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衝撃の事実!「奈良の大仏」の顔は江戸時代のデザインだった

集英社オンライン / 2022年7月22日 8時1分

「奈良の大仏」こと東大寺の大仏は、日本で最も有名な仏像のひとつとして知られている。しかし、天平時代(奈良時代)につくられたこの大仏は、誕生した当時はその「顔」が現在とは違った造形をしていた。なぜ、そのようなことが起こったのか。駒澤大学仏教学部教授の村松哲文氏の著書『駒澤大学仏教学部教授が語る 仏像鑑賞入門』(集英社新書)から一部抜粋、再構成して紹介する。

全人口の半分が参加した一大プロジェクト

東大寺の大仏造像が開始されたのは天平17年(745年)、完成したのは天平勝宝4年(752年)のことでした。7年に及んだ大仏づくりは、日本の各地から素材となる銅を集め、大仏殿をつくるために山を削ることから始まりました。まさに国をあげての一大プロジェクトです。



大仏づくりに関わった人の数は、述べ260万人とも言われます。当時の人口は500万人と推定されていますので、全人口のおよそ半分にも及ぶ人がこの事業に携わったことになります。

それにしても、これだけの人をどうやって集めたのか? そのカギを握る人物が行基(ぎょうき)でした。聖武天皇はより多くの人々から協力を仰ぐため、当時カリスマ僧侶としてその名を知られていた行基を大仏造立に関わる費用集めの責任者に任命したのです。

各地で井戸や橋づくりを指導しながら政府の禁を破って民衆に仏教を説いていた行基は、聖武天皇にとっては目の敵でした。しかし、国家をあげての大事業を民衆に手助けしてもらうためには、行基のカリスマ性がどうしても必要だったのです。

大仏づくりは、竹や木でつくった骨組みの周囲に粘土を塗り込んだ土台をもとにして、下の部分から徐々につくられました。土台の上に蝋、その上に土を塗って、土台と土のあいだに溶かした銅を流し込みます。すると蝋が溶けた部分に銅が入りますので、その銅が冷めたら土をどかすと大仏のでき上がりです。

といっても、大仏の高さは約15メートルですから、何段階にも分けて下から銅を積みあげていかなければなりません。この大プロジェクトを担ったのは国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)です。この人物は『続日本紀』によると、白村江の戦の際、日本に渡ってきた百済官僚の孫であることが分かっています。当時、優れた技術力をもった者は渡来系の技術者だったようです。

大量の銅を運ぶのも、高温で銅を溶かして大仏の型に流し込むのも、すべて手作業ですから、途中大きな事故もあり、大勢の作業員が命を落としたと伝わっています。

国を鎮静化させ、人心を落ち着かせる大仏を造像する陰で、こうした悲劇も起きたのです。

大仏開眼の年月日に込められた意味

仏像は形をつくり終えたあと、目を描くことで魂を像内に入れて「完成」となります。どの仏像でも必ず行うこの儀式が「開眼供養」です。東大寺大仏の開眼供養は、天平勝宝4年(752年)4月9日に執り行われました。

巨大な筆で目を描き、大仏に魂を吹き込んだのはインド人の僧侶、菩提僊那(ぼだいせんな)でした。開眼供養は『続日本紀』に「仏法東伝より、これほど盛大な斎会の儀はかつてなかった」と記されるほど、実に盛大に行われました。

菩提僊那が目を描き入れた筆には長い紐がつけられ、開眼のまさにそのとき、皇位を譲っていた聖武太上天皇や孝謙天皇を含む大勢の人々がその紐を握っていたと言われます。この紐は、今も正倉院宝物として収蔵されています。

さて、かくも豪勢な国家事業として命を吹き込まれた大仏には、造像を急ピッチで進めた足跡が遺されています。

ここで思い出していただきたいのは、「仏教伝来」の年です。538年説と552年説があり、現在は538年説を載せる書物が多いけれど、昔の日本では552年説が有力だったようです。

もうお気づきの方もおられるでしょう。東大寺の大仏が完成した752年は仏教伝来の候補年の一つ、552年からちょうど200年の節目に当たります。さらに先回りして言えば、平安時代の仏教建築を代表する平等院は、1052年に造営され、1053年に鳳凰堂が建てられました。ということは1052年に意味があるのです。

552年を起点にして、その500年後は末法に入る年でした。このことから、少なくとも平安時代までの人々にとって、仏教伝来は552年にあたる年という認識だったと思われるのです。

大仏の開眼供養に戻ると、開催日の4月9日という日にちにも意味があります。聖武天皇は本来、釈迦の誕生日である4月8日に開眼供養を予定し、それに向けて準備をしていたにもかかわらず、一日遅れてしまったのです。

では、大仏づくりが突貫工事で行われたことがどこで分かるのか。つぎにそれをお話しします。

ヘソ出しルックだった可能性も

さて、いよいよ大仏に近づいて像を細かく見ていきましょう。開眼から1200年余り、その間いくつもの戦や火災、自然災害を見つめてきた大仏は、自身もいくたびか傷つき、修理を余儀なくされてきました。

しかし、開眼式が行われたその日、つまり「完成」された日にも、決して「完璧」とは言えない姿だったのです。大仏の表面には、今もなお突貫工事の「証拠」が消えずに残っています。天平当初の制作である台座に注目してください。

証拠その1は、大仏の台座のところどころに残っている「丸形」です。

巨大な大仏像は型に何度も銅を流して下の部分からつくったと説明しましたが、そのときほかの仏像と同じく原型を固定させるための「型持」が使われました。今も台座の表面に残る「丸形」は、型持の跡なのです。

普通は流し込んだ銅が固まり、仏像を仕上げる段階で型持の跡を磨いて分からないようにするのですが、大仏の場合はその時間がなかったのだと推測されています。

面白い話が伝わっています。あまりに急いで造像したので、鍍金(金メッキ)が間に合わず開眼供養のときには大仏のへその上までしか鍍金がなかったというのです。当初、大仏はへそ出しルックだったかもしれないのです。

本来の大仏は「ふっくら丸顔」だった

つぎは、完成後の大仏の変化を見ていきましょう。大仏の身体を大きく傷つけたのは、平安時代の大地震と、平安、戦国時代に起きた2度の火災でした。斉衡2年(855年)の地震では大仏の頭が落下しましたが、その後無事に再建されました。

火災は2度とも戦によるものです。最初の戦火は平安時代の治承4年12月(1181年1月)、平重衡の南都焼き討ちです。このとき東大寺の伽藍は大規模な被害を受け、大仏殿も焼け落ちました。大仏も被害にあいましたが翌年には復興事業が始まり、文治元年(1185年)に再びの開眼供養、建久6年(1195年)に大仏殿の落慶法要が行われました。

2度目の戦火は戦国時代の永禄10年(1567年)、松永久秀と三好三人衆の争いで、このとき再び大仏殿は失われ、大仏は頭部から肩にかけて損傷しました。しかし、このときはすぐに修復が行われず、150年近く経った江戸時代の宝永6年(1709年)にようやく行われたのです。

大仏の顔はこの江戸時代の修復でまったく変わってしまいました。それまで何度も修復を重ねながら、江戸の修復を機に「江戸」の顔になってしまったのです。私たちが今、東大寺でお目にかかる大仏は、江戸の顔で出迎えてくれているのです。

では、天平時代の大仏は、どのような顔だったのでしょう。大仏が座る台座に、そのヒントがあります。台座の側面に線描きで表された顔こそ、オリジナルの大仏の顔だと言われています。現在の顔より丸顔でした。

もう1カ所、大仏殿の前に建つ灯籠に彫られた顔も、天平時代の大仏の顔と言われていますが、やはりふっくらフェイスです。ちなみに現在建っている灯籠は羽目板がレプリカで、天平時代のオリジナルは東大寺ミュージアムに展示されています。

東大寺の大仏に限らず、数百年から千年のときを超えて人々に崇められている仏像には、戦火や自然災害、あるいは老朽化で何度か修復がなされ、元の姿とは一部が変わっているものも少なくありません。仏像を見に行く機会があったら、その来歴や歴史などを調べ、仏像がたどってきた道に思いを馳せてみるのも楽しみ方の一つです。

写真/shutterstock

駒澤大学仏教学部教授が語る 仏像鑑賞入門

村松 哲文

2022年6月17日発売

1,265円(税込)

新書判/272ページ

ISBN:

978-4-08-721220-4

日本人にとって仏像はごく身近な存在である。
しかし、その仏像が、いつ、誰によって、どのような目的で作られたのか、詳しく知らないのではないだろうか。
駒澤大学仏教学部の教授である著者が、飛鳥・奈良時代から平安、鎌倉、室町・江戸時代までを通して、仏像の特徴や変化、鑑賞ポイントを解説。
インド・中国的だった仏像の表情が日本的に変わっていく過程や、仏様の姿勢・ポーズ・着衣・持ち物の意味、仏師のこだわり・新技術、仏教が権力者から庶民へ広がった理由、そして仏教の教えと日本の歴史までもが、仏像を通して見えてくる!
写真をふんだんに使いながら紹介しているので、本書片手に“見仏”したくなる、仏像鑑賞ガイドの新定番!

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