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コードネームは「サンビーム」…東西冷戦時代に活躍した伝説のスパイ「私がMI6に協力したのは自由な文明国へのあこがれからです」

集英社オンライン / 2025年2月6日 7時0分

「あの法律は暗殺宣言です。しかも、外国の領土でそれをやれるようにした」暗殺を合法化する法案を成立させたプーチン大統領のヤバすぎる経歴〉から続く

映画『007』シリーズなどスパイをテーマにした作品は枚挙にいとまがない。だが冷戦時代に活動していた本物のスパイの活動をつぶさに知るものは少ないだろう。ソ連のKGB(ソ連国家保安委員会)職員として働く中、民主主義の偉大さに気づき、祖国を裏切って世界平和に貢献した伝説の二重スパイ、オレグ・ゴルフジエスキーの経歴を紹介する。本記事は、書籍『プーチンに勝った主婦 マリーナ・リトビネンコの戦いの記録』より一部を抜粋・再構成したものです。

【画像】伝説のスパイ、オレグ・ゴルジエフスキー氏

アレクサンドル・リトビネンコ氏=サーシャ KGBの元職員、英国に亡命しロシアに対する反体制活動家となったが、2006年英国でロシア政府によって毒殺された

マリーナ・リトビネンコ氏 アレクサンドルの妻 夫がロシア政府に殺されたことを裁判で証明した

オレグ・ゴルジエフスキー氏 元KGB職員、民主主義のためにMI6(英国の秘密情報部)で活動した伝説的なスパイ

私(著者の小倉氏)はマリーナ氏や周辺への取材を通じて、ロシア政府による暗殺の実態を明らかにしていく

伝説のスパイの経歴

ゴルジエフスキーは第2次世界大戦が始まる前年の1938年、モスクワで生まれた。中国東北部周辺では日本軍とソ連軍の間で緊張が高まり、欧州ではヒトラー率いるナチス・ドイツがチェコスロバキアの一部を占領し、オーストリアを併合していた。

KGBに勤務する父の下、特権階級に与えられるマンションに暮らし、食べ物は十分にあった。モスクワ国際関係大学で歴史学などを学び、東ベルリンにいた1961年、この街を東と西に分ける壁が建設された。彼が最初に社会・共産主義体制に疑問を抱いた瞬間だった。

自由や豊かさが西側にあるのは明らかだった。東独の住民はみんな西側の生活にあこがれていた。政府は「社会主義の楽園」を唱えたが、市民は誰一人、信じていなかった。彼は自伝に書いている。

〈東独人を楽園に閉じ込めておけたのは、ただ監視塔で武装した警備員によって補強された物理的な障壁があったためだ〉

1962年、正式にKGBに入る。

「大学にいるときにKGBにスカウトされたんです。あの組織は職員を募集しません。有名大学にスカウトを配置している。優秀な学生の中から、秘密情報活動に興味を持ちそうな者を見つけて声をかける。プーチンもそうやってスカウトされました」

ゴルジエフスキーは最初、KGB将校を外国に入国させる部署に配属された。任務の一つはパスポートの偽造である。例えば、送り込み先の国で墓地を歩いて埋葬された赤ちゃんの名前を見つける。出生証明書を手に入れてパスポートを申請する。

モスクワ郊外と東ベルリンにパスポート偽造工場もあった。彼はドイツやスウェーデン、スイスの偽造パスポートを作り、KGB将校に渡していた。

「フレデリック・フォーサイス(英国人作家)のスパイ小説『ジャッカルの日』は読みましたか。あの中にも偽造パスポートを取得するシーンがあったと思います。おそらくフォーサイスはKGBから学んでいます」

その後、デンマークの首都コペンハーゲンに赴任し、西側の豊かさを実感する。素晴らしいクラシック音楽や絵画があった。市民が美しい歯をしているのにも驚いた。ソ連では当時、虫歯を抜いてしまう人も少なくなかった。

チェコスロバキアの首都プラハでは1967年から、民主化を求める市民によるデモが発生した。コペンハーゲンに暮らし、西側の生活を知る彼には、プラハ市民の要求は至極当然に思えた。

しかし、祖国ソ連の幹部は社会主義体制を揺るがすものと考え、許容しなかった。ソ連軍主体のワルシャワ条約機構軍は8月20日、「ドナウ作戦」と呼ぶ軍事侵攻を開始し、自由を求める市民の声を戦車で弾圧する。ゴルジエフスキーは共産主義体制への嫌悪感をさらに強め、ソ連政府への裏切りが頭をよぎった。

彼は1972年に再度、デンマークに赴任した。1974年の終わりにMI6(英国の秘密情報部)への協力を決意し、翌75年から実際に二重スパイとしてのキャリアをスタートさせる。プーチンがKGBに入った年である。欧州に近いレニングラードに生まれた青年が、秘密情報の世界に身を投じるのと入れ替わるように、ゴルジエフスキーはこの組織を裏切った。

社会は自由で民主的であるべきだとの信念

大使館員の仕事の一つは、式典(レセプション)への出席である。各国大使館が独立記念日や国王の誕生日などに開くパーティーに顔を出し、外交官同士で情報を交換する。秘密情報機関から大使館に派遣されている者は互いの素性を知っているケースが多い。

ゴルジエフスキーは英国大使館に勤務するMI6の職員を知っていた。他国の大使館でのレセプションで会い、連絡をとるようになる。

「かなり悩みました。家族を危険にさらすことになるしね。でも、自分に嘘はつけなかった。人類は民主的で寛容な社会を実現すべきだと信じていた。KGBやロシア軍は人の命を奪って民主化の動きを潰していた。ソ連は邪悪な独裁国家で、70年代には欧州を射程圏に入れた短距離核ミサイルを配備していた。危険な政権を潰す必要があった。勇気を持って自分の信念を貫きたかった。英国への協力は、ソ連の『奴隷制度』に押しつぶされないためでした」

ゴルジエフスキーはMI6の協力者となった。コードネームは「サンビーム」などである。1982年には政治部に異動した。KGBの中枢機関で、各国に配置されたエージェントを管理、指導する。エリートの集まる部署であり、ここでの勤務は彼の希望だった。

政治部では英国、オーストラリア、ニュージーランド、アイルランド、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、アイスランド、フィンランドの情報を統括し、政府への報告書を作成した。西側にとって、大きな成果となった情報がある。

「ソ連政府は米国のレーガンが核攻撃を仕掛けると考え、対策を検討し始めた」

米国は1960年代から70年代にかけ、ベトナム戦争に足を取られて国力を低下させていた。ソ連との軍拡競争を回避するため、ニクソン、フォード、そしてカーター各政権は「デタント」と呼ばれる対ソ緊張緩和策をとり、核軍縮を進める。

しかし、1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻すると、米国は再び強硬姿勢に転じ、81年に大統領に就任したレーガンはソ連を「悪の帝国」と呼び、敵対姿勢を鮮明にした。

ソ連はこれを単なる脅しと考えず、米国から核攻撃を受ける可能性は極めて高いと判断し、対策を始めた。その極秘情報をMI6に流したのがゴルジエフスキーだった。

レーガンは英国経由でこの情報を入手し、誤解を解くためのメッセージを発するようになる。これによって核戦争のリスクが低減された。

ソ連・ロシアや英国、米国には過去にも二重スパイがいた。その多くは、経済的利益から敵対組織に協力している。しかし、ゴルジエフスキーは違った。MI6に協力した理由はイデオロギーだった。

共産主義への反発、社会は自由で民主的であるべきだとの信念が彼を裏切らせた。物欲や個人的感情ではなかった。そうした例はほとんどなかった。

映画のようなスパイ同士の攻防戦

彼はこう説明する。

「私がMI6に協力したのは自由な文明国へのあこがれからです。東欧やソ連もそうした社会を作るべきだと考えたのです。ほかのスパイのように金銭的利得のためではありません」

過去のインタビューでも彼は、「全体主義体制への反逆だった」と語っている。

「ロシア人はそれぞれの持ち場で体制に逆らってきました。音楽家のショスタコービッチが書いた交響曲第5番は、スターリン批判に聞こえます。作家のソルジェニーツィンはペンで闘った。私は諜報の世界でクレムリンに逆らったんです」

ゴルジエフスキーはMI6の協力者である。ソ連がこの情報をつかんだのは1985年だった。

MI6はCIAと情報を共有する際、情報源を開示せず、内容だけを伝える。それが通常のやりとりだった。ゴルジエフスキーの情報は特別精度が高かった。レーガンは情報を受ける際、たびたびそのソースについてたずねた。

そのためCIAは慣例を破って情報源を探索する。その結果、出てきたのがKGB幹部のゴルジエフスキーだった。MI6が「火星」に送り込んだ者をCIAは特定したのだ。

どうやって知り得たのだろうか。背景には米英ソによる映画さながらのスパイ合戦があった。KGBはCIAのソ連・東欧部に協力者を作っていた。米国人のオルドリッチ・エイムズ(CIA工作員でありながら、ソ連へ協力した人物)である。贅沢志向の彼は自らKGBに情報を売り込み、ソ連政府から巨額の金銭を受け取った。その額は日本円で数億円にもなると見られている。

エイムズが提供した情報の中には、西側諸国に情報を提供しているソ連人の名が10人以上あった。そのうちの1人がゴルジエフスキーだった。ソ連は割り出したCIA協力者のほとんどを逮捕している。最終的にその多くは死刑になった。例外がゴルジエフスキーである。エイムズは1994年に反逆罪で逮捕された。その後、終身刑を言い渡され、現在も服役中だ。

ゴルジエフスキーも危なかった。ロンドンからモスクワに呼び戻され、薬物を飲まされたうえ聴取されたが、二重スパイとは認めなかった。英国政府の特殊部隊が85年7月、彼を救い出し、車のトランクに隠してフィンランド国境から脱出させた。

その後、彼はノルウェーを経由してロンドンに到着する。ソ連がゴルジエフスキーに死刑判決を出したのは4カ月後である。

「私は80年代にKGBから亡命した者として唯一の生き残りだと思います。こうやって日本人記者と話すのは奇跡です」

二重スパイであることは妻にも打ち明けていなかった。曲折はあったものの家庭は崩壊した。ゴルジエフスキーはその後、米メディアに対し「オルドリッチ・エイムズはお金のために私を売った。一方、私はイデオロギーのために英国に協力したのだ」と強調している。

彼が建設を目撃したベルリンの壁は28年後の1989年、崩壊する。KGB情報員として東独ドレスデンに駐在していたのが、当時37歳のプーチンだった。東独市民はKGBを目の敵にしていた。

そのため、自由を手に入れた市民にプーチンは恐怖を感じた。そのトラウマ的記憶から、彼は信じるようになる。「市民を自由にしてはならず、秩序維持のためには力で抑え込む必要がある」と。

壁の建設を目撃して、自由の重要性を知ったゴルジエフスキーに対し、その崩壊から力による秩序維持を信じたプーチン。2人の思考は壁を隔てて、逆方向に向かっていた。

写真/shutterstock

プーチンに勝った主婦 マリーナ・リトビネンコの闘いの記録

小倉孝保
プーチンに勝った主婦 マリーナ・リトビネンコの闘いの記録
2024年12月17日発売
1,430円(税込)
新書判/352ページ
ISBN: 978-4-08-721341-6

夫アレクサンドル・リトビネンコは放射性物質によってプーチンに暗殺されたのか? 
その真相を明らかにするため、妻マリーナは立ち上がった。
この動きを妨害する英国、ロシアという大国の壁を乗り越え、主婦がプーチンに挑み勝利するまでの過程を、マリーナと親交がある著者が克明に描き出す。
同時に、ウクライナ侵攻に踏み切ったプーチンの特殊な思考回路や性格、そのロシアとの外交に失敗した国際政治の舞台裏、さらに国家に戦いを挑んだ個人の姿と夫婦の愛を描く、構想12年の大作ノンフィクション!

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