「論理的に考える」と「理論的に考える」はまったくの別物だった! では具体的にどう違うのか?
集英社オンライン / 2025年2月2日 10時0分
〈「論理的に考えられる人」と「考えられない人」はなにが違うのか? 両者を分ける決定的な差〉から続く
法廷を舞台にした物語は、たいてい対立と緊張に満ちているが、その厳格な場所で実践されてきた論理的思考には、実は人と人とを結ぶ温かな知恵が隠されている。司法試験をはじめとする法律資格受験指導校「伊藤塾」を主宰し、30年以上にわたって、法律家や公務員を目指す人たちや法律の世界で活躍する人たちと関わってきた伊藤真さんの著書『考える練習』(サンマーク出版)より一部抜粋、再構成してお届けする。
「結論」「根拠」「証拠」の三つを意識する
法律家の世界では、「結論」と「根拠」がもっとも重要になる。
なぜなら、裁判では、有罪か無罪か、原告の勝ちか負けかのどちらかに結論を決めなければいけないからだ。さらにその結論を納得してもらうためには、根拠づけの部分が重要になる。結論と根拠を示すことが、法律には不可欠の要素である。
すこし余談になるが、大昔の法律では、有罪、無罪を、熱湯に一瞬手をつっこんで、火傷をしていなかったら無罪とか、亀の甲羅を焼いてひびがどんなふうに入るかで決めていたという。
今となっては信じられないかもしれないが、そのときの根拠はこうである。人間にはこの人物が有罪か無罪かはわからない。自分が見てもいない事件について、この人が犯人だとわかるわけはないという人間の限界があって、真実を知っているのはお天道さまだけ、神さまだけだから、神さまの考えを聞いてみようという発想だった。
亀の甲羅がこんな割れ方をしたら有罪だ、という共通の物差しがあれば、それが根拠となって、その共同体の中では「これが神さまのご意思だ」と納得できる。
「証拠」とは何か
だが当事者は納得できない。共同体の中にも納得できない人がいるかもしれない。その人たちにも「これは有罪です」と認めてもらうために、もっと説明する必要が出てきた。それが「証拠」である。
近代法は「証拠」に基づいて判断する点に大きな特徴がある。証拠に基づけば、神さまを信じない人たちも納得できる。証拠を示して、どうしてその結論が導かれたのかを、一定の根拠をつけて説明していけばいいのだ。
では「証拠」とは何だろう。犯罪事実でわかりやすく説明すると、その犯罪事実が残した痕跡のことである。犯人がナイフで被害者を刺したとすると、犯人が握ったナイフに指紋という痕跡が残る。そこで指紋採取して、何か月後かの法廷に持ち込んで、判断するわけだ。
あるいは現場に足跡が残っていれば、足跡という痕跡を型に取ったり、写真で撮影したりして、それを法廷に持ち込んで裁判官が判断をする。
「私が見ました」という目撃証人がいるなら、その証人の記憶が過去の事例の痕跡となる。それらの痕跡を時空を超えて裁判官の前に提示すると、裁判官は証拠に基づき、「この人が殺した」という過去の事実を推測して認定していくのだ。
だから、証拠に基づき判断するプロセスは、誰もが納得できる形で一定の結論を導こうというプロセスそのものである。
たとえば、ナイフを握らなければ指紋はつかない。だから彼が握ったのだと推論できるのは、因果関係の法則をみなが日常の経験の中で理解し、納得しているからだ。そうした物差しと根拠を積み重ねて、裁判は進んでいく。
「論理的に考える」と「理論的に考える」は別物
その過程では、異なる物差しや根拠が示されることもある。たとえば握ったから指紋がつくのはその通りかもしれないが、彼は握っていないのに、ほかの誰かが彼の指紋をそこにつけた可能性もあるかもしれない。
あるいは握ったとして、それを使って刺したとは限らない。家でふだん使っていたナイフを犯人が持ち出して利用しただけかもしれない。
こんなふうに別の根拠や因果の法則を持ち出して、もっともな結論に反対する結論で説得する。それが裁判だから、まさに裁判の過程は論理的な説得の過程そのものといえよう。法律は、論理的に考える練習の連続だ。
私は日常生活でも、「その根拠って?」「結論は何?」と自問自答しており、この思考がしみついているようだ。だれかと話しているときも、おたがいが理解できる「物差し」を探しながら話している。
こうすることで、考えるスピードが速くなり、決断も速くなり、自信をもって行動できるようになった。神頼みもときにはいいかもしれないが、論理的に考える練習をすることの効果は計りしれないと思っている。
ところで、「論理的に考える」のと似た言葉に「理論的に考える」がある。両者は似ているが、まったく別物だ。
「理論的に考える」ほうは、何か決まった「理論」があって、それにあてはめて考えていくことだ。
「論理的に考える」ほうは、目的を持って、根拠づけを行いながらみずから結論に導いていく過程のことをいう。「論理的に考える」ことにおいては、根拠づけが重要になる。なぜ重要なのかというと、「相手と自分は異なる存在」なのだという大前提があるからだ。
論理的に考えることは相手に対する優しさのあらわれ
自分と他人は違うのだから、伝わらなくてあたり前。説明しないと、伝わらない。そういう前提で考えたほうがいい。
だから、共通に理解しあえるところまで深く掘り下げて、伝えていくために「論理的に考える」ことが必要になってくるのだ。
結局、「論理的に考える」とは、他者を尊重するということになる。相手の立場を尊重したり、相手の立場に立ったりするから、相手にもわかるように論理的に考えて説明しようと思うのである。
裁判や法律が論理的なものというイメージがあるのは、人はそれぞれ違っていて、対立することもあるので、論理的なものが必要になるからだ。
そう考えると、ディベートと「論理的に考える」のも少し違うことがわかる。ディベートは勝ち負けの世界だが、「論理的に考える」のは、勝ち負けではない。むしろ、いかに相手と共有できるかということを目的としているから、説得に近い。相手に自ら納得して動いたり、行動したりしてもらうために、論理的にこちらの考えを伝えていくことが目的だ。
決して相手を言い負かしたり、自分の立場を押しつけたりするために論理的な考え方が存在しているのではないことを覚えておかなければいけない。
自分と相手はそもそも違う。だれ一人、同じ人間はいない。だから、共通の物差しを探し、歩み寄る。論理的に考えることは、相手に対する優しさのあらわれである。
文/伊藤真
1958年、東京生まれ。伊藤塾塾長。81年、東京大学在学中に司法試験合格。その後、受験指導を始めたところ、たちまち人気講師となり、95年、「伊藤真の司法試験塾(現、伊藤塾)」を開設する。「伊藤メソッド」と呼ばれる革新的な勉強法を導入し、司法試験短期合格者の輩出数全国トップクラスの実績を不動のものとする。「合格後を考える」という独自の指導理念が評判を呼び、「カリスマ塾長」としてその名を知られている。現在、弁護士として、「1人1票」の実現のために奮闘中。
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