〈袴田事件〉日本の裁判史上、初めて使われた「捏造」の文字…弁護人までもが長年、この言葉を忌避し続けた理由
集英社オンライン / 2024年12月30日 12時0分
〈〈旭川・女子高生殺害〉「リコさんを止めていれば」「涙が止まらない」トラブルメーカーだった共犯の“舎弟”が綴った謝罪文の中身、いっぽう“オンナ半グレ”“サンロクのリコ”は…〉から続く
2024年9月26日。強盗殺人などの罪で死刑が確定していた袴田巖さん(88)に、再審公判で「無罪」が言い渡された。この前代未聞の冤罪事件、実は日本の裁判史上、判決や決定で「捏造」という言葉が使用された最初のケースであった。
【画像】裁判官だけでなく、弁護人にとっても敷居が高かった「捏造」の主張
「真犯人が動き出した」
9月26日、死刑囚の袴田巖さんの再審裁判で無罪が言い渡された。事件発生から58年、冤罪に対する裁判所の「逃げ腰」が、世界中を見渡しても例がないほどの人権侵害を生んだ。
この事件では捜査機関(警察・検察)が有罪の証拠を「捏造」していた。「疑わしきは被告人の利益に」の大原則を捨て去り、捏造を見逃し、「疑わしきは検察の利益に」を実践し続けた裁判官たちの責任は限りなく重い。
筆者は、26年前にこの事件を取材し、テレビドキュメンタリー「死刑囚の手紙」を放送した。袴田さんが獄中から姉の秀子さんに宛てた膨大な数の手紙を紹介しながら、事件、裁判の詳細を伝えた。
外に向かって開かれた唯一の窓ともいえる手紙を通して、袴田さんは思いのすべてをぶつけた。時には怒りをほとばしらせ、時には絶望のどん底から、そして時には非常に冷静な推理を、家族に向けて発信し続けた。
30年分の手紙を読み終えた時、私は心の底から袴田さんの「無実」を実感することができた。もし、裁判官がこれをまともに読んでいれば(実際に弁護団はこの手紙を証拠として提出した)、袴田さんの無実にもっと早く辿り着いただろうと思うのだが、実際には、裁判官は検察官の提出した捏造証拠しか見ていなかった。
今回の裁判で「捏造」と判断された「5点の衣類」が味噌工場のタンク内から発見されたのは、事件発生から1年以上たってからのことだった。ズボンやシャツなどの衣類には大量の血が付いていた。
それまで検察官は、冒頭陳述で袴田さんのパジャマが犯行着衣であると主張してきたが、説得力がなく、弁護団はこれを突破口にしようと目論んでいた、その矢先だった。
「真犯人が動き出した」と袴田さんは期待を込めて手紙に書いてきた。ところが検察官は、緊急に開かれた法廷で、パジャマが犯行着衣であるとの冒頭陳述を撤回し、「5点の衣類が犯行着衣であり、かつ、袴田のものである」と主張した。
そして、その主張を裏付けるように、翌日、刑事が家宅捜索で袴田さんの実家を訪れ、タンスの中からズボンの端布(5点の衣類の一つであるズボンの裾)を発見するのである。
袴田さんが手紙に綴った「死刑よりも怖いもの」
袴田さんの期待は疑念へと変わった。
「端布等、私のものではない。したがって私の荷物の中に存在するわけは、また絶対ない」
そして、すぐに、すべてを見抜き「前代未聞の権力犯罪が未だに生きている」と手紙に記した。狭い拘置所の中で、捜査機関の底知れない悪意を知った袴田さんは打ちのめされる。
しかし、その後、裁判所がその捏造を見抜けず、死刑判決を言い渡した、その時の絶望には比べようもない。「その後からだね。巖がおかしくなり出したのは」と姉の秀子さんが語っている。
「確定囚は口を揃えて言う。死刑はとても怖いと。だが、実は死刑そのものが怖いのではなく、怖いと恐怖する心がたまらなく恐ろしいのだ」(袴田巖さんの手紙より)
その後、控訴も退けられ、1980年11月に最高裁が上告を棄却して死刑が確定した。
1981年に袴田さんは再審請求を申し立てるが、静岡地裁は、その後13年余り、これを放置し、証拠調べもせず、ある日突然、棄却決定を出した。
再審に関する審理の進め方についての規則がないために、担当の裁判官は(おそらく何代にもわたって)逃げ続け、そして、請求を退けた。その同じ日々、処刑の恐怖に怯えながら耐えている袴田さんが、正に、同じ時間の中にいる、そこに思いを巡らすことは一瞬たりともなかったのか。
「逃げ腰」どころか、これは裁判官による「不作為犯」というべきである。そして、第一次再審請求は、その後もまったく進展がないまま終了した。
筆者が、番組の取材に入ったのは、第一次再審請求の即時抗告審のころ。弁護団は、5点の衣類が「捏造」であることを証明するための柱にDNA鑑定を据えた。同時に、衣類に付着した「血痕の赤み」(長期間、味噌に漬かっていたにしては、血の色が鮮明過ぎるという疑念)についての実験も進められた。
以後の裁判の流れを簡単に記す。
第二次再審請求の静岡地裁は、DNA鑑定と「血痕の赤み」の実験の両方を新証拠と認め、再審開始決定を出した(2014年)。しかし、検察が即時抗告。東京高裁は、二つの証拠を共に退け、開始決定を取り消した(2018年)。
だが、特別抗告を受けた最高裁は、DNA鑑定は退けたものの、「血痕の赤み」の実験について、科学的な証明が尽くされていないとして、高裁に差し戻した(2020年)。これは、再審開始に向けての「正解」を与えたようなものであった。
高裁が、弁護人に「血痕の赤み」に関する科学者の意見書を提出させ、これによって再び開始決定を出した(2023年)。これには検察もあきらめて抗告を断念し、今年、再審無罪判決にたどり着いたのである。
このような紆余曲折を経て、やっと認められた「捏造」であるが、実は、判決や決定で「捏造」という言葉が使用されたのは、この袴田事件が最初である。
「捏造の主張は品位に欠ける」と語ったベテラン弁護士
2014年の再審開始決定、そして、今年の再審無罪判決、この2度だけである。筆者は、これまで20件以上の冤罪事件を取材してきたが、判決文、決定文で「捏造」という文字を見たことがない。捏造がないのではない。むしろ、冤罪には必ず、嘘の自白と捏造証拠がある。
過去の死刑冤罪4事件でも、すべてに捜査機関による証拠の捏造があった。それにも拘らず、裁判官は再審開始決定や再審で、一度も「捏造」という言葉を使っていない。狡く言い換えている。これは検察への気遣いなのか、あるいは怯えなのか。
例えば、死刑冤罪の一つ、松山事件(再審無罪・1984年)では、被告人の自宅にあった寝具の襟当てから被害者の血痕が検出され、これが有罪の根拠となるのだが、この血痕が捜査機関の捏造だった。
これについて、再審無罪判決は、血痕を付けたのが被告人ではなく、警察の押収後に付いたとみられるなど「不合理な付着状況」が認められるとした上で、「これらにかんがみると本物証は、これを以って有罪証明に価値のある証拠とすることはできない」と判示した。
なんとも回りくどい表現だが、とにかく「捏造」という言葉を回避しながら、襟当てを証拠から排除し、その結果、有罪の証拠が消え、無罪となったのである。
一方、袴田事件の弁護団の中でも、5点の衣類を「捏造」だと主張して再審を闘うことについては、様々な意見の相違があった。1998年の支援集会で小川秀世弁護士が次のように語っている。
「(裁判所が、5点の衣類のDNA鑑定を行うと決めたことについて)我々の主張に裁判所が耳を傾けたということです。画期的なんです、これは。弁護団の中ですら、あまり積極的でなかった『捏造』という主張に耳を傾けた、ということなんです。袴田弁護団以外の、他の弁護士さんからは、なんと馬鹿なことを袴田弁護団はしているのかと言われたこともありました」
裁判官だけでなく、弁護人にとっても「捏造」の主張は敷居が高かったということが分かる。捏造の主張は「品位に欠ける」と言ったベテランの弁護士もいたという。
捏造への嫌悪感とは、「刑事法廷では誰もが適正な手続きによって真実(事件の真相)の発見に邁進する」という基本原則が幻想に過ぎないこと、つまりは、そんな「表看板」のメッキが剥げてしまうことを、裁判官も弁護人も恐れた、その表れではないかと想像する。そして、検察官だけは、それが既に崩壊していることを知っていたのである。
文/里見繁 写真/共同通信社 Shutterstock
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