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写真の達人が考える「いい写真」を撮るために欠かせない3つの要素

集英社オンライン / 2022年7月20日 13時1分

これから写真を始めようとしている人、趣味で写真を撮っている人、写真を勉強している人、さらにはプロを目指している人など、写真に興味を持ちながらも、写真が「わからない」と思う人たちへヒントとなる1冊『写真はわからない 撮る・読む・伝える――「体験的」写真論』(光文社)から一部抜粋・再構成してお届けする。

「いい写真」とはどんな写真か?

はたして、「いい写真」はどのような写真なのか。まずはそんなことから始めてみたい。

「いい写真」について語るのはけっして簡単なことではない。人によってそれは大きく違い、けっして数値化できるわけではないからだ。例えば、どんなにピントがあっていなくても露出が適正でなくとも、個人の思いが詰まった写真は他の何物にも代えがたい。



例えば、家族写真がそれにあたるだろう。

どんなに有名だったり高価な作品よりも、個人にとってそれは大きな価値と意味を持つものだろう。そのことは理解している。ここでは個人的に深く関わりのある写真は抜きにして、あくまで鑑賞する上での写真作品ということで話を進めていきたい。

©Daido Moriyama Photo Foundation

ここに一枚の写真がある。写真家・森山大道が撮影した犬の写真だ。「三沢の犬」と呼ばれている。森山は戦後の日本を代表する写真家で、街のスナップショットを中心に撮影をしてきた。20代の頃に、それまでの既成の写真に反抗するかのように制作されたアレブレボケ(画像が荒れ、ブレていて、ボケているの意味)の世界観は多くの者に衝撃と影響を与えた。写真界以外、さらには海外にも多くのファンを持つカリスマ的な写真家といっていい。

『撮った写真』じゃなくて『撮れちゃった写真』

先日、私はこの「三沢の犬」についてある質問を受けた。

「なぜ、この写真は有名なのか」

というものだった。森山を紹介する展示が渋谷のデパートの中で行われたのだが、写真界を中心にさまざまな人に同じ質問をするという趣旨だった。写真評論家、森山と関わりのある方、写真家など立場や職業が違うさまざまな者だ。改めていろいろな見方、読み方ができることを意識させられ興味深かった。その答えが会場にパネルとなって展示された(「はじめての森山大道.2021年5月14日〜6月25日、渋谷PARCO、ほぼ日刊イトイ新聞主催)。

展示は一般の方に向けたもので、森山大道という写真家のことをまったく知らない、あるいは名前くらいは知っているが詳しくは知らないといった方たち、さらには詳しく知っている人が森山大道という写真家の軌跡を改めて理解、再確認できるようによく構成されたものだった。写真評論家の飯沢耕太郎はそこで、

「三沢の犬は森山さんの自画像。仮に、あの写真に森山さんの写真家としてのあり方が写っていたとしても、森山さんご自身、自分で撮ったあの写真を見て、自分で驚いちゃったんじゃないかな。その意味では、『撮れちゃった写真』っていうものが、すごく大事なんだと思うよ。『撮った写真』じゃなくて『撮れちゃった写真』」

と発言している。作家の大竹昭子は、

「何かに遭遇する瞬間を、これほど強く感じさせる写真はないのではないか。単に野良犬に出会ったというだけでなく、オオカミを先祖にもつ生き物が駆け抜けてきた長大な時間に直面させる。その閃光のような力に、見る者の眼は射抜かれてしまう」

と語る。私は次のように答えた。

1枚の写真に三者三様の見え方がある

「圧倒的に独特だからじゃないですか、やっぱり。こんな風に犬を撮った写真なんか、他にないと思うし。犬に見えないですよね。まるで人間。こっちをクッと振り向いてますけど、あの感じ、あの目つきなんか、もう何かを考えていそうな雰囲気。いちど見たらずっと記憶に残ります。少なくとも他の誰も撮ったことのない犬の写真であることは、確かです」
いかがだろう。3人とも見事に違う答えを出している。

それぞれの答えを読んで、みなさんはどんな感想を持つだろうか。一人は「撮った写真」ではなく「撮れちゃった写真」だと語り、もう一人は「何かに遭遇する瞬間」を強く感じ、さらに「オオカミ」をも連想させると語る。そして私は「犬ではなく」「まるで人間」だと口にする。

本当にバラバラ。まるで違うことを答えている。まだ「三沢の犬」の写真を一度も目にしたことのない複数の人が、この3人の言葉を別々に耳にすれば、どんな写真を頭に描くだろうか。それぞれがまったく異なるイメージを描くのではないだろうか。あるいはまるで違う写真のことを指しているようにも聞こえるのではないだろうか。

「いい写真」を解く鍵が、ここに隠されている。「三沢の犬」は間違いなく「いい写真」といっていい。では、なぜそういえるのか。写真に抱く感想、感じ方が人によってまるで違うところが重要だ。つまり、さまざまな見方、感じ方、読み方ができるという点に注目すべきだろう。

絵ハガキやカレンダーの写真はつまらない、と聞いたことがある方もいるはずだ。「絵ハガキ写真」という言葉も存在する。きれいだが、深みが乏しく凡庸という意味で使われることが多い。一概にすべてそうだとは思わないが、観光用に撮られた写真は確かにそんな一面を持っている。できるだけ多くの人、万人受けする「美しさ」「爽やかさ」「明るさ」といったものが求められるからだろう(そんな写真を撮ることは、それはそれで簡単ではないのだが)。

「いい写真」の3つの要素

仮に、快晴をバックに山頂付近だけに雪が積もった富士山を撮った一枚があるとする。手前には湖が横たわっている。静かな湖面に富士山が見事に映っている。こう書いただけで、なんとなく頭の中にそのイメージが浮かび上がってはこないだろうか。

これは、日本人の多くが思い描く典型的な富士山の最大公約数的なものと深く関係している。

これまでに、そんな写真や映像(動画)を目にした機会が多いからだろう。だから自然に頭にイメージが浮かんでくるのだ。この富士山の写真に対して、先ほどの3人のように大きく違った言葉が生まれるだろうか。おそらくないだろう。少なくとも私は「富士山に見えないですよね。まるで人間」なんて発言はしない。きれいとか美しいとか、見事、行ってみたいといった言葉が大半を占めるのではないだろうか。

それに対して「三沢の犬」はどれほど言葉を尽くしても、言葉だけでそのイメージを第三者に確実に伝えることは容易ではない。理由はあらかじめ共有されているイメージを、ほとんどの人が持ち合わせていないからだ。

富士山のような共通認識、共通の価値観を持ち合わせていない。自分の記憶、過去の体験とすり合わせることができない、といってもいいのかもしれない。だから、犬でありながら、まるで人間などと言われても、想像が膨らむ余地がないのだ。

ここまで書いてきたことを整理すれば、私が考えるいい写真とは、以下の要素を含むものとなる。

・新鮮であること
・多くの人にとって未知のイメージであること(インパクトがあると言いかえてもいい)
・新たな価値観の提示であること


よくいわれることだが、いい写真は作者の手を離れ、勝手に一人歩きしてくれる。このことは間違いない。写真が有名になったり、話題になったり、何かの賞をとったり、新たな仕事が舞い込んできたりすることもある。その後を作者がついていくのだ。そんな写真には必ずこの要素が含まれている。

「三沢の犬」もまた、そんな一枚といえるだろう。

『写真はわからない 撮る・読む・伝える――「体験的」写真論』(光文社)

小林紀晴

2022年4月12日

1078円(税込)

新書 280ページ

ISBN:

978-4-334-04601-9

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