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〈阪神・淡路大震災から30年〉震災の映像記録を「消せ」というテレビ局員に大反対、1万5000本超のテープを見てライブラリーを作った映像編集者

集英社オンライン / 2025年1月17日 11時0分

阪神・淡路大震災が起きて、今年で30年になる。当時、ニュース番組の映像編集者として 連日情報を発信し続けていた宮村浩高氏は、同時にその膨大な映像資料をまとめていく作業を進めていた。 

【画像】1995年の地震の痕跡が保存されている、兵庫県神戸市にある神戸港震災メモリアルパーク

震災1年で撮影したビデオテープは1万本に 

1995年1月17日に起こった阪神・淡路大震災。震源地から離れていたとはいえ、私の大阪の自宅も過去に経験したことがない揺れを感じました。

在阪放送局の報道編集に勤務していた私は、不安な表情を浮かべる家族を尻目に市内にある職場に向かいました。

車で家を出たのですが、すごい渋滞で動きそうもなくすぐに引き返してきました。と、そこまでは記憶にあるのですが、その後どうやって職場にたどり着いたのか、実は全く覚えていません。

電車はもちろん動いていません。徒歩なら3時間ほどかかるはずなのですが、不思議なくらい記憶が飛んでいます。とにかく職場に着いてからは、編集漬けの毎日でした。

被災地にはカメラマンが総動員され、日々のニュースや企画、ドキュメンタリー制作のために大量のビデオテープを回していました。

震災から1年も経つと、そのテープの量は膨大な数に上ります。一本に20分録画できるビデオテープが、最終的には1万本を軽く超えていました。

とにかく毎日テレビ局に戻ってくるテープの数は膨大です。夕方のニュースに間に合わせるため、大慌てで必要な箇所だけ見て編集し放送するということも多かったので、そのときに見ていない部分は、誰にも見られることなくラッシュ(撮影された映像素材のこと)の山の中に埋もれてしまいます。

過酷な現場でカメラマンが撮影したテープがたった一度使っただけで、あるいは誰にも見られることなく、放置されているのは、映像を生業にしている私には辛いことでした。

そこで、泊まり勤務や少し手が空いたときなどにテープを一本一本見て、将来使えそうな映像は別のテープにダビングし、元のテープは消去していくことにしました。

残す素材を決めるというのは大変難しいことですが、どこを見て決めていたのかというと、変化していく風景はもちろんですが、やはり人物です。何年か経ってから、この未曽有の震災を振り返るときにその後の半生を神戸の復興とともに語ってくれそうな人。

テレビ用のポーズをとる人もいましたが、口下手でもリアルな言葉を発する人を残しました。あとは子どもです。将来的にこの子だったら、しっかりと育って10年、20年後には自分の言葉を持つ青年になるであろうと感じた子どもを探しました。

大災害が起きると、1カ月、1年、5年、10年と節目節目で特番や企画を必ず作ります。そのときに、過去の映像は大変重要な素材になります。必ず大きな価値が出てくることはわかっていたので、その保存作業に没頭したのです。

自身の財産であるビデオテープを「消せ」というテレビ局員 

実はこのテープの整理には、あるきっかけがありました。日々増え続けるビデオテープのため、急ごしらえのテープ棚が次々と設置され、それらの棚は報道編集の廊下を侵食していきました。当時、関西のどのテレビ局も同様の事態に陥っていたはずです。 

震災から1年も経つと、問題になるのがその膨大なテープの処理です。山積みのテープをどうするのか判断しなくてはいけません。そして出された指示は、「要らないテープはすぐに消去に回すように」というものでした。 

凄まじい勢いで消費されるビデオテープの経費も大きな問題です。消去すればそのテープを再び取材テープとして再利用できるのですから当然の指示です。

しかし、要らないテープといっても、そのほとんどはどんな映像が入っているのか担当した者にしかわかりません。担当者にいちいち聞いて回ることも大変ですが、聞いたとしても担当者にしてみれば、この先どう話が広がるかわからないので保存してほしいと言うに決まっています。

そうこうしているうちに、いよいよスペースもなくなってくる。ついには「本当に重要なわずかなテープ以外は消去しろ!」という厳しい命令が下りました。私はそれに猛反発しました。私には、テレビ局の唯一の財産はライブラリーであるという確信がありました。

当時はインターネットも台頭し始めていました。テレビ局の保有するライブラリーは、そのニューメディアに唯一対抗できる武器だと思っていたからです。

映像に映っている子どもたちが成人したとき、これらの映像は、それだけでドキュメンタリーが作れるほどの貴重映像になる可能性があるのです。実際、震災時にペットボトルで水を運んでいた印象的な子がいました。

10周年の特番でその子を探し出して番組を作ったところ、10年という時間の経過がわかる、とても奥行きの深いものになりました。それは結実した例ですが、よしんば、保存した大半の映像がムダになってもいい。それがライブラリーというものです。

そのときは何ということもない画かもしれませんが、時間の経過とともに物凄く大きな意味を持ってくることもあるのです。

ましてやカメラマンが過酷な現場で必死に駆けずり回って拾ってきた貴重な映像を、ほとんど見もせずに消去してしまうなんてことは絶対にできない。それはプロの編集者としての私の考えでした。

テレビ局員が自身の財産を「消せ」と言っているのを、外部の私が「それは駄目だ」と対抗しているのは、少々おかしな構図ですが。

文化価値に「コスト」を問うナンセンス 

反対した手前もあり、私が素材すべてを見ることになりました。テープを一本一本見て、将来使えそうな映像をダビングし保存していく。自前のノートパソコンには文字データとして記録し、検索できるようにする。

こうして阪神・淡路大震災のライブラリー作業がスタートしたのです。数年後にはこのデータはテレビ局本体のライブラリーデータに追加されることになり、誰でも検索できるようになりました。結果として、1万5000本超のテープを私一人で見ることになったのでした。

その保存した映像は、後の企画やドキュメンタリーに大いに役立ち、ディレクターたちからは感謝されました(後年、テレビ局から感謝状をいただきました。膨大なテープを見たという感謝状は異例だと思います・苦笑)。

しかし、映像の価値がわからない人が責任者になると、「何か実績を」と考えるからなのか、経費節減でテープを処分するという安直な判断をすることがあります。阪神・淡路大震災だけではなく、とても貴重な財産を一人の責任者の判断で消去されたケースを幾度となく見てきました。

実際、私自身も「あの映像は保存をお願いしていたから、まだあるはずだ」と思い、それを前提に、あるドキュメンタリーを企画したのですが、その素材は知らない間に無残に消去されていて、企画自体が白紙になったという経験があります。コストと文化価値の闘い。もどかしい思いを長年抱いていました。

震災から30年が経過しました。あのときの子どもたちももう壮年期でしょうか。映像編集者は短絡的にならず、未来に向けての仕事をこれからも繋げていってほしいと思います。

文/宮村浩高 写真/産経新聞社 shutterstock

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