「コロナ禍が書かせた小説たち」古川真人×小山田浩子『港たち』刊行記念対談
集英社オンライン / 2025年2月9日 11時0分
芥川賞受賞作『背高泡立草』から五年。古川真人が新作『港たち』で再び九州の離島を舞台に一族の物語を紡いだ。連作形式で繋がる五つの短編では島の温かな光景の背後に、コロナ禍の不穏な時勢が色濃く刻印されている。古川と同じく新潮新人賞出身の小山田浩子もまた新作となる連作短編集『最近』で、ある夫婦を視点にコロナ禍の時間を切り取っている。
芥川賞受賞作『背高泡立草』から五年。古川真人が新作『港たち』で再び九州の離島を舞台に一族の物語を紡いだ。連作形式で繋がる五つの短編では島の温かな光景の背後に、コロナ禍の不穏な時勢が色濃く刻印されている。古川と同じく新潮新人賞出身の小山田浩子もまた新作となる連作短編集『最近』で、ある夫婦を視点にコロナ禍の時間を切り取っている。何かが解決されたわけではないのに、いつの間にか終わったことにされているあの時間を描くことの意味とは――。互いの小説に共鳴し続けてきたという二人の小説家による初めての対話が行われた。
構成/長瀬海 撮影/隼田大輔
読まれているかという不安
古川 小山田さんとは年賀状のやりとりはありましたけど、お会いするのは初めてですね。
小山田 そうですね。古川さんは私と同じ新潮新人賞の出身ということもあって、いつかお会いしたいと思っていました。私が太田靖久さんと同時に受賞したのは二〇一〇年なんですが、そのあとの受賞者ってキラ星のごとく素晴らしい方々が続いたんですよ。滝口悠生さんや高尾長良さん、上田岳弘さん高橋弘希さん、……そして古川さんと鴻池留衣さん。新潮新人賞は他の賞よりもやっぱり気になるから、みなさんのご活躍は関心を持って見ていました。なかでも古川さんの小説は、デビュー作の『縫わんばならん』から三作続けて文芸誌に書評を書かせてもらったこともあって、継続して読んできました。だから、今日はお目にかかれてとても嬉しいです。
古川 こちらこそ、小山田さんとはずっとお話ししてみたいと思っていました。小山田さんが書くものは好きでずっと読んできましたし。小山田さんの小説からは不思議と近代文学のような味わいを感じるんですよ。文学作品を読んでいるなぁという得難い経験を手にすることができるというか。それを味わうのが僕の大きな喜びになっていると伝えたいと思っていました。もちろん書評のお礼をしたかったのもあります。
小山田 ありがとうございます。古川さんは文芸誌に掲載された作品の感想をSNSに投稿してくださるので、こちらも嬉しいんですよ。私はいつも小説を発表するたびに、誰が読んでるんだろう……と不安になってしまうので、古川さんが読んでくれるのは心の支えになっています。
古川 SNSは文字数制限もあるので小説全体の感想は書けないんですよね。その代わりにこの一文、笑っちゃったなとか、不思議な書き方だなみたいなのをよく抜き出しているんですが、小山田さんの小説にはとりわけそういうのが多いんです。だからついつい呟いてしまって。
小山田 ありがたい限りです。古川さんは小説を発表したあと、不安になったりしませんか?
古川 もう割り切って考えています。そういうものか、と。僕がデビューしてからの八年間でSNSに投稿された自作への感想より、M−1に初出場した芸人の漫才に対するコメントの方が圧倒的に多いのはわかりきったことですし。でも二、三年後とかに、思いがけない人から感想をいただいたりしませんか? あっ、読んでくれてたんだって。
小山田 たまにありますね。イベントや文フリなどで読者に会うと、驚きつつ嬉しくなります。
古川 純然たる読者と、感想をSNSに投稿する人は必ずしもイコールだとは限らないですからね。胸のうちに感想を大切にしまってくれている人もたくさんいるでしょうし。
小山田 きっとそうですね。とはいえ、古川さんの言葉は励みになっているのは間違いないので、この場を借りてお礼ができてよかったです。
「港たち」における語りの複雑さ
小山田 『港たち』はデビュー作から古川さんが書き続けている島を舞台として一族を描いたサーガですね。連作短編集という形式になっていますけど、最初から繋がりを意識して書かれたんですか?
古川 いえ、まず「明け暮れの顔」を単発で書きました。『すばる』(二〇二二年四月号)が「『働く』を変えるヒント」という特集だったのですが、それにあわせて書いた短編です。「港たち」を発表したのは、それから一年ちょっと経ってだったかな。そのタイミングで編集者さんが連作にしないかと提案をしてくれたんです。「明け暮れの顔」が単行本に入らずに浮いてるなら「港たち」と繋げて歳時記のように一年間を書いてみたらどうですか、と。
小山田 だからお盆で始まって、お盆に向かうんですね。
古川 そうですね。途中で明確に連作にしようと決めたんですが、最初はそのつもりじゃありませんでした。
小山田 古川さんの小説をずっと読んできた身からすると、慣れ親しんだ人たちにまた出逢えたような感じをおぼえて、いつも通り面白く読みました。でも、注意深く見てみると、複雑な語り方をされていることにも気づかされます。例えば「港たち」だと、冒頭から敬子婆を視点とした語りが続きますよね。
親戚が集まる空間で敬子婆が見たり聞いたりするものが語られるんですが、かぎかっこも何もない地の文がばーっと続くので、どれが誰の声かわからないまま進んでいく。このまま最後まで行くのかなと思ったら、途中でかぎかっこ付きのセリフが出てきて、稔の視点に移り変わる。稔たちは、この土地に根付くお盆の伝統的な慣習として海に舟を流すんですが、その儀式が終わるとまた敬子婆の視点に移り、今度はタッコ婆との思い出が語られる。と、思ったら、また稔へと戻って……みたいな感じで、とても入り組んだ語り方をされていますね。複雑なんだけど、語りがあまりに自然だからすーっと読める。その仕掛けに初めのうちは気づかなかったほどです。語り方については最初に決めてから書かれますか?
古川 ざっくりと、大枠だけ決めます。今回で言えば、混ぜようかなと思うくらいで具体的にどうするとかは特に決めません。
小山田 なるほど。古川さんは自然に書くとどういう文体になるんですか?
古川 例えば「明け暮れの顔」がそうなんですが、かぎかっこのなかは基本的に方言にして、地の文はわざと硬く、くどくど説明する感じにしようと意識して書くことが多いですね。そうすることで、標準語に慣れている読者に方言の部分が飛び跳ねているような印象を与えたいというか。それは僕の好きな島木健作などの近代文学に影響を受けた部分が大きいですね。
実感をいかに語るか
小山田 古川さんの文章は方言の使い方ももちろんいいんですが、細かい描写も目を引くものが多いんですよ。私が好きだったのは「港たち」で稔たちが舟を海に流しに防波堤まで歩いていく場面です。
防波堤の突端あたりまで歩いていった稔は、階段を降りて海に近づこうとする。そのときに「四段目まで足を下ろすとカキか、それともカラスガイかフジツボか、暗くて見えないものの、とにかく貝殻の欠片を踏んだらしく、サンダルの底でパチン、と小さく砕ける音がした」と書かれているんですが、ここの描写がとても好きでした。すごい実感と、それに伴う驚きがあって。
古川 そこは小山田さんっぽいなと自分でも思った場面です。小山田さんの新刊『最近』を読みながら、僕も小山田さんの細かい動作の描写に惹かれました。特に最初の「赤い猫」で、「私」が病院に運ばれた夫を待合室で待つ間に、自動販売機で水を買うくだりの描写がとても良くて。「私は立ち上がって自動販売機で水を買った。薄い柔らかい素材のボトルで、蓋を開けるとぎゅっと水が飛び出て手が濡れ床にも垂れた。足で水を踏んで広げながらマスクをずらして一口二口飲み、蓋を閉めてマスクを戻した」。ここを読みながら、自分の小説にも同じようなところはあるかなと考えて思いついたのが、「港たち」の貝を踏むシーンだったんです。だから小山田さんがそこに反応されて、やっぱりと(笑)。
小山田 そうだったんですね。あの場面はほんといいなと思いました。そのあとも、舟をどうやって水に浮かべるか悩んだ稔は「片足を一段上に置くと、できるだけ腕を伸ばし、落とさないように進水させることにした。ザプン、という音がして海面が盛り上がり、四段目に置いていたほうの足を濡らした」とあって、ここもすごくよかった。実際は小さい段ボールの舟を水に浮かべることと海面が盛り上がることに、どこまで因果関係があるかわからないじゃないですか、というか本当は多分ない。でも、このとき稔には、自分の動作のせいで水がかかったんだという実感がある。それが文章から伝わってきて、いい描写だなと思いました。
小説ってどう書いてもいいものなんですよね。だから、自分が世界に働きかけた結果、世界が変わったみたいなことを表現するのにいくらでも方法はありうる。古川さんはそれを、小さな舟を浮かべようとしたら海面が盛り上がったことで表されていて、その素朴でありながら鮮烈な書き方に共感しました。しかもこのとき、あたりは暗いから目視ではわからない。だから足に水がかかったことで、稔は海面がちょっと上がったことに気づく。そういった登場人物の五感を伴う実感を自然に伝える描写がたくさん詰まっているのが、『港たち』という短編集の大きな魅力なんだなと思いました。稔ら語り手と、読んでいる私とが同じ世界を生きているような本当らしさがあって。
古川 ありがとうございます。小山田さんに聞いてみたいと思っていたんですが、小説の細かい描写をするときって、どれくらい実際にあったことを思い出して書かれていますか? 例えば、僕の場合、海に舟を浮かべて足が濡れるというのは実際にあったことなんですよ。
小山田 そうなんですね。私の場合は両方ですね。自分が経験したことと、実際にあったわけじゃないけどあり得ること。何かを書くというのは、現実にあったことじゃないことも思い出して書くことなんだと私は常々思っています。例えば、あるできごとを時間の経過とともに思い出していると、ある時点から記憶にはなかったことも思い出し始めるんですよね。仮にそのときもしカメラで記録していたら決して映らなかったことまで思い出していく。
それは創作しているのとも違って、書いている側の感覚としてはあくまでも本当のできごとなんです。その感じを掴めると、小説がうまく駆動し始める。逆にうまく思い出せずに、こう描けば美しいだろうとか滑稽になるだろうとか考えて何かを組み立てると、その小説はうまくいかない。どこかで踏ん切りをつけて、また思い出す作業を一から始めなくちゃいけなくなる。描写をするというのはそうやって、実際にあったことを起点に、なかったところまで行くことなんだと私は思っています。
現実を虚構のなかで語り直す方法
小山田 私も古川さんに聞きたかったことがあります。おそらく古川さんの小説は、ご自身が見聞きしたことが根底にあるんだと思います。一家の話や島のできごとなど現実がベースになっていると思うんですが、書いていくうちにどこから小説になっていく感覚をおぼえますか?
古川 どうなんでしょうね。確かに小説に書かれていることは、記憶や経験のかけらとしてまず自分のなかにあるものです。例えば「シャンシャンパナ案内」だったら、原っぱに雷に打たれたトンビがバタバタと死んでいた場面や、吉川の納屋に敷き詰められた漁網の上に寝っ転がるところは、僕が実際に経験したことです。
ただ、一つひとつは別の日のできごとで、それを僕が勝手に繋げているだけですね。小説には納屋で寝ていたら雷雨の音がして目がさめたと書いているのですが、現実にはそのとき嵐まではやってこなかった。だから小山田さんのおっしゃるように、あたかも本当にあったことのように思い出しているのかもしれません。
小山田 納屋で寝っ転がったことと嵐に遭遇したことは別々のできごとだったんですね。書いているうちに自然にひと繋がりになるんでしょうか?
古川 というか、別々のできごとをくっつけてしまうのは自分の実力不足のせいなんだと思っています。一つひとつを別々に書ければもっと小説としていいものが書けるような気がするんですが、どうもうまくできない。だから、仕方なく同じ日のできごとにしています。
小山田 でも、親戚の方の話や自分の経験したできごとをうまく取り出して組み合わせることで、これだけ面白い小説に仕立て上げられるのが古川さんの力なんだと思いますよ。トンビの死体が転がっている情景はマジックリアリズム的な表現なのかと思わされましたし。
古川 あれは子どもの頃の記憶ですね。前日、婆さんちで勉強かゲームをして遊んでたら雷がゴロゴロ鳴り出したんですよ。でも嵐はすぐに去ったので翌日の昼に海に泳ぎに行ったら、原っぱに真っ黒焦げのトンビがバタバタと落ちていて。トンビも雷に打たれるのか、と。
小山田 意外です。地球に長いこと生息しているトンビも雷の日に身を守る術を持たないんですかね。ちなみに「鳶」という題の短編も収録されていて、こっちの鳶は幻想的な雰囲気で。稔は幼い頃、父親と島を歩きながら、たくさん飛び交う鳶を見かけた。一羽の鳶が空中に停止している姿に目を取られていると、気づけば同じく化石のように止まったまま浮かぶ鳶たちがあたりを囲んでいたという。そのうちの一羽を父が素手で触ってどかすんですよね。この光景、すごいなと思いました。
古川 あれは嘘ですね。
小山田 こっちは完全な虚構なんですね。だけど鳶の実感はとても生々しかったです。やっぱりにおいとか音とかが明晰に語られるところとフワッと不思議なところが、人の記憶らしく入り混じっていて。
古川 この作品の最後も我ながら小山田さんっぽさがあるなと感じています(笑)。過去と現在がシームレスに繋がる感じが特に。「鳶」を編集者さんに送ったときには、小山田さんを目指して書きましたと言いました。この書き方を一度やってみたかったんです。
小山田 恐れ入ります。そう、「鳶」では、親族の結婚式というざわざわ落ち着かない現代の話と、子どもの頃の不思議な記憶とが交互に書かれていて、その二つが一つになっていく書き方がすごくいいなと思いました。
並んで歩くときの温かさ
小山田 『港たち』の収録作はどれもいいんですが、私は特に「シャンシャンパナ案内」が好きでした。最後のページなんて読み返すたびにちょっと泣いてしまって。古川さんの小説にはデビュー作からずっといつも温かさがあるんですよね。人間を信じているというか、優しい眼差しでいろんなものを見ているんだろうなって毎回思わされます。
「シャンシャンパナ案内」は、稔がタッコ婆とシャンシャンパナと呼ばれる磯を一緒に歩く小説ですね。タッコ婆は目がよく見えないから代わりにまわりに何があるか教えてあげなきゃいけないんですが、そこに何があるかはタッコ婆の方が詳しい。「もうトリジェ辺りやろね、ここいらは」と言われても、地図には載っていないような地名だから稔にはなんなのかわからない。タッコ婆に聞いてもこのあたりをそう呼ぶとしか教えてもらえないから、はっきりとした正解のないまま稔のなかでトリジェはトリジェであり続ける。二人のそんな会話に優しさが滲み出ているのがいいですね。
古川 ありがとうございます。「シャンシャンパナ案内」は何でもない狭い磯を歩きながら、最後に「ずいぶん広かねえ」と言わせたいがために書いた小説でした。
小山田 そのラストを思い出すだけでじんわりきます。単なる広さではなくて、お互いの言葉や記憶をやりとりしながら歩くことで、その感覚に至るんですね。この作品には他にも好きなシーンがいっぱいあるんですよ。例えば、散歩に行こうと言い出したタッコ婆に稔が「どこさな 行こうか?」と聞くと、「納屋ん方ば行こうや、わがの小説の」と笑いながら言うところ。私も田舎の親戚の集まりに行くと、孫や姪である自分が小説を書いていることをいじられることがあるので、身におぼえのある会話だなと微笑ましくなりました。
あと、エグチンマエと呼ばれる場所を通り過ぎたあたりから、二人で昔のことを思い出していくのもよかったです。みんなで釣りをしたときのことや、テトラポッドで房状になったイカの卵を獲ったこと。最後には亡くなった祖母が磯で泳いでいる稔にお弁当を持ってきてくれた日のことも思い出される。祖母が作った唐揚げのお弁当を美味しそうに食べる子ども時代の稔がとても印象的でした。
目の見える稔がタッコ婆を一方的に案内というか先導するわけではないんですよね。お互いがお互いを案内するように歩くから、今だけ、二人だけのシャンシャンパナが初めてここにできあがる。もしかすると二人それぞれが見ている、思っているシャンシャンパナは全然違うものかもしれないし、こうやって歩いたことを二人は忘れちゃうかもしれないけど、でも、言葉にして小説に刻んだからこのことはずっと残る。だからこの小説は温かいままであり続けるんだと思います。
古川 今の小山田さんのお話を聞きながら、そういえば今回の短編集には誰かが誰かと一緒に歩いている場面が多いなと自分で気づきました。「鳶」だったら稔と父親の明義、「港たち」だったら稔と浩が並んで歩いていますし。短編の長さだと誰かと誰かが二人で会話している方が収まりがいいからそう書いただけなんですが、結果的に二人が随伴して歩くことで互いの意識と記憶が重なる場面が多くなったような気がします。
小山田 確かにそうですね。だから温かさを感じるのかもしれません。そういえば『文學界』の「身体を記す」というリレーエッセイでも、古川さんはお兄さんと一緒に歩くことを書かれていましたよね。小説のなかで誰かと誰かが会話をしている場面を描くときって、会話だけを書くのは難しくて、だから自然と何か動作をしながらになる。動きや視線が変わるのに応じて言葉を繋いでいった方が書きやすいですから。
思い出すという行為も何かをしながらの方が自然にできると思います。『港たち』ではそれを一人でやるんじゃなくて、二人でやるからより一層、得がたくありがたく温かく感じるのかなって。もちろん古川さんが読者がグッとくるように温かいものを書いてやろうと意識的にされているとは思いません。島の親戚との会話を書いていると結果的にそうなるのが古川さんの小説の面白さなんでしょうね。
ボツになった小説とどう向き合うか
小山田 前作『ギフトライフ』は古川さんの作品のなかでも異質な小説でしたね。島の親戚の話ではなく、生体贈与が行われる近未来のディストピアSFになっていました。ただやはりあの小説にも温かさはあるんですよ。物語が舞台とするのは救いようのない世界だし、嫌なこともたくさん書かれているのですが、古川さんらしさはありました。あの作品はどんな意識で書かれたんですか?
古川 実は『ギフトライフ』の前に当時『新潮』の編集長だった矢野さんに二度ほどボツにされたんです。で、もう何も浮かばなくなって、SFの短編でも書いてお茶を濁しておこうかなと思って書き始めた小説でした。
小山田 ボツになったのは島の親族ものですか?
古川 そうですね。矢野さんに『背高泡立草』から何も動いていないとダメ出しをされてしまい、まぁそうだよな、と。全く違う可能性を探ってほしい、悪を書けと言われたので、自分から遠い世界の物語を漫画のような展開で書いてみました。
小山田 そういう注文があったんですね。私もずーっとボツが続いた時期がありました。書いたものが全ボツになったこともあるし、言われたものが書けなかったこともあって。あのときはすごく苦しかったですね。
でも、私が敬愛しているある小説家の方とそのことについて話していたら「私もこの前、長編まるまるボツになりましたよ」とおっしゃってて、変な言い方ですが鼓舞された気持ちになりました。こんなすごい人もそういうことがあるんだと思ったら気が楽になったというか。
古川 僕は『新潮』の矢野さんには「これを読め!」みたいな原稿を渡したくなっちゃうんです。でも、そういう小説って力が入りすぎて、ガワだけは勢いあるんだけど中身が追いついてないものになりがちで。だから矢野さんにはよくボコボコにされていました。
小山田 なるほど。私は広島に住んでいて単純に距離があったこともあって矢野さんに直に指摘を受けたことが多分なくて……怖いような羨ましいような。でも、直すのって難しいですよね。小さい指摘は簡単だけど、大きい漠然としたダメ出しだとそこからの修正がいつもなかなか大変で。
古川 矢野さんは時間をめちゃくちゃかけて指摘してくれるんですよ。アドバイスの数があまりに多いから聞いてるうちに、わかりました、全部直します、という気持ちになります(笑)。
小山田 そうなんですね(笑)。私は直し始めると嫌になってきちゃって、自分で作品ごとボツにしちゃうことがあります。だからしっかり直せる人はすごいなと思います。
古川 基本的に矢野さんの言うことはもっともな指摘ばかりなんです。だから受け入れるしかないというか。ただ、『ギフトライフ』のときは、書き直した新しい小説もダメだと言われたので、さすがに、どうしようかとなりました。
小山田 それを乗り越えて新しいものを書かれたんですね……確かに、ボツにされた作品が世に出てたらと思うとゾッとはするんですよね。一生懸命書いた作品がボツにされるときは苦しいし、私も電話越しに感情がうまく伝わらなくて涙ぐんでしまうこともあるし、ここがダメという指摘はわかるんですが。迷惑かけてるな自分、と思います。
古川 小山田さんはボツになった作品はがらっと変えて書くんですか?
小山田 全く違う小説にしますね。部分的に使ったりとかはあるかもしれませんが、基本的には一から書き直します。一度、長編だと思って書いていたものがダメだと言われ、ふと短編にしたらうまく書けたということはありました。それは指示に従ってやったわけじゃなくて、直し方がわからないから、思い切って短くしてみたらたまたまうまくいったケースですね。
古川 捨てがたい場面を否定されていたらどうしますか?
小山田 嫌になるし、受け入れられないかもしれないけど、編集者がダメだと感じたこともまた確かなんですよ。私は編集者の方を信頼しているので、指摘してくれることをありがたいと思って受け止めようと思っています。うまく直せないかもしれなくても。
コロナ禍で肥大化した不安
小山田 古川さんは帰省されたときに親戚の方々が交わす会話を聞きながら、これは小説にできるなとメモを取られたりするんですか?
古川 そうですね。ただ、それは小説にしたいからというよりも、メモを取らざるを得ないからなんです。基本的に島に帰ると、みんなとにかく僕の知らないことをよく喋る。どこどこの誰々さんの娘さんがどうのこうの、と。小説家になる前からうんざりしつつメモを取っていました。ただ、確かにそのなかには聞いているうちから情景が目に浮かんでくる話もあって、それは小説になりそうだなと思いますね。
小山田 初めて『縫わんばならん』を読んだときに、ご自身より遥かに年上の人が若い頃に見ていたもの、感じていたことをこんなにありありと描けるものなのかとびっくりしたおぼえがあります。当時の景色などだけではなくて、その人が若い頃感じた戸惑いとか後悔、高揚などまですごく本当の感じがして。話を聞くのと、実際にそれがどう見えていたかを理解したり追体験して文章にすることはまた別のことじゃないですか。古川さんはどうやって親戚の方の昔の姿を自分の前に浮かび上がらせているんだろうと気になっていました。
古川 意外とすらすら出てくるんですよ。この人ならこういう景色を見るだろう、こう感じるだろうというのが。
小山田 それをデビュー作の時点からできていたんですね。新潮新人賞を受賞する前にも何度か作品を応募していたとインタビュー記事で読んだんですが、そのときから島の一族の話を書いていたんですか?
古川 そうですね。最初に島のことを書いた小説は二次選考を通過できたんですが、翌年、全然別の小説で挑んだら一次で落ちちゃって。だからもう一度、島の話に戻したら受賞できました。
小山田 そこからずっと島の話を書き続けているわけですね。でも『背高泡立草』で芥川賞を受賞したあとは一度、島の話から離れたじゃないですか。また『港たち』で戻ってきたのはどうしてですか?
古川 コロナがきっかけです。コロナ禍が始まってからしばらく帰省ができなくなって。だったらこの機会に小説で帰省をしてみよう、と思いました。帰省できるのが当たり前だったときとはまた違う小説が書けるんじゃないか、と。執筆していた時期はワクチンがちょうど開発されたくらいの時期だったので、いつ収束するのか見通しが全く立っていませんでした。そうするとふだんよりも帰りたいという気持ちが強くなって、書く対象との精神的な距離も近くなったような感覚がありました。それはあの時期に特有の現象でしたね。
ただ、最後の「間違えてばかり」を書いていたときは、その感じも薄れてきていて。コロナに対してアンテナを張り続けるのに疲れてきていた頃だったので、危機意識は弱まっていました。買ったものを消毒して冷蔵庫に入れるみたいな生活をこれ以上してると神経まいっちゃうなと感じて、緊張を弛めた時期の作品です、あれは。
小山田 確かに「間違えてばかり」には、あまり不安のような意識は書かれていませんね。
古川 実際にあの作品を書いていたときは島に帰ることができるようになっていましたし。不安や心配の気持ちは「港たち」の執筆時が一番強かったです。あのときは婆さん、死んじゃうんじゃないかと思っていたので。
小山田 故郷にいる親戚が亡くなると、その空間じたいが持つ意味が変わるんですよね。私は今回、「おおばあちゃん」という短編のなかで大伯母が亡くなる話を書きましたが、実際に亡くなったのは祖母でした。祖母がいない実家は、なんだか全く別の故郷になってしまったような感じがして。故郷は場所じゃなくて、人に帰属しているものなんだと気づかされました。私は結婚して家を出ていたので、大事なところにはあまり関われなかったんです。亡くなる前にレコーダーを回しながら昔の話をしてもらったんですが、もっと話を聞いておけばよかったなという心残りもあります。
文字を読むから小説は面白い
古川 コロナ禍って時間の感覚がどこかぼんやりしていた気がしませんか? 二〇二三年くらいまでの時間を振り返っても、いつ誰が死んだのか、あのできごとは何年の何月のことなのか、記憶がないまぜになっているというか。
小山田 それはよくわかります。思い出そうとすると混乱する。最初の頃はコロナのことを書くと、時間が規定されちゃうから無意識に避けていました。そういう書き方がダメだということでもないんですが、どこか不安な感じがしたというか。だからあの時期は昭和の終わりから平成の初めくらいまでを舞台にしたものばかり書いていたんですが、だんだん書かないと忘れるなと気づいて、それからは意識的にコロナのことを書くようにしました。むしろ今を書いておこうって。
『最近』はそのときに書いた連作なんですが、もともと編集部から長編を書きませんかという依頼があったんです。長いのは無理ですとお断りしたら、じゃあ連作ならどうでしょうと言われて、それならできるかなと思って引き受けました。連作だからそれぞれの短編に通じるものを決めた方がいいだろうと考えて、新型コロナウイルスと夫婦の話を書くことにしました。
古川 小山田さんの小説はどの短編を読んでも、小山田さんらしいなと思うのと同時に、新しいことをされているのがよくわかります。今回の『最近』もそうで、例えばLINEのやり取りが文中に出てきますよね。そこだけ文字が横書きになって、歪な感じがある。
あと思わずメモをしたのが、収録作の「ミッキーダンス」で妻の大伯母の法要が終わったあとの会食の場面です。黙々と食べる聡明の横で、お義母さんが義弟の登くんにローストビーフをわけるくだりがありますよね。遠慮がちな登くんにお義母さんは「いいのよお母さんにはこれ多いからほらこれお肉、ロースト、ビーフ……!」と言いながらお肉を取ってあげる。動作にぴったりのセリフ体になっている気がしました。他にも「?!」がところどころに見られるんですが、その使い方はどこか漫画的な感じがしました。LINEの横書きも三点リーダーも「?!」の使い方も視覚的な表現上の工夫だと思うんですが、どれも自然に導入されているのがいいですね。
あえて省略するような書き方がされているのも面白かったです。これも『最近』に収録の「カレーの日」の中に出てくるくだりですが、「雄大な、偽物のような色の空、真っ白い雲、広大な赤銅色の大地に聳えるごつごつした山、表面がカリカリしてパンはふわふわ」……といった具合で、シームレスにパソコンの待受画面とカレーパンが繋がるところなんか、小山田さんって感じがします。
それから読点をあえて使わずに書いているのも小山田さんの文章の特徴だと思います。あれは心の動きの速度が反映しているということですか?
小山田 そうですね。語り手の呼吸に合わせているというか。そこら辺は以前だったら編集者に鉛筆で指摘されて悩んじゃうところなんですが、今は自分を信じて無視できるようになりました。文法的に間違っていたとしてもこれでいいと思って書いています。
LINEのところは雑誌掲載時には縦書きだったんですよ。絵文字の部分だけ英語で横書きにしていました。LINEの絵文字ってスマホの通知画面に表示されると(sweat)とか出るじゃないですか。汗かいて焦ってる絵とか。あれをそのまま書いたら面白いんじゃないかと思って。
本にするときにLINEの文面は全部横書きにしませんかと提案してもらったのでやってみたら、想像していた以上に異様な字面になりました。ただでさえ改行も会話もないのに、そこだけ横書きになっていると波打って気持ち悪く見えて、やってよかったなと思いました。LINEの絵文字って自分が思っていた意味と違うときがあるんですよね。自分でもわけがわからないまま送ってるときがあるので、その感じを出したかったんです。
古川 僕はよく水原涼さんとLINEをするんですが、お互いになぜか般若のスタンプを送り合うんですよ。「すみません、寝てました。般若スタンプ」「こちらこそすみません。般若スタンプ」みたいな感じで。確かにこれも文章にしたら異様ですよね。
小山田 そうそう。そういうコミュニケーションも文字にすると変じゃないですか。第三者が見たら、何言ってるんだ? ってなりますよね。私はそれを読者に味わってもらいたかったんです。小説って必ず一文字ずつ追いかけながら読むじゃないですか。私がどんなに瑣末でしょうもないことを書いたとしても、必ず目でそれをなぞらざるを得ない。よく考えたらそれって魔法みたいですごいことなんじゃないかと思うんです。
先日、三軒茶屋の本屋twililightさんで柴田元幸さんとトークイベントをしたときに、柴田さんが面白い話をしてくれました。ある人が、映画を見る習慣のない人たちに手の洗い方を伝えるような内容の教育的な映画を見せた。上映後にどう思ったか聞いてみると、多くの人がニワトリが元気だったみたいな感想を口にしたらしい。作品の内容ではなく、手の洗い方を説明している後ろでニワトリが歩いているところに目がいってしまったようです。多分、手洗いよりニワトリに興味があるから。映画のようないろんなものが映る表現だと、そういうことが起こりうるんですよね。
漫画もきっとそうだと思います。一コマ一コマどう読むかはきっと読者によって違うし、それが面白さでもあると思います。でも小説は文字しかないから、絶対にそれを追わなきゃいけませんよね。どんなに細かい描写でも、作者が書いたものを読者は一緒に読んでくれる。小説を書くこと、読むことにはそういう面白さがあるんだと今更ながら気づいたので、今回、その特徴を活かして書こうと思いました。
古川 なるほど。だから『最近』には、日常生活の些細なことや小さな時間が念入りに描かれているわけですね。
小山田 でも、それは古川さんの小説にも言えますよね。例えば、方言も映像の中で聞いていたら、一つひとつの言い回しなんか気にしないかもしれない。小説だから意識が言葉だけに向かうんですよ。稔のような孫世代の気持ちになってそれを読むことができるのは小説ならではなんだと思います。古川さんの書く方言が私はとても好きで、祖父母世代、親世代、稔世代のそれぞれの声を、音声としてではなくて文字として聞き分けながら読んでいる感覚があります。意味やリズムなど小説の一部として調整しておられるんだろうなと思うんですけど、そこからはみ出すような本当らしさがあって。
現在に縛り付けられている感覚
小山田 ちなみに方言に関していうと、私は今回、方言を書かなかったんです。自分の小説は何を書いても広島の話になると思って書いているんですが、読者には舞台が広島かどうかわからないようにしたかったんです。だから登場人物の会話もできるだけニュートラルな言葉で書きました。
というのは、読者に自分にとっての最近のできごととして受け止めてもらいたかったからです。読みながらあの頃の日々を思い出して、それぞれの最近の話にしてほしいなと思いました。そのためには、土地じゃなくて書かれている時間の方に注目して読んでもらう必要があるので、なるべくどこの地方の話かわからないようにしようかなと。
古川 だからタイトルが「最近」なんですね。
小山田 はい。でも、初稿のときは違って、「豊かな世界」という案が出ていました。日常の小さいことがいかに豊かであるかみたいな意味だったんですけど、編集者さんと話しているなかでちょっと違いますかねとなって変えました。古川さんの「港たち」はどういう意味で付けられたんですか? 「港」が複数形というのは珍しくてハッとしました。
古川 最初に、人間とはなんぞや、みたいな哲学的なことを考えていたんです。人間が現象としてあることを証明するのは、人と人の間にある何かなんじゃないか。互いの間には声があり、それを発したり聞いたりすることで、そこに人がいることがはっきりとわかってくるんだよな、と考えをめぐらせていました。
人の間を行ったり来たりする声が船ならば、そこにある空間は港だと言える。お盆で何人もの人間ががやがやしているんだから、港の複数形でいいだろうと思ったわけです。
小山田 じゃあタイトルを先に決めてから中身を書いたんですね。
古川 ええ、『港たち』に関してはタイトルが先でした。
小山田 とてもいいタイトルだと思います。確かに人と人がいれば、必ずそこには声が出入りする港があって、水嵩が増すこともあるし、足が濡れることもある。
古川 「最近」っていうのもいいタイトルですね。現在の時間が刻まれているのがよくわかる。
小山田 今回の収録作はできるだけいつのできごとなのかわかるようにしたかったんです。新型コロナウイルスの流行は何も終わってないのに、いつの間にか終わったことになっている。だからこそ、あのとき何があったのか書き留めておかないといけないなと思いました。物事が進展する過程にはいろんなフェーズがあるから、書いておかないと全部なかったことになっちゃうな、と。
でも、それはコロナだけに当てはまることじゃないですよね。ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルによるパレスチナでの虐殺。これまで「ふつう」だと思っていたものが「ふつう」ではなかった。「ふつう」ってこんなに移り変わり続けるものなのか。そう気づかされたのが今の時代なんだと私は感じています。「ふつう」が変わってしまう感覚を小説にしておきたかったので、今回それを連作として言葉にできてよかったと思っています。
古川 僕はコロナ禍が始まってから、しばらく気になるニュースを逐一メモしていました。でも、そのうちにちょっと追いつかなくなって。最初は、今日は何を食べたとかそういう日常的な記録の端っこにニュースを書き留めておこうと思って始めたんですが、ニュースを書くためだけにメモ帳をまるまる使わなきゃいけなくなった。これをずっとやってたら疲れちゃうなと思って、結局やめてしまいました。
地震や戦争、気候変動やインフレ。いろんなできごとが間断なく起こり続けていて、今という時間に自分が縛り付けられている感じが二〇二〇年以降ずっとしています。そんな世界で小説を書くと、現在の時間がどうしてもそこに反映せざるを得ないんでしょうね。例えばノスタルジーに傾斜した「鳶」のような作品ですら、純粋に過去への郷愁の念だけを書くのは難しい。そこには必ず現在が溶け込んでしまうんです。
小山田 そうですよね。小説を書いていた時点の現在が刻まれるんだと思います。『港たち』の作品はどれもその繋がりが自然で豊かだと感じました。昔から馴染んだ親族や家族の声や仕草と、その時々で思い出す過去、そしてそれを思い出すに至った現在の自分の外側にある世界と。
『最近』に収録された作品をゲラで読み返した時、書かれていることがちょっと古いなという気持ちにもなったんですよね、すでに。読者にもその落差を感じながら読んでほしいです。小説のなかのできごとと今の自分との距離を考えながら、あのときのことをとにかく思い出してほしい。読者の方々が自分の記憶を小説のなかにどんどん混ぜていってくれたらいいですね。
古川 小山田さんは「あとがき」にまだ書き終えていないと書かれていましたね。
小山田 いくらでも書けるという気持ちがあるんですよ。小説のなかにいる彼らは私でもあって、あなたでもあって、この社会にいる全員でもあるということを私は書きたかったので、今後もそのことを書いていきたいと思います。どういうかたちになるかはわかりませんけれど。
古川 僕は小山田さんほど腰がすわっていないので、うろちょろうろちょろしながら違うものを書いていきたいと思います。『港たち』では一つの共通した世界を書いたから、もしかしたら次はもっと政治的でジャーナリスティックな小説になるかもしれません。
小山田 今後も古川さんの作品を拝読するのを楽しみにしています。
(2024.11.28 神保町にて)
「すばる」2025年3月号転載
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