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『変な家』『ゲ謎』…近年再評価が進む“因習村モノ”が流行るまさかの背景「結局それって田舎をバカにしてんじゃないの?」

集英社オンライン / 2025年1月19日 17時0分

ネット怪談ブームを牽引した「都市伝説」と「学校の怪談」が後世に与えた意外な影響とは…実体験の伝承が一般知識となるまで〉から続く

近年、映画『変な家』や『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』のヒットで注目される「因習村モノ」。その歴史をたどると、1960年代の「秘境」ブームから1970年代の横溝正史ブーム、2010年代後半の「フォークホラー」ジャンルの浸透へと連綿と続いていると、ホラーに造詣の深い廣田龍平氏は指摘する。

【画像】「因習村」ものとして知られる、横溝正史の代表作『八つ墓村』

 

なぜ人は因習村に恐怖を覚えるのか? その理由を解説した『ネット怪談の民俗学』より一部抜粋、再編集してお届けする。〈全3回の3回目〉

因習系ネット怪談の潮流

吉田悠軌は、コトリバコこそが2000年代後半に続々と登場した「集落に隠された因習と謎についての恐怖譚」(つまり民俗学的要素を持つもの。名前だけ挙げると「八尺様」や「リョウメンスクナ」、「ヤマノケ」、「逆さの樵面」など)という方向性を決定づけたとする。

2010年代に入ると、長く語り継がれる新しい話は出てこなくなる(※1)。それに対して、2020年代に入ってもネット怪談と言えば典型的に挙げられるのがコトリバコや八尺様などであることからも分かるように、2000年代後半に生まれた因習系ネット怪談は、20年近く経ってもなお、根強い人気を保っている。

他方で、犬鳴村やコトリバコをはじめとして、古典的なネット怪談のいくつかが、「辺鄙な田舎」や「山の奥深く」に対する差別的認識によって読者にとってのリアリティを帯びることになったという点を無視することはできない。

都市部から遠く離れたところ(あるいは「未開」社会)には、現代文明の常識が通用しない、遅れた観念や非人道的な風習(「因習」や「迷信」などと表記される)を守る固陋な人々がおり、異常な出来事が、さも当然であるかのように生じている──という差別的偏見は、戦後日本に限っても、60年代の「秘境」ブームから70年代の横溝正史ブーム、2010年代後半の「フォークホラー」ジャンルの浸透や「因習村」概念の誕生にいたるまで、連綿と続いている。

因習村のジャンル概念はまだ固まっていないが、辺鄙な土地に、近代的とは思えないおぞましい風習(因習)が隠されており、都会から来た人々がそれに巻き込まれるというパターンを踏むものが多い。近年の映画では『ミッドサマー』(2019)、『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(2023)、『変な家』(2024)などが挙げられ、またネット怪談ではやばい集落や犬鳴村などがそれに近い。

ただ、これらのホラーやネット怪談においては、危険なのは前近代から続く風習というより、近代的ではない風習を現代も続けている(場合によってはわざわざ創出している)集団それ自体である点に注意が必要である。

このような観念は、近代化した日本社会においては、そうした因習が表面上は隠されている──という解釈によってリアリティを与えられている。普及初期のインターネットは、おおやけには流通しづらい知識をフィルターなしに入手できる新鮮な場として認識されていた。

そうしたなかでも、都市部の利用者が多かったか、少なくとも都市住民が多いことを前提として書くことが多かった2ちゃんねるは、インターネットとは、田舎の暗部なり非合理性なりを、学者や都市部の出版社によって「骨抜き」にされる前の状態で、しかもリアルタイムで提示してくれるかもしれない空間だったのだろう。

日本のホラー界隈でも、フォークホラーの広まりに連なるように、田舎を危険なものとして描くことが流行っているらしい。これに対しては、2020年に「近年、田舎を田舎というだけで何が起こっても許される装置として乱暴に描いてしまう応募作が多い」という批評がなされている。

ネット怪談と田舎と民俗学

この問題意識を引き継いで、小説家の澤村伊智はそうした作品について「「結局それって田舎をバカにしてんじゃないの?」という。感度が高い人ほど、たとえば横溝映画が全盛期だった70年代とは違って、異文化を恐怖の対象として扱う作品を無邪気に楽しんではいられないという意識を持ち始めている」と指摘している。

このような視点から犬鳴村を研究した鳥飼かおるは、犬鳴峠やその近辺をめぐるさまざまな否定的イメージをいくつも取り出している。

たとえば筑豊炭鉱の過酷な労働から逃げてきた人々の場所としての山中や、より広い意味で山に住む人々(「サンカ」「山人」など)への偏見などである。後者については、戦前の柳田國男らの民俗学が、山の人々を「文明社会の私たち」と対比させながら分析していたことも、鳥飼は指摘している。

そもそも田舎の「遅れた」民俗を誰よりも綿密に調査して世間に公表してきたのは民俗学者たちであったし、都会の「進んだ」人々は民俗学の研究成果によって風習や物語を知ることができた。あるいは民俗学者自身が、場合によっては「遅れた」民俗の近代化に取り組むこともあった。

それ自体は田舎の人々の生活改善を目指した運動だったのだが、彼らの仕事は、現代社会とは相容れない民俗の存在を、そういう枠組みのなかで紹介するものともなった。

日本民俗学のはじまりとも言われる(言われないこともある)『遠野物語』(1910)の序文で、かつて柳田は「願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と言い放ち、さまざまな伝説・怪談を都会の人々に向けて再話した。

しかし、スクリーンの手前という安全圏にいる二一世紀の平地人は、すでに「戦慄」をエンターテインメントとして楽しむことに慣れきってしまっている(※2)。

もしかすると、1990年代以降のフェミニスト映画論がホラー映画に「ジェンダーの二元論や男性中心主義、異性愛主義といった既存の性の規範を揺るがし、女性観客を力づけるポジティヴな可能性」を見出してきたような、ある種クィアな批評を田舎ものに試みることはできるかもしれない。

たとえば『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』では、田舎の因習に見えたものが、実際には近代化の過程で生じた歪みとして描かれている。因習系のネット怪談に対しては、読み手である私たちが、因習を単に「私たちとは無関係に過去から続く伝統」と捉えずに、近代社会との絡まり合いのなかで生まれたものと見れば(たとえばコトリバコならば、終わることのない差別や偏見)、そうした批評は可能かもしれない。


※1 ニュー速VIP版で2010年5月28日に投稿されたアガリビトという話は、2010年代の田舎もので珍しく今も知名度がある(とはいえ2010年のものだが)。「アガリビト」とは、ある地方で、人間が山に入っていき、完全に社会性も文化も喪失した状態のことで、地元では神様として信仰されているという。山に入っていった人間が妖怪になるという話は日本全国にあるが、「アガリビト」という名称は記録されていない。

※2 吉田 2024a の第6章「汲めども尽きぬ「民俗ホラー」という土壌」において、民俗学者の飯倉義之とともに、澤村伊智がこのあたりを批判的に語っているのは注目できる。

#1 2ちゃん発“ネット怪談”の金字塔「きさらぎ駅」が提示した新しい恐怖の形 「未完成のまま開かれていて…」 はこちら


文/廣田龍平

ネット怪談の民俗学

廣田龍平
ネット怪談の民俗学
2024/10/23
1,276円(税込)
320ページ
ISBN: 978-4153400337

きさらぎ駅、くねくね、ひとりかくれんぼ、リミナルスペース……ネット怪談の発生と伝播を、民俗学の視点から精緻に分析!
この恐怖は、蔓延(はびこ)る


「きさらぎ駅」「くねくね」「三回見ると死ぬ絵」「ひとりかくれんぼ」「リミナルスペース」など、インターネット上で生まれ、匿名掲示板の住人やSNSユーザーを震え上がらせてきた怪異の数々。本書はそれらネット怪談を「民俗(民間伝承)」の一種としてとらえ、その生態系を描き出す。
不特定多数の参加者による「共同構築」、テクノロジーの進歩とともに変容する「オステンション(やってみた)」行為、私たちの世界と断絶した「異世界」への想像力……。恐怖という原始の感情、その最新形がここにある。

【本書の内容の一部】
インターネットと携帯端末が可能にした「実況型怪談」の怖さと新しさ●2ちゃんねるオカルト板の住人たちによる「共同構築」の過程を追う●「都市伝説」「学校の怪談」ブームは、どちらも民俗学者がきっかけだった●田舎への偏見をはらむ「因習系怪談」から、SF的な「異世界系怪談」への移行●心霊写真からTikTok、生成AIまで、テクノロジーの進歩こそが怪異を生む●何らかの理由で自ら忘却している? 「アナログ・ノスタルジア」という感覚●もはや恐怖に物語は必要ない――2020年代ネット怪談/ネットホラーの「不穏さ」……

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