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故・オシム氏「命を取るか、サッカーを取るか」知られざる家族の決断【2022上半期惜別】

集英社オンライン / 2022年8月2日 14時1分

今年5月1日にオーストリアのグラーツの自宅で亡くなった、元サッカー日本代表監督のイビツァ・オシム氏。サッカー界での業績はもちろん、あらゆる民族や階層からも尊敬を受けていたオシム氏は、日本にも多くの遺産を残した。その人物像を広く日本に知らしめたベストセラー『オシムの言葉』の著者・木村元彦氏と、長年、オシム氏の代理人を務めた大野祐介氏に、追悼の意を込めて語り合ってもらった。

ボバンがスピーチをしたことの意味

木村 オシムさんのお別れの会が、今年5月4日にグラーツ、その後5月14日にサラエボで行われましたね。J2町田ゼルビアのポポビッチ監督のお嬢さんのアナさんが、グラーツのお別れの会に参列して、そのときの動画を送ってくれたのですけれど、本当に老若男女、サッカーが好きな人だけじゃなくて、いろいろな人が来て号泣している映像を観て、じつにオシムさんらしいなと感じました。



政治家でもなければ、巨大なビジネスを立ち上げた経済人でもなく、サッカー監督で、ここまでの求心力があったということ自体がすごいと思うんです。大野さんは、サラエボの葬儀のほうに参列されたんですね。

大野 はい。サラエボで「お別れの会」と葬儀とに参列させていただきました。お別れの会は、サラエボの旧市街にある国立劇場という立派な劇場で行われまして、サラエボ市長や、オシムさんと交流のあった選手や指導者たちが、何人も出てきて話をされました。

ベストセラー『オシムの言葉』の著者であるジャーナリストの木村元彦氏(左)。ジェフ千葉の監督として来日した2003年よりオシム氏を取材

木村 ユーゴスラビア代表として、90年イタリアワールドカップに出場したメンバーが、ほとんどみんな揃っていましたね。

大野 そうですね。ピクシー(ストイコビッチ)もいましたし、カタネッチもいました。そして、ボバン(現UEFAフットボール部門責任者)がスピーチをしました。

木村 僕は、ボバンがスピーチをしたというのは、すごく意味深いなと思っているんです。オシムさん率いるユーゴスラビア代表は、90年のイタリアW杯のベスト8となって、その後、民族の対立により分断されていくんですけれど、イタリア大会の本大会には、ボバンは呼ばれていないんですよね。

直前の90年5月に、ザグレブのマクシミル・スタジアムでの暴動でボバンが警察に暴力をふるったことで、本大会には代表として呼ばれなかった。ボバンはその後、クロアチアの極右政党の支持者として、民族主義に乗る形で、クロアチア独立運動に政治的に進んでいったわけです。

オシムさんたちは、それをなんとか押しとどめて、最後まで民族融和のユーゴスラビア共和国で行きたいという立場で選手たちを説得していた。『引き裂かれたイレブン』というドキュメンタリーでもオシムさんは指摘していますが、両者の政治的立場は大きく違っていたわけです。にもかかわらず、ボバンがメッセージを発したというのは、すごく意義深いことだと、あらためて思いました。

オシム家を感動させた反町氏のスピーチ

大野 ボバンのスピーチの次に、日本サッカー協会の反町康治技術委員長がスピーチをされたんです。ちょうどそれより5日ほど前に、オシム家の方から私に連絡がありまして、「日本サッカー協会からどなたかがお別れの会に来られるんだったら、スピーチをお願いできないか」という打診がありました。

反町さんがいらっしゃる予定だったので、そのことをお伝えしたところ、反町さんにお話がいったようで。反町さんはそこから相当ご準備されたようです。英語で素晴らしいスピーチをされて、オシム家の皆さんも感動しておられました。

株式会社アスリートプラス代表取締役の大野祐介氏。オシム氏が日本代表監督に就任した2006年から、亡くなるまで16年間代理人を務めた

木村 オシムさんのご家族の様子はどうでしたか?

大野 もちろん奥様のアシマさんは、相当悲しんでいらっしゃいましたけれども、それ以上に、長女のイルマさんが憔悴されていましたね。イルマさんは、オシムさんが亡くなられたとき、たまたまサラエボから遊びに来ていて、娘のセリアさんと一緒にグラーツのオシムさんの家に泊まっていらしたんです。それだけに、ショックが大きかったのかもしれないですね。

オシムさんが亡くなったニュースを聞いて、最初に僕が連絡を取ったのが次男のセリミルなんですけれど、セリミルは、前の晩遅くに出張先から帰ってきて、その早朝にオシムさんが亡くなられたということでした。

オシムさんは、明け方に「トイレに行きたい」と言って起きて、トイレに行くときに「ちょっと苦しい」とおっしゃって横になり、そのまま亡くなられたらしいです。

木村 そうですか。しかし、ある意味では虫の報せというか、家族がたまたまそれだけ集合していたんですね。

大野 そうですね。残念ながらボスニア在住の長男のアマルだけはいなかったです。イルマさんの長女のセリアさんには、僕は2010年の南アフリカワールドカップのときに初めてお会いしているのですが、そのときは2歳くらいだったと思うので、12年経った今は、14歳くらいでしょうか。

そのセリアさんは、2014年のFIFAのボスニア制裁のとき、オシムさんが「正常化委員会」の会長としてサラエボにいた際に、イルマさんのお家にしばらく滞在されていたので、かなり長い間オシムさんと一緒に過ごしていたわけです。

2014年のワールドカップのときにも私はサラエボのイルマさんのご自宅におじゃましました。その頃、ずいぶんオシムさんになついていたので、一番、悲しんでいたのはお孫さんのセリアさんだったかもしれません。かわいがってくれていたおじいさんの死に直面して衝撃を受けているという感じでした。

サッカーを取るか、命を取るかの選択

木村 今日、大野さんとお会いすることになって、あらためてお聞きしたいなと思っていたのは、2007年11月にオシムさん(当時、日本代表監督)が倒れたときのことです。一報が入ったときに、大野さんは医師をしている弟さんに連絡を取って、相談されたということでしたよね。

大野 あのときアマルから連絡をもらって、すぐに救急車を呼んだのですが、「どこの病院へ行くんですか」と聞かれて困ったなと思い、弟に電話して相談しました。

弟は医師で、あの頃、慶應大学病院に勤めていました。オシムさんは普段は御茶ノ水の順天堂大学病院に行っていましたけれど、順天堂の浦安病院がご自宅のすぐ近くなので、弟がそちらに電話をしてくれました。当直のお医者さんに状況を説明して、受け入れが可能だと言ってくれたので、救急隊員に「順天堂の浦安に行ってください」と頼んだんです。

木村 その措置が的確だったですよね。それから、以前にちょっとうかがっていたのは、措置を施すうえで、判断を迫られたということでしたね。2つの選択肢があったと。

大野 はい。病院に入ってから、いろいろと検査をして状態をチェックする段階での話です。完全に治す方法を採るのであれば、薬を投与しなければいけないと。ただ、検査をしたところ、結果は「薬の投与にリスクあり」ということでした。

「それでも薬を投与するかどうかは、ご家族の判断です」と言われました。それで、アシマさんとアマルの二人だけで話をしていたと思いますが、最終的にはアシマさんの決断で、「投与しないで、確実に命を救う方法を採ろう」ということになりました。

木村 その判断は、生前のオシムさんは、ご存じだったんでしょうか。

大野 うーん、わからないですね。

倒れた後も監督はできた

木村 そうですか。一命を取りとめられて、左半身に麻痺が残ることになったわけですが、その後も、ものすごい記憶力と思考力は健在で、倒れる前と同じか、あるいはそれ以上に復活されたと思いますよね。

2007年に倒れてから15年の間に、ボスニアサッカー協会の正常化委員会など、大きな仕事も成し遂げられたわけですけれども、もし、あのときの判断が「リスクを冒しての薬の投与」だったら、どうなっていたのだろうかというのは、ちょっと思うときもあるんです。

大野 そうですね。倒れてからのこの15年間を振り返ると、実は、監督もできたんじゃないかという思いが、僕にはちょっとあるんです。

ボールを蹴って指導することはできないけれども、あれだけの頭脳とか見識、サッカーを見る能力とか、体力にしても、特に倒れた後の最初の5年間くらいは、いま思い返せば、しっかり監督ができたのではないかと思います。

「たられば」で言っても仕方がないんですけれど、もう一度、監督をしていただくチャンスをあげたかったな、という思いが僕にはあります。

木村 そうですね。

大野 オシムさんが倒れた段階で、日本サッカー協会が監督交代の判断をしたのは仕方がないことだったと思いますが、復帰してからは、もっと何らかのやり方があったのではないかと。私自身も、もう少しオシムさんが現場に戻ることを主張してもよかったのかな、と思い返すこともあります。

木村 日本サッカー協会とアドバイザー契約というものを結ばれましたけれど、あれはオシムさん、嫌がっていましたよね。「何をしていいのかわからない」とおっしゃっていた。

大野 結局、具体的な活動はないまま終わってしまいました。

木村 意識が戻ったときには、もう代表監督ではないことを病院で通達されたんですよね。せめて、意識が戻るまでは監督代行などでつないでおいて、回復してから話し合いがあってもよかったんじゃないか、と思います。

ボスニアで「オシムカップ」を開きたい

木村 お別れの会はグラーツでやって、サラエボでやって、ジェフの本拠地である千葉でも行われましたけれど、日本代表監督だったのだから、日本サッカー協会もお別れの会をやってほしいなと思うんです。代表のユニフォームを着たサポーターたちが、「シュワーボ(オシム氏の愛称)、ありがとう」と呼びかけをする機会を、ぜひ作ってもらいたい。「シュワーボ、オスタニ(いかないで)」から「シュワーボ、フヴァーラ(ありがとう)」に。

大野 そうですね。ちょうどサラエボで反町さんとお会いする機会があったので、そういう話はいろいろしました。もしかしたら、できるかもしれないと。

それから、オシムカップみたいなものを、今後、ボスニアで定期的にやりたいですね、という話になりました。日本のアンダー世代の若い選手が毎年ボスニアに行って、記念の試合をするというのを考えていると。反町さんもサラエボのオリンピック・スタジアムに下調べに行かれたそうです。

木村 そうですか。それは、ぜひ実現してほしいですね。

写真/AFLO 撮影/苅部太郎

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