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QRコードに映像も。「小説」のフォーマットはこの先どうなっていくのか?

集英社オンライン / 2022年8月4日 17時1分

かつて通っていた創作教室で出会った知人の作品に、松波太郎は感銘を受けた。故人となった彼の作品を出版すべく、それを作中作として、松波太郎は小説を書いた。そして、その作品に対する感想文を他の作家、アーティストたちから集めて、全てまとめて一冊の本に。「小説」というフォーマットについての、彼の解釈とは…?

凝りをほぐす「小説」

鴻池 僕、結構、松波さんの作風って、自分と似ているなって思っていて。

松波 私の小説のやり方は、身体に置き換えると「凝り固まってるものをどんどん緩めていく方法」。文学はガチガチ、でも小説はゆるゆるで、堅苦しいものをゆるゆるの方に持ってくる。鴻池さんの場合は、メールのやり取りをしてもわかるけど、すごい文章的な運動神経の良さが元々ある人だと感じていて。



良く動く身体だから、本来は緩んでいるわけです。そういう人は、凝り固まることに対する、憧れが出てくるんですよね。堅苦しいものになろうとしている。

鴻池 するとつまり、僕はガチガチの「文学」になりたがっているということか(笑)!

松波 そう。私の場合は「文学」っていう「動かないもの」に対する憧れが出発点でしたね。そこから今では、「緩んでいこう」っていう指向にシフトしているんだけど。鴻池さん今、30何歳?

鴻池 35ですね。

松波 なんか鴻池さんって、「永遠の思春期」みたいな感じがする。

鴻池 恥ずかしい(笑)。三十路ぶっこいたおっさんなのに。でもわかります。

松波 鴻池さんは、常に思春期で、小説家として「背が伸びる」ことをちょっと恥ずかしがっている。元々ゆるゆるなんだけど、それを自分自身、良しとしてないから、ガチガチの方へ向かう。純文学っていう重荷を背負うみたいな。だからナルシシズムが捻くれている。

鴻池 確かに、へそ曲がりなんです、僕は。じゃあ、不躾な質問で恐縮ですが、松波さんから見て、作家としての僕に、どういったアドバイスがありますか? 小説家の目線から、僕はもっとこうすればいいのにみたいな。

松波 文芸誌が、鴻池さんとは相性があんまりよくないんじゃないかな。紙だけで閉じている人では元々ない。窮屈そうに見えますね。「紙とペンさえあれば何でもできる」っていうのが、小説の自由なところですよね。

でもこの自由さに、意外と作家は後からしっぺ返しを喰らうんですよ。それはやがて「ペンしか使ったら駄目」っていう束縛になっていくから。鴻池さんの作品を見ていると、どんどん進化してきている。動きも出てきていて、ペンによってだけじゃなく、メディアそのものをいじっていく方向に進んでいくんじゃないのかな。私は今回の対談も、鴻池さんの作品の1 つのあり様なのかな? っていう風には思っています。

純文学の入門書

鴻池 まさに、自分の創作の一環としてこの記事を企画してもらいました。松波さんは、今年の4月に『カルチャーセンター』という小説を上梓なさいましたよね。実はあの作品の手法を今回、僕はパクったんです。『カルチャーセンター』っていう小説の中には、「万華鏡」という、松波さんの亡くなられたお知り合いの方の作品が内包されている。

それに飽きたらず、僕も含めて色々な小説家、批評家、編集者、アーティストの方々のコメントも収録されています。松波さんの本なんだけれど、松波さん以外の人の言葉も含まれていて、それでいてやっぱり松波太郎の作品っていう。

松波 私が昔、小説教室に通っていた頃に影響を受けた故人の作品を、ご遺族の許可を得て、収録させていただきました。こういうことは普通、反則かもしれないけれど。

鴻池 僕、『カルチャーセンター』は、純文学作家を目指す人たちの入門書となり得ると思っていて。作中作の「万華鏡」という作品を読んで思ったのは、すごく「新人賞を目指している人あるある」な出来栄えだなと。

かつて僕も、この作者と同じ場所に立っていたな、って、感慨深かったんです。そしてその「万華鏡」に対して、『カルチャーセンター』の中で、小説家や批評家たちがコメントを寄せているわけじゃないですか。デビューしていない人の作品に対して、こんなに多角的な視点が一つの本に、小説に入っていることって、まずないですよね。今後、誰かの道標になればいいと思いますね。

松波太郎

純文学の今後

鴻池 ところで松波さんは、純文学は今後、どうなっていくと思いますか? なくなると思いますか?

松波 なくならないと思いますね。やっぱり文芸誌は、自分が書くために読んでる人が多いんですよ。紙だけじゃなくて、Twitterもそうだし、文章の出力の場っていうのは昔よりも多いじゃないですか。たぶん、みんな書く楽しさに気づいているんだと思うんですよね。

鴻池 ですよね。実際、僕が最初に文芸誌を読んだのも、自分の作品を応募するためのリサーチとしてだったんですよ。小説を書くために読んでいた。文芸誌の読者っておそらく、この層がメインなんですよね。

松波 「自分も書きたい」と思って読む人がほとんどだと思いますね。

鴻池 だから「新潮新人賞」とか「文學界新人賞」とか、公募型新人賞っていう仕組みがないと、文芸誌は続かない。あれがたぶん、雑誌の骨格なんだと思う。

松波 そしてみんな小説を書き続けるんだけど、絶対売れないままじゃないですか。だから、出版社がどこまで付き合えるかっていう話ですよ。赤字っていうことだけじゃないです。

「大説」に対する「小説」って考え方で言うと、例えば作品の中に QR コードを入れてもいいし、映像を流していいし、イラスト出していいし、どんどんやっていいわけですよ。電子書籍などで、文字を動かしたり、踊らせたりしてもいい。

「文字がかわいそう」

鴻池 いいですね! 僕なんかは「ジャップ・ン・ロール・ヒーロー」っていう作品をWikipedia形式で書いたのですが、松波さんのやりたいことわかる気がする。

松波 出版社は純文学に対して「もう売れなくてもいいじゃん」って開き直ってる感じもあるけれど、基本的なルールとして「活字だけでやっていく」っていう縛りがある。

文化事業をやってるんだっていうような、編集者のプライドもあるのかもしれない。だからそうなると、作家側はどうしても自由にはいかない。

鴻池 ていうか、映像とか、踊る文字とか、編集めんどくさそう(笑)。

松波 古代の人たちは象形文字で、つまり絵で言葉を書いていたわけじゃないですか。どうやったら象みたいな形で描けるんだろうって試行錯誤して、それが伝わって文字になった。

筆順もそうだけど、イラストレーション込みだったんですよ。映像的な。で、私としては、それをもう 1 回取り戻したいんです。小説の中身が動いたり踊ったりしたら、読みやすいですよ。文字自体が凝り固まっているので、それを緩めてあげるわけです。だって、文字がかわいそうじゃないですか! 元々は動きがあったのに、今みたいにガチガチにされてしまって。

鴻池 「文字がかわいそう」(笑)。なんか可愛いですね、その発想。

松波 YouTube とか新しいメディアが今後、もっと出てきます。そういったものだけでなく、哲学とか、漫才とか、これらも取り込んだ小説ができるんだとしたら、もう私は小説っていうのは絶対、漫画や映画や演劇や音楽やあらゆるメディアより強いと思いますね。

鴻池 いやー、いい話が聞けた。勉強になりました。また飲みましょう!

撮影/長谷部英明 編集協力/株式会社ロト(佐藤麻水)

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