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鞍馬山で。日比谷で。通訳が見たリヴァー・フェニックスの素顔

集英社オンライン / 2022年7月12日 12時1分

1993年に23歳の若さで急逝し、今もなお惜しむ声が絶えないスター、リヴァー・フェニックス。「ロードショー」でも増刊や特集などで何度もフィーチャーした。来日の際、通訳を務めた小林禮子さんが、報じられることのなかったエピソードを通じ、その繊細な素顔をお伝えする。

京都・鞍馬山の思い出

暑い夏が近づきセミが鳴き始めると、リヴァー・フェニックスのことを必ず思い出す。

そのとき彼は鞍馬の山道で私の前を登っていた。背負ったリュックを放り投げたいほど私は背中に汗をびっしょりかいていたが、リヴァーはケロッとして私の前をどんどん行く。鞍馬寺の前でハイヤーを降り、リヴァーと6歳年上の彼女のアリス、通訳の私と数人のスタッフで、奥の院魔王殿を目指して歩き始めて、10分ほど経ったころだった。



足元を見ながらみんなのスピードについていこうと登っていて、ふと気になり顔を上げ、初めてリヴァーの姿が消えたと知ったときは、「どこへ行ったのよ」と、と戸惑うよりも腹が立った。だが、しばらくして、彼を見失う心配はまったくないと確信した。リヴァーはしばらく行くと必ず私を気にしてか振り返り、かなりこちらが遅れているのを確かめてから、山道から外れて、姿を消す。何度かそれを繰り返されたが、彼は必ず帰ってくる。見失う心配はまったくなかった。

ガス・ヴァン・サント監督、キアヌ・リーヴス共演の『マイ・プライベート・アイダホ』(1991)のPRのために、2度目の来日を果たした1991年9月。東京での仕事を終え京都まで足を伸ばして、京都の老舗旅館“柊屋”に2夜宿泊。その中日、鞍馬の山に登ることにした。誰が言い出したかは、記憶にない。

『マイ・プライベート・アイダホ』で共演したキアヌとは、実生活でも親友同士だった
Mary Evans/amanaimages

同じ山道を下るよりも西の貴船のほうに抜けよう、となった。「確か貴船川の川床に数軒店が並んでいて、流しそうめんがおいしかったはず」との、同行した映画配給会社の男性スタッフの提案で、貴船でお昼を食べることになった。

川床の上にしつらえた素朴な店構えを、リヴァーはいたく気に入ったようだった。そうめん汁は昆布だしか、野菜の天ぷらの揚げ油がなたねであるかを、私はまず確かめた。前日の柊屋の間違いを繰り返さないためである。リヴァーがヴィーガン(完全菜食主義者で、卵類を食べる人もいるヴェジタリアンとは異なる)であるのは有名だった。前日の夕食で京都の老舗の豆腐が膳の上に並んだが、鰹節がかかっていたのでリヴァーとアリスは手をつけなかったのだ。

ふたりは本当においしそうに、気持ちよく昼食を平らげた。食後は、赤い敷物の上にごろりと横になったりもした。当時の貴船の公営バスの時間は2時間に1本。さてどうしよう? そのとき、店主が申し出てくださった。「男性陣が荷台でよければ貴船駅までトラックでお送りしますよ」
それを伝えるとリヴァーは嬉しそうに躊躇なく、誰よりも先にトラックの荷台に飛び乗った。私とアリスは助手席に並んで座った。

鞍馬山の汗。貴船の川床。トラックにみんなで乗ったこと。
夏が来て蝉の声を聞くと、リヴァーの面影と共によみがえる。

ロードショーの表紙を飾った美しいリヴァーの肖像
©ロードショー/集英社

おなかが痛いと思うと、本当に痛くなる

ところで、リヴァーを初めて見た(会ったのではない)のは、いつ、どこだったか?

それは、『スタンド・バイ・ミー』(1986)のPRで初来日し、取材開始時間の30分ほど前に彼の部屋に行ったときのことだった。
ハリウッドでは有名な子役専門エージェントの女性に「ホテルの前の公園に出かけたけど、あの子は必ず時間には戻ってくるから心配しないで部屋で待っていても大丈夫よ」と言われたが、通訳としてはできるだけ取材者よりも早く顔合わせをしたいといつも考えているので、「公園まで行ってくる」とスタッフに伝え、私は帝国ホテルの前の日比谷公園に出掛けた。

『スタンド・バイ・ミー』で映画ファンの心をわしづかみに。リヴァーは左からふたりめ
Capital Pictures/amanaimages

どこからか音楽が聞こえる。それを追うと、リヴァーがギターを弾いていた。隣の父親とおぼしき男性と、数人の日本人観客が耳を傾けていた。その7年後に、青山で初めてレオナルド・ディカプリオを見かけたときの衝撃に似て、今風に言えば「わぁ~イケメン!」と、口を開けて見入ってしまうほどのオーラだった。

ホテル室内での取材よりも外に出ることを好み、代々木公園での「ロードショー」独占撮影では、本当に楽しそうだった。だが、それも途中まで。予定は撮影2時間だったが、1時間を過ぎた頃、柵の上に座ってとリクエストされてポーズを取った後、リヴァーがおなかを押さえた。「ウン? どうしたの?」慌てて駆け寄ると、私がまったく想像もしなかった答えが返ってきた。

「ずっと従順にポーズをとってきたけれど、この変でちょっと“ワル”になってみたくて」
「?」
「僕がおなか痛いって言ったら、みんな困るよね」
「もちろん」

肩に手をやり、そう答えながら顔を見ると、本当におなかが痛いのではとしか思えない表情だった。
「この子は何なんだ? 自分の感情に従って、自由に体調までコントロールできるの?」
カメラマンは彼の体の変調にすぐ気づき、「10分休憩しましょう」と声をかけた。私は、どこまでリヴァーの言葉を信じてよいかがわからず、それでもそばを離れず、黙って脇に立った。

20分ほど経った頃だったと思う。リヴァーが言った。
「自分でおなかが痛いと思うと、本当に痛くなるけど、大丈夫だと思うと少しずつもとに戻る」
ちょっと、囁き気味で。

「ロードショー」2003年10月号、リヴァーの追悼特集で再掲載された、代々木公園での特写
©ロードショー2003年10月号/集英社

そのときは撮影を順調に進めることに必死で、彼の言葉を深く考えなかったが、その後、彼の「自分でおなかが痛いと思うと、本当に痛くなるけど、大丈夫だと思うと少しずつもとに戻る」という言葉が繰り返し思い出される。彼はあのときまだ16歳。生きていてほしかった。確実に、とてつもなく魅惑的ないい役者になっただろうに。

そのほか、つらつらと思い出される彼の言葉:
■「アリスと今、マイアミの図書館の隣に住んでいる。学校に行く必要はない。知りたいことはすべて、図書館の本の中にある」
■プレゼントをくれるファンに「今回はこれをもらうけれど、次は、このお金を熱帯雨林保護の募金に寄付して」
■「着ている服はすべて古着。上から下までで10ドルしない。ホテル内では裸足」

一番下の妹サマー(ベン・アフレックの弟ケイシーの元妻)が『エスター・カーン』(2000)で来日したとき、「リヴァーのことはあまりよく覚えていないけれど、優しいお兄ちゃんだった」と言ってたっけ。

リヴァー・フェニックス River Phoenix

Alpha Press/amanaimages

1970年、米・オレゴン州生まれ。宗教に傾倒する両親に連れられ、南米含む各地を転々とする貧しい子供時代を送る。子役としてTV出演ののち、『エクスプロラーズ』(1985)で映画デビュー。翌年、4人の少年のひと夏の経験を描いた『スタンド・バイ・ミー』でブレイク。『旅立ちの時』(1988)ではアカデミー助演男優賞にノミネートされた。私生活では動物と環境保護に尽力しつつ、ミュージシャンとしても活躍。世界中から愛されながら、1993年10月3日、ジョニー・デップが経営するクラブ・ヴァイパールームにて、薬物の過剰摂取で倒れ、23歳で帰らぬ人となった。4人の弟妹もみな芸能関係に進み、特にホアキン・フェニックスは有名。『ジョーカー』(2019)でアカデミー主演男優賞を受賞した際のスピーチは、兄リヴァーの書いた歌詞「Run to the rescue with love and peace will follow」(愛を胸に人を救えば、心に平和が訪れる)で締めくくった。

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