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北朝鮮拉致問題でつくられた「強い安倍」のイメージとその功罪

集英社オンライン / 2022年7月21日 8時1分

7月8日に銃撃を受け、非業の死を遂げた安倍晋三元首相。総理大臣としては北朝鮮の拉致問題解決を最重要課題に掲げ、その強硬路線が「強い安倍」のイメージを生み、国民の支持につながってきた。だが、歴史的な長期政権にもかかわらず、安倍政権下では交渉に進展はなかった。そもそも、安倍氏は本当に強い姿勢で北朝鮮と対峙してきたのだろうか。参議院議員として拉致問題の解決に尽力してきた有田芳生氏の著書『北朝鮮 拉致問題 極秘文書から見える真実』(集英社新書)から一部抜粋、再構成して紹介する。

小泉訪朝はいかに実現したのか

北朝鮮が絶対に認めることのなかった日本人拉致を認めさせ、被害者5人と家族の帰国を実現し、拉致問題の存在を明るみに出した小泉訪朝は大きな成果を収めた。この歴史的な訪朝はどのようにして実現されたのだろうか。



外交の成果は、本交渉に先立つ水面下の交渉によって生まれる。司馬遼太郎はこう語っていた。

「つまり、外交の問題というのは、大体利害の対立ですから、大変にしのぎ難いものでしょう。19世紀であれば、戦力に訴えるということになった問題でも、今日では話しあいで、利害得失の折り合いをせねばならない。これは議場でやるより、事前において打ち合わせをして大体の結論を出すわけですね。本会議などは、セレモニーにしか過ぎないんで、事前の打ち合わせが1年かかるか、3カ月かかるか……」(「日本人よ〝侍〟に還れ」(萩原延壽との対談)『歴史を考える』)

司馬に倣えば、日朝交渉でいえば、第1回の小泉純一郎-金正日会談が「本会議」に当たり、「セレモニーにしか過ぎない」ことになる。

日本国民は、日朝首脳会談が行われることを、2002年8月30日午後の小泉純一郎総理の記者会見で、突然知らされた。日本がアメリカに小泉訪朝を知らせたのは、その3日前の8月27日だ。小泉総理がリチャード・アーミテージ米国国務副長官とハワード・ベーカー米国駐日大使に面談、そこで国交正常化交渉をはじめるため、9月17日に訪朝すると伝えた。

小泉総理は「絶対に情報が漏れないよう」外務省に指示した。韓国、中国、ロシアにも総理訪朝発表の前に竹内行夫外務事務次官が、駐日大使に事前説明をしている(竹内行夫『外交証言録』、船橋洋一『ザ・ペニンシュラ・クエスチョン』)。

会談が実現したきっかけは、外務省の田中均アジア大洋州局長が小泉総理にアジアで唯一残された北朝鮮との国交正常化実現を提案したことだ。

2001年10月、田中氏は小泉総理と1時間ほど面談、豊臣秀吉の朝鮮侵略、日清・日露の戦争で朝鮮半島が戦場になった歴史から説き、「朝鮮半島に平和をつくるため、北朝鮮と交渉したい」と打診した。小泉総理は「あなたと僕だけの秘密厳守で」と言ったそうだ。

蚊帳の外に置かれていた安倍氏

当初は小泉訪朝を準備するのが目的ではなく、諸懸案のなかでとくに拉致問題を解決するための交渉を進めるのが主眼であった。

田中氏はそれから週末を利用して、北朝鮮の軍人で国防委員会に所属していた「ミスターX」こと柳京と、2001年10月から2002年9月までのほぼ1年に約30回の極秘交渉を重ねていった。最初の会談は中国の大連、その後はマカオや上海などで行われた。

田中氏は土曜日の午後に日本航空機で移動し、夕方から翌日の昼まで交渉、日曜日中に日本に戻ることをほぼ2週間にいちど繰り返した。協議が進むにつれ、核問題、ミサイル問題、過去の清算など、多様な問題の解決への突破口を開くには、首脳会談の実現を念頭に置いたほうがいいと田中氏は考えるようになった。

この交渉の結果が小泉総理の電撃訪朝であり、その果実としての日朝平壌宣言だった。

「これ(有田注・小泉訪朝)に先立つ1年の間、私は北朝鮮と水面下の交渉を行った。長い交渉とはいえ、これは外からは見えない水面下の交渉であった。その結果、小泉首相の訪朝は唐突に受け止められた」

「とりわけ秘密保持についての総理の指示はとても厳格だった。総理、官房長官、官房副長官(事務)、外務大臣、事務次官、そして交渉担当者たるアジア大洋州局長というラインに限る。とにかく少数に限れというのが、総理の強い指示であった」(田中均『外交の力』)

「とにかく少数」とは、具体的には、8人である。官邸では総理、官房長官、古川貞二郎官房副長官の3人のみ。外務省では大臣、事務次官、アジア大洋州局長、北東アジア課長と通訳の事務官の5人である(竹内行夫『外交証言録』)。

「官房副長官(事務)」は、本来官僚出身者が就くポストだ。政務の官房副長官だった安倍晋三氏が小泉訪朝を知らされたのは、国民に公表されたのと同じ8月30日だ。安倍氏自身が、2002年10月10日の衆議院外務委員会で、こう答弁している。

「確かに、私が知りましたのは、発表された30日の朝でございます」

私邸から官邸へ向かう車にかかってきた電話で、突然知らされたのだった。

小泉総理は、拉致問題に関心が強い安倍氏に伝えると、情報が漏れると判断していた。福田康夫官房長官は事前に知らせようと進言したが、小泉氏は国民と同時でいいと主張した。福田氏は「かわいそうだから」とさらに説得し、お昼のNHKニュースが速報で報じる前に知らせることになった。

いまも語られる「拉致の安倍」神話

安倍晋三という政治家が総理にまで上りつめた大きな理由は、拉致問題に対する日本国民の激しい怒りを背景に、北朝鮮に対して常に強硬路線を主張し、実行してきたことにある。「拉致の安倍」のイメージが定着したため、必ず解決に向けて行動してくれるだろうと多くの国民が期待し、信じてきた。

しかし、その内実は、つくられた「神話」が多く、根拠がなくとも「当たり前じゃないですか」と断定口調で語ることで「強い安倍」を演じてきた。

ここで「拉致の安倍」神話について触れておく。安倍氏が父・晋太郎議員の秘書をしていたとき、拉致被害者である有本恵子さんのご両親から陳情を受け、拉致問題に関心を持ったのは事実だ。

しかし小泉訪朝に至る過程においては、官房副長官であったにもかかわらず最終段階まで「蚊帳の外」に置かれていたのが実態である。

また、いまでも語られる安倍氏にまつわる拉致問題関係のエピソードにこんなものがある。

平壌の百花園(迎賓館)で行われた日朝首脳会談の午前中1時間半ほどのやりとりで、金正日国防委員長は拉致を認めなかった。昼食のときに安倍氏が、盗聴されていることを承知のうえで「拉致を認めなかったら日朝平壌宣言にサインをせず、帰国しましょう」と大きな声で語ったおかげで、午後の会談で北朝鮮が拉致を認めて謝罪した、というものだ。

ところが現場にいたある人物は、私の取材に「そんなことがありましたかねえ。違うんじゃないですか」と否定した。

小泉総理たちは迎賓館で日本から持参したオニギリを食べながら、テレビの音量を最大にして「午後の会談で拉致を認めなければ席を立って帰ろう」と語りあったことは事実だ。北朝鮮への対応は関係者の総意であって安倍氏だけが突出していたわけではない。

そもそも首脳会談のはじまる直前には田中均アジア大洋州局長に「5人生存、8人死亡」は伝達されていたから、最後まで拉致を否定することなどありえないのだ。午後の会談で金正日国防委員長は、手もとのメモを見ながら、拉致は一部の妄動主義者が行ったことを認め、謝罪し、生存者の帰国と事実関係の調査を約束した。

被害者の一時帰国にも「安倍神話」

10月15日に5人の拉致被害者が日本へ「一時帰国」したときの対応についても、「安倍神話」がある。

安倍氏は、5人を北朝鮮へ戻さないことは自分が判断したと語っている。だが事実は違う。

拉致被害者の蓮池薫さんたちは、家族などの説得もあって、北朝鮮に戻らないと自分たちで決めた。そして、残してきた子どもたちを連れて来ることを日本政府に託したいと、拉致被害者・家族担当の中山恭子内閣官房参与に電話で通告したのだ。決して安倍氏が独自に努力した結果ではなかったのである。

政府は一体となって動き、北朝鮮に対して、拉致被害者ではなく、政府が決めたことにしたのだ。

私は拉致被害者を北朝鮮に帰すべきではないと当時思っていた。犯罪行為を行った北朝鮮に戻すなどということはあってはならないと判断したからだ。「原状回復」が原則だ。しかし当事者にすれば、家族を北朝鮮に残したままの決断である。どれほどの苦悩と逡巡があっただろうか。

蓮池薫さんは、『拉致と決断』でこう回想している。

「帰国して十年。思えばこの十年は、あの日の決断から始まった。私たちを拉致した、しかし私たちの子どもたちが残されている北朝鮮に戻るのか。それとも生まれ育ち、両親兄弟のいる日本にとどまって子どもを待つのか。苦悩の末に私が選んだのは後者だった」

蓮池さんは妻の祐木子さんとの凄まじいやりとりを紹介しながら、こう書いている。

「何が決め手になったのか、最後には私の言うこと、というより、私自身を信じてくれた。本当にありがたかった。なぜならこの決断が、いつまで続くかわからない、子どもたちとの別離という耐え難い苦痛を伴うからだった」

3家族を取材していた記者は、当時をこう振り返る。

「蓮池薫さんが家族や友人に説得され、いちばん早く北朝鮮に帰らないと決意しました。地村さんも、ほぼ同時です。最後まで北朝鮮に戻ることにこだわったのは曽我さんでした。家族と一緒にいることが最優先と思っていましたから。日本に永住することにはこだわっていませんでした。夫のジェンキンスさんが日本に来てくれるのかどうかが不安だったのです」

こうして拉致被害者たちは、自らの苦渋の決断で日本に留まることになった。その判断を、あたかも自分の手柄であるかのように世論受けを狙ったのが安倍晋三官房副長官であった。

写真/shutterstock

北朝鮮 拉致問題 極秘文書から見える真実

有田 芳生

2022年6月17日発売

902円(税込)

新書判/224ページ

ISBN:

978-4-08-721217-4


小泉訪朝から20年。
なぜ解決できなかったのか?

◆内容◆
2002年9月、小泉純一郎氏が日本の総理として初めて北朝鮮を電撃訪問し、金正日委員長が拉致を認め、5人の被害者が帰国を果たしてから20年。
小泉訪朝当時、日朝関係は大きく改善するかに見えた。
だが、その後交渉は暗礁に乗り上げ、拉致問題解決を重要課題としていた安倍長期政権、続く政権でも進展がない。
国会の「北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員会」等でこの問題に尽力してきた著者はある文書を入手。
そこには拉致の実態、北朝鮮での生活等が詳しく記されていた。本書は極秘文書の内容を分析し、日朝外交を概観することで問題が解決に進まない原因を指摘。北東アジア安定のために何が必要かを提言する。

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