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出版不況の中、芥川賞&純文学に未来はあるのか?

集英社オンライン / 2022年8月4日 17時1分

芥川賞によって年に2回、社会的注目を集める小説のサブジャンル、“純文学”。出版不況が叫ばれる昨今、特に採算性のないこのジャンルに、果たして未来はあるのか?そもそも“純文学”とは何なのか? 酒好き現役作家「鴻池留衣」が、先輩作家であり、鍼灸師でもある「松波太郎」を居酒屋に呼び出し、酔っ払いながら質問攻めに!

松波太郎が小説家になったきっかけ

鴻池 松波さんが小説を書き始めたきっかけって何だったんですか? プロフィールを拝見すると、サッカーやって、中国行かれて…って、特異すぎません!?

松波 子供の頃は、転勤族だったので、なかなか学校で周囲と馴染めなかったんです。引っ越した先は、いつも地域性の高いところばっかりで。毎回、方言の中にポンと放りこまれるわけです。もう外国語に囲まれるみたいな感じでした。



友達はいたんですけど、腹を割って話せる人はいなかった。そうなってくると、“外国語”みたいな空間の中で駆使しなければいけない自分の「口」よりも、「手」の方に興味が移っていったんです。

鴻池 「口」じゃなくて、「手」?

松波 家庭科の刺繍とか裁縫とかが全然できない子だったので、自分の手に対する劣等感がずっとありました。でも意外と、この「手」の変なクセ、ぎこちなさが面白かった。だから手を使って、日記とか書き始めるわけですよ。よっぽど寂しい小学生だったんでしょうね(笑)。

鴻池 方言の中、アウェーな状況下で、「手」が動き出したんですね。

松波 そうですね。ずっとサッカーをやっていましたが、そちらは「脚」という単語から連想するものに興味を持ったんだと思います。

鴻池 「身体」がキーワードになりそうですね。松波さんは今、小説家でありながら、鍼灸院も開いていらっしゃる。

松波 小説もそうだけど、結果的に自分は「手」の方に進んでいったという感じですよね。小説も鍼灸も、どちらも私にとって「手」の延長線上にあるんです。「脚」でサッカーをやっていたけど、途中に怪我とか色々あって、そっちの方を断念したっていうのもあります。

鴻池 松波さんのサッカーは、高校時代スペインに留学するくらいガチだった。それでも断念してしまったと。先ほど転勤族とおっしゃっていましたが、どのようなご家庭に育ったんですか?

純文学とは何か?

松波 親父は団塊の世代で、学生運動をしていたそうです。4つの大学に行っているんですけど、毛沢東の原文を読みたいってことで、東京外国語大学に入り直して…。結局最後は医者になったんだけど。医者がいないような地方に行って、地域医療をしていました。ドクターコトーみたいに。

鴻池 なるほど。だから方言の強いところにばかり連れて行かれるわけだ。

松波 なかなか漫画とかも買ってもらえなかったし。DRAGON BALLのアニメも家では流してくれないから、友達の家で録画してもらってそれを見に行くんですよね。漫画のDRAGON BALLに、どうしても欲しい巻があったんですよ。親父に「この巻だけは欲しい!」と土下座しました。

そしたら「もう一生私は親に何かを買ってと言いません」という誓約書を書かされて、ようやく買ってもらいました。DRAGON BALL一球より一巻を得る方が自分にとっては大変でしたね(笑)。テレビもあまりつけなかったんです。だから、ある意味、言葉に飢えていたのかもしれませんね。

松波太郎

鴻池 僕は芸能事務所でバイトしていた時に小説家としてデビューしました。すると職場の人たちから「どういう小説書いてるの?」ってよく聞かれたんです。みんなが思っている小説って、ミステリーとかホラーとか、いわゆる「エンタメ」じゃないですか。

そういう人たちに、純文学ってどう説明すりゃいいんだろうなって考えるわけですよ。でも、上手くまとまらない。で、僕以外の純文学作家が、それを説明したら、何て言うんだろうなって、すごく興味があったんですよね。松波さんだったら、独自の、ユニークな、ご自分なりの考えがあるんだろうなと、以前から思ってたんですよ。

松波 ハードル上げてくるなあ(笑)。私は 「文学」についてはよく分かってないんです。というのも、「小説」というものに関心があって。たぶん親父の影響で、中国的な「小説」の捉え方をしているんです。

中国では、四書五経っていう、インテリ、知識階級の人しか読めないような文献を指して「大説」と呼んでいた。それに対して、スラングとか、噂話とか、市井の人たちでやり合う言葉を「小説」と呼んでいた。だから「文学」っていうのは、自分の中では少し「小説」とはズレるんですね。

YouTubeも「小説」

鴻池 「大説」=「文学」っていう捉え方ですかね。「小説」はそれよりも、もっとカジュアルな何か?

松波 そうです。自分の考えとしては、「文学」みたいな硬く凝り固まっているものを、優しく取り込んでくれるような包容力のあるものが、「小説」だと思っています。分かりやすく言うと、「文学」はガチガチ、「小説」はゆるゆる。

情報伝達の手段が文字しかなかった時代に成立したから、一般的に文字で書かれたものこそが「小説」ということになっています。けれど、実はそんなことはなくて。例えば今のYouTubeとかの映像表現も、自分は「小説」だと思っています。

鴻池 YouTubeも「小説」なのか! おもしろ! 松波さんは小説を書きながら、「文学」を意識されていないということですか?

松波 意識してないですね。元々、私は下地が「小説」なんですよ。

鴻池 じゃあ、出版社の商品としての「純文学」という括りについては、どのようにお考えですか?

松波 そうですね。広大な「小説」という場所があって、それを 1 個 1 個、色々なジャンルで埋めていった。SF、エンタメ、ミステリなど。周りから埋めていったときに、真ん中にたまたま余っちゃった空洞。この空洞をじゃあ出版社として、分類しないといけない。

これを「純文学」って呼んでいる感じはあって。全部のジャンルからはみ出た、あぶれちゃったものが集合している空洞なんです。だからこそ、純文学の定義は難しいんですよ。みんな、空洞の説明に困るわけで。

鴻池 なるほど! 松波さんの作品がまさにそうですよね。ジャンルレスっていうか。「松波太郎」というジャンルでしかない。

純文学の権威

松波 鴻池さんもそうだと思うんだけど、文芸誌に原稿を応募してデビューした人たちって、「文学しよう」って奮起してくる人って、少なくないですか。なんか自由にやりたくて、「自分なんかでも拾ってくれるんじゃないか」っていう期待を持ってやってきた人たちが多い。

雑誌自体が売れていないわりに、新人賞の応募作の数は毎回多いじゃないですか。つまり、そういう期待の上に成り立っているところもある。

鴻池 僕がまさにそうでしたもん。自由を求めて文芸誌に作品を応募した。

松波 実際はあぶれ者のアウトローの集団なんだけど、純文学っていう空洞が、全体の真ん中にあるようなイメージを日本人は持っている。

天皇の象徴制とかもそうだけど、絶対王政じゃなくて、そこに何らかの(権力などの)空洞を空けておく。それが神々しいと思っている。「神々しい空洞」ですね。

鴻池 そのおかげで純文学は、採算性はないのに、未だにみんなからある程度、ありがたがってもらえるんだ。純文学に「権威」が付与されるメカニズムだ。

でもそう考えると、実際のところ、僕たち純文学作家って全然「ガチガチ」じゃない。松波さんのおっしゃるように「ゆるゆる」な集団ですね。

松波 「ガチガチ」で言えば、エンタメ小説の人の方が純文学の人よりも、ガチガチな印象です。ちゃんと作法を持っているし、言葉をそのジャンルに適した形にしている。ルールに従って、起承転結を守ることから含めて、言葉をちゃんと日本語、国語に落としてくる。

一方でいわゆる純文学の方は、それ以前の習いたての日本語でもいいし、生成される前、形になる前の言葉でもそのまんま出せる。やっぱり形にまとめちゃうとその分、力を失うと思うんですよ、言葉自体が。私は言葉そのものを楽しみたいんです。

こんなに自由にやって、何でもありって構えなのが「純文学」。鴻池さんは、純文学ということを意識して書いていますか?

鴻池 時々意識します。何だろうな。やる気が起きるんですよ、僕の場合は。「自分がやっているのは純文学なんだ。だから売れるとか売れないとか、そういうのじゃないんだ。崇高な行為をしてるんだ。」っていう気分の持ち上げ方をしています。

とはいえ、出来上がった自分の作品を崇高に思っているかというと、そんなことはないですね。やっぱり自作は、自分にとってカジュアルなものですね。

鴻池留衣

撮影/長谷部英明 編集協力/株式会社ロト(佐藤麻水)

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