偉大なる貢献
集英社オンライン / 2024年12月12日 11時0分
「ステュ」の愛称で愛された、ローリング・ストーンズのオリジナルメンバーだったイアン・スチュアート。レコードデビュー直前にクビにされた彼だが、1985年12月12日に亡くなるまでなぜバンドを支え続けたのか、個性的なメンバーをまとめられた唯一の男の逸話を紹介する。
デビュー直前の解雇…
1962年10月から12月まで、キース・リチャーズとブライアン・ジョーンズは毎日8時間以上もレコードを聴いて、それを自分たちの楽器演奏で再現させようとしていた。
それは想像以上に厳しい作業だった。
彼らが手本にしていたアメリカのブルーズ・ギタリストたち、ロバート・ジョンソン、マディ・ウォーターズ、エルモア・ジェームス、チャック・ベリーらは、二人が見たこともない方法で演奏していたからだ。
悪戦苦闘する二人を見ていたイアン・スチュワート(愛称ステュ)は、こんな言葉を残している。
「二人がやろうとしていたのは、ギターを二本同時に演奏することだった。一本が主旋律を弾いて、もう一本がリズムを刻むのではなくて、キースとブライアンは二人がもっと一体になって、交互にリードをとって、ソロも交代でやって渾然一体にしようとしていた」
この言葉に、ローリング・ストーンズの音楽の本質がある。
ピアニストとしての才能に溢れたステュは、1962年にストーンズが結成された時からのオリジナル・メンバーで、それもブライアンとともに中心人物だった。
しかし、レコード・デビューする直前の1963年5月、マネージャーのアンドルー・オールダムから、「バンドの雰囲気にルックスが合わない」という理由で解雇されてしまう。
ストーンズのエンジニアを長く務めたプロデューサーのグリン・ジョンズは、ステュの親友で音楽仲間、そしてルームメイトでもあった。
ステュが解雇されたことについて、ジョンズは自伝『サウンド・マン』のなかでこう語っている。
「彼がその通達を受けた時、私はちょうどデッカ・スタジオの隣の部屋にいた。私がその決定に対する嫌悪の面を伝えると、ステュは意外にも『大いに満足している』と言った」
ステュは「俺はそもそもポップスターとして暮らすという考えには、これっぽっちの魅力も感じていない。それにあいつらは、もの凄い成功を収める気がする、だから俺にとっては、世界を見て回るのに打ってつけの機会になると思う」とジョンズに話した。
信頼のおける友人であり続けた「ストーンズ第6のメンバー」
時が経つにつれて、それは正しい判断だったことが証明された。ステュの心は大きかった。
それからピアニストとしてレコーディングとツアーで行動をともにし、ステュはロードマネージャーとして一緒に働いた。
そしていつしか「ストーンズ第6のメンバー」とも言われるようになっていく。
必要な時には優れたピアノ演奏をしてもらっただけでなく、人気のバンドメンバーなら誰もが欲しいと願う役割、すなわち信頼のおける友人であり続けた。
ステュはストーンズが大物になってからも、常に歯に衣を着せることなく率直な物言いをした。メンバーの誰に対しても、ステュは自分の意見を真っ直ぐにぶつけることができた。
その言動の多くは、バンド全体とメンバー個人にいつも前向きな影響を与え、時にはメンバー間の人間関係の修復に努めたりと、ステュは縁の下でストーンズに偉大な貢献を果たしていたのだ。
また、ストーンズが最初の成功を収めた後で、新たな方向に進むためにオリジナル曲を書くようになった際は、ステュはしばらくの間は認めようとしなかった。
キースとミックが初めて曲を完成させたとき(しかも甘いバラードだった)、二人はメンバーの顔を思い浮かべてこう想像したという。
「失せろ、二度と戻ってくるな」
その台詞は間違いなく、ステュの口から真っ先に飛び出てきたはずだった。なお、キースの自叙伝『ライフ』には、昔からいつも語っているこんな言葉が書いてある。
「俺は今もステュのために働いている。俺に言わせれば、ザ・ローリング・ストーンズは、あくまでステュのバンドなんだ」
ステュは、音楽面でも一切ブレることはなかった。彼の言葉でいうところの「チャイニーズ」、つまりマイナー・コードは弾こうとしなかったという。
伝統的なリズム&ブルースか、ブギウギ形式以外のものは全てお断りだった。
ステュは、とにかく自分がやりたくない曲は絶対に演奏しなかった。だからキースとミックは、ステュにはいつも一目置いていた。
彼がやりたくないものやるためには、別の人間を呼んで来なければならい。そのおかげでストーンズには長きにわたって、何名かの素晴らしいピアノ奏者がレコーディングやライブに参加した。
ニッキー・ホプキンスを筆頭に、ジャック・ニッチェ、ビリー・プレストン、チャック・リーヴェル、そしてフェイセスのイアン・マクレガンと、最高の人材が参加した。
いずれも独自のスタイルを有するその道のスペシャリストで、異なるタイプのピアニストが加わったことで、ストーンズは音楽の幅を広げられたのである。
約束の場所に現れなかったステュ
それでもステュが弾いている時のストーンズは、躍動感が格別だったとジョンズは証言する。
「彼が入ると、まるで違うバンドになった。リズム・セクションは全く別物になった。ステュには、ビル、チャーリー、キースと寸分違わず共感しているとしか思えない、並外れた感覚が備わっていた」
1985年12月12日、キースはステュと会う約束をしていて、ホテルで待っていた。
すると、チャーリーから電話が入る。
「ステュを待ってるのか?」
「そうだよ」
「それがな、あいつは来ない」
キースはステュが死んだことを知らされた。
「俺たちが間違った時に、これからは誰がそれを指摘してくれるんだ?」
1986年3月にリリースされたストーンズのアルバム『ダーティ・ワーク』の最後には、ステュのブギウギのピアノソロが最後に収録された。
そして30年後の2016年にリリースされた、ストーンズによる初のブルース・カバー集『ブルー・アンド・ロンサム』は、ステュが生きていれば全面的に参加したはずの選曲だった。
キースはレコーディング中に、「特にイアン・スチュワートを思い出した」と語っている。
「デビュー前。みんなでリハーサルする時、ステュはいつも自分のバイクが盗まれてないか、窓からチェックしてたよ。片方でバイクを見て、片方でピアノを見てるんだ。そんなことをしてても絶対に音は間違えなかった」
夜になって街の女が姿を見せ始めても、それでも絶対に音だけは外さなかった。
文/TAP the POP サムネイル/Shutterstock
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