〈40年間無職の女性〉「31歳で高校入学した時点では、九九も覚えてなくて…」長年のひきこもりから脱出できたワケ
集英社オンライン / 2024年12月21日 14時0分
東京・浅草橋駅から少し入った枝道にひっそりと佇む古書店「みつけ」。店番の女性が微笑んで会釈をしてくれる。作家の難波ふみさんだ。
【画像】最初のつまづきは、小学校1年生のときに経験した転校だったと話す難波さん
作家と紹介したが、難波さんが社会と接点を持ったのはここ数年のこと。今年には初の著書『気がつけば40年間無職だった。』を刊行した。難波さんはなぜ自らの部屋に閉じこもり、外界を遮断せざるを得なかったのか。当時から現在に連なる懊悩に耳を傾ける。
台所にいた母が包丁を持ってきて
幼い頃から細かいことが気になるタチだったと難波さんは自身を振り返る。
「外にいるとき、私は姿勢が硬直していることが多かったんですが、まわりの子は貧乏ゆすりをしたり、手遊びをしたりしていて。そのほうが手持ち無沙汰にならなくていいなとうらやましく思っていたんです。私はどう振る舞えばいいのか、わかりませんでした」(難波ふみさん、以下同)
独特な着眼点を持つ難波さんだが、一方で過剰ともいえる気の回し方によって疲弊することもしばしばあった。最初のつまづきは、小学校1年生のときに経験した転校だった。
「転入生として教室に入ると、必ず自己紹介があるじゃないですか。私はたぶん、小さな声でボソボソしゃべっていたと思います。ちょうど入れ違うように転校していった子がいたらしく、周囲の様子から、その子が人気者であることを知りました。
私は子どもながら、『人気のある子に代わって転入してきたのが私みたいな陰気な人間で、みんなガッカリしただろうな』と申し訳なく思って、居心地の悪さを感じていましたね」
小学校4年生になると、学校生活も立ち行かなくなるほど自らの性格に手を焼いた。
「『板書を丁寧に書き写さねば』という強迫観念があったんですが、満足にノートに書き取る前に黒板が消える――みたいなことがあり、生きづらかったですね。また学校を休むと、悪気のない級友から『登校拒否か?』とからかわれたりして、『そうなのかもしれない』と気持ちが沈みました。その後、5年生のときのクラス替えで唯一仲のよかった友だちとはぐれてから、不登校になりました」
不登校の期間、「理解者がいなかった」と難波さんは肩を落とす。現在は良好な関係だという母親とも、こんな緊迫した場面があった。
「当時の私は家庭内でとても荒れていました。新聞紙をビリビリに破ったりして暴れることもしばしばあったんです。小5のあるとき、いつものように私が暴れると、台所にいた母が包丁を持って私の頬から首にくっつけてきて、『死にたい? 一緒に死のうか』と言いました。あのときの静かな沈んだ声はいまだに覚えています。
思い返せば母も、心底疲れ切って追い込まれていたのだと思います。不登校の子どもがいることによる外圧もあったのでしょう。家庭内では私が暴れていて、気持ちをどこに持っていけばいいのか本当にわからなくなっていたようです」
当時難波さんが感じていた孤独感は、絶望と呼ぶにふさわしいものだ。
「親に迷惑をかけて申し訳ない気持ちがありました。そして私の気持ちを誰も理解してくれないこの状況を嘆いて、『消えたい』と思っていました。死にたいのではなく、消えたかったんですよね」
当時について、母親と「大変だったね」と振り返ることはあっても、具体的に何かを言及をすることはお互いにないのだという。
さらに悪いことに父親のアプローチはさらに過激で、難波さんの孤立感を一層深めるものだった。
「強烈に覚えているのは、小学生のとき父から『学校へ行くと言え』と怒鳴りつけられながら殴られ続けたことです。身を守るためにかがんだ私は、たぶん土下座をしているような姿勢になっていたと思います。
父が42歳のときに私が生まれているため、年代としては”ザ・昭和”みたいな男性です。働いて家計を支え続けてくれた父への感謝はある一方で、ある時期までは、『父を殺さなければ』と私は思い続けていました」
31歳にして高校入学
14歳で自らの部屋を与えられた難波さんは、その日から自室が城になった。「部屋に対する執着が異常にあるんです」と語る彼女にとって、自室とはなんだったのか。
「社会にはもちろん、家にも安心できる場所がなかった私にとって、自分の部屋は唯一の逃げ場でした」
長きにわたって引きこもり生活を続けてきた難波さん。しかし皮肉にもその逃げ場を失う日がきた。28歳のときだ。家計が立ち行かなくなり、引っ越しを余儀なくされた。
「父が会社の人間関係などでうまくいかなくなったらしく、それに伴って経済的に厳しくなりました。結果として父は自己破産するのですが、我が家も借家住まいになりました」
このあたりで難波さんは一度社会に出ようと試みるが、分厚い壁に阻まれた。
「アルバイトの面接を複数受けましたが、いずれも断られました。就労さえできない自分の不甲斐なさを感じました。
同時に、一度道を外れてしまった人間に対する社会の不寛容さを肌で感じました。もちろん生きている価値がないのではないかと思い詰めたこともあります。けれどもそのとき、高校に入ってみようと思えたんです」
一見突拍子のない判断かのように見えるが、難波さんは31歳にして高校生となった。同級生は当然、年下ばかり。だが知り合った仲間たちとは現在も交流があるのだという。
「高校へ進学したことが人生の転機になったと思っています。私は使わない知識をすぐに忘れてしまう性質があって、高校に入学した時点では、九九も覚えていませんでした。それでも学ぶことの楽しさを知れたし、人生の寄り道をした同級生も多いので人の痛みを理解してくれる子が多くてその存在に助けられました。
高校の入学面接でお世話になった先生はなにかと気にかけてくれて、卒業後もランチをする仲です。同級生のなかには母親になった人もいますが、家に遊びに行くこともあって、高校時代に関係性を深められてよかったなと心から思います。
また、高校時代から働いていた友人もいたので、彼女の話を聞いて社会に関心が持てたことも、私が社会との接点を取り戻せた要因のひとつかなと感じます」
「死刑宣告を受けたに等しい」を乗り越えて
高校生活を経て、究極の自分史ともいえる著作『気がつけば40年間無職だった。』を世に放った難波さんは、その反響を踏まえたうえでこう話す。
「ひきこもりの当事者の方からお便りをもらうこともあり、それは励みになります。また、引きこもりのお子さんを持つ親御様からの声も多数あります。
あの当時、理解してくれる人がいないことは死刑宣告を受けたに等しい心境でした。だから、この書籍を通じて『私はここにいる』ということを伝えたかったんだと思います。
そのときに求めたものは私の場合、残念ながら得られませんでしたが、そういう経験があったからこそ、作品を生み出せたとも思っています」
不登校や引きこもりの問題は根深い。世の“当たり前”を遂行できない惨めな自分と向き合う時間はなんと長いことだろう。その長いトンネルでもがき続けた難波さんが声を上げた。どんなにか細い声でも、ないことにはならない。
停滞する人たちの背景に少しでも思いを馳せられる社会の幕開けに、この一冊が寄与するといい。
取材・文・写真/黒島暁生
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