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原告全員が重い障害に……「黒い雨」訴訟が明らかにした被爆者の現実

集英社オンライン / 2022年8月6日 17時1分

原爆投下によって広島に降った「黒い雨」。放射線を帯びた雨による深刻な健康被害に多くの人が苦しめられながら、彼らは長らく「被爆者」とは認められず、戦後70年を経て、ついに国に補償を求める訴訟へと踏み切った。その裁判で明らかになった被爆の実態とは。毎日新聞記者の小山美砂によるノンフィクション『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)から一部抜粋、再構成して紹介する。

医師の診断書を出せなかった理由

訴訟も終盤に差し掛かってきた2019年3月、第16回口頭弁論前の進行協議で、裁判長の高島義行らが、原告側弁護団にこう投げかけた。

「原告らが罹患している病気については、陳述書で言っているだけですよね。診断書を出すなど、主張を補充することを検討されませんか」



裁判所が着目したのは、厚労省令が定める11種類の障害を伴う病気、通称「11障害」のことで、肝硬変や糖尿病、甲状腺機能低下症などが該当する。健康診断特例区域内にいた人が発病すれば、被爆者健康手帳が交付される対象の病気だ。

原告側弁護団に、高島らの意図は容易に想像できた。「裁判所は、11障害を要件として原告らを被爆者に認定しようとしているのではないか」。

提訴からすでに3年半、なぜいまだに診断書を提出していなかったのか。訴状では、「放射線被曝のために、がんなど種々の病気に罹患し、又はいつ発症するか分からない強い不安を抱えながら原爆投下後70年もの間懸命に生きてきた」と訴えている。これを裏付けるならば、診断書の提出は効果的なはずだ。

そうしてこなかった理由を原告側弁護士の竹森雅泰が説明する。

「新たな分断を生まないか、心配だったんです」

黒い雨被爆者にとっての戦後は、「分断」との闘いだった。

特例区域を巡っては、集落を横切る小川などで境界線を引かれた。その線は、同じ村、家族、同級生の間で「被爆者になれる」者とそうでない者とを分け、格差を生んだ。

ただ、その援護措置も、直接被爆や入市被爆といった他の被爆者には求めない一定の疾病を要件とし、ハードルが課されていた。これもまた、本来同じ扱いを受けるべき「被爆者」間に差を付け、いずれも放射線による被害を受けた者たちを分断した。

竹森が懸念したのは、病気を患っているか否かによる新たな「分断」だ。

原告らが訴える健康状態から考えると、まず間違いなく原告全員が何かしらの病を抱えているという確信はあった。しかし、医師の診断を受けた時に果たして全員が11障害を有しているだろうか。

さらに、「被爆者」になるためには「原子爆弾の放射能の影響を受けたことを否定できない事情」があればよいと考えており、発病は必要条件ではない。

だが、裁判所の狙いは理解できた。原告側弁護団は決意し、原告らに医師の診断書を取り寄せるよう指示した。9月には、連絡が取れなかった一人(後に入院していたことが判明)を除く84人全員(当時)の診断書が集まった。

結果は、全員が11障害のいずれかを有していた。

つまり、原告らが雨を浴びた地点が「大雨雨域」、すなわち特例区域内だったなら、全員に被爆者健康手帳が交付されるということだ。

「夏まで生きとれるか……」

竹森は、驚きつつもこの結果を重く受け止めた。「高齢だから、というだけでは説明がつかない。しかも、甲状腺機能低下症などそんなに一般的でない病気も多い」。

原告らの健康状態が客観的に裏付けられたのは、裁判長らの訴訟指揮があったからに他ならない。国側が「原爆放射線に被曝したことによる漠然とした健康不安や抽象的な危惧感」は、被爆者援護法による保護の対象ではないと主張していたことを挙げて、竹森が言う。

「単なる危惧感じゃないんですよ、現実に被害が出ている」

広島地裁の審理は、診断書の提出から4カ月後に結審するが、高島はこの時すでに、どんな判決を書くか決めていたのかも知れない。原告らの11障害発症は、後に重要な鍵を握る。

診断書の提出を終え、審理はクライマックスを迎えようとしていた。2019年10月には原告11人と、広島大学名誉教授の大瀧慈、琉球大学名誉教授の矢ヶ﨑克馬に対する証人尋問があった。

その後、双方が最終準備書面を提出して翌2020年1月20日、結審。判決言い渡しは7月29日とされた。75回目の原爆の日まであと8日、という日取りだった。

原告らは、期待に沸いた。

2009年、原爆症認定を巡る集団訴訟で、8月3日に国側が19連敗目となる熊本地裁判決が下されると、3日後に広島を訪れた首相の麻生太郎は控訴見送りを表明。麻生と日本原水爆被害者団体協議会は、救済策を盛り込んだ確認書に署名した。

この時のように事が進めば、理想的だと思った。「原爆の日」直前に原告全員を被爆者と認める判決が出れば、国に政治判断を迫りやすい。結審後の報告集会で竹森は、「8月6日を迎える前に、全面勝訴の判決が出ることを期待したい」と、明るい声で述べた。

一方で、懸念もあった。

一人を除く原告全員が「11障害」を発症していた事実は、原告らの深刻な健康状況を物語っていた。無理を押して裁判所を訪れたがために傍聴中に体調を崩し、それがもとで他界した原告もいた。判決までの半年は、原告らにはとても長く感じられた。

「夏まで生きとれるか……」。多くの原告が顔を曇らせた。

原告団副団長で、94歳になっていた松本正行がマイクを握る。「この裁判で『真実』が明らかになったんです。私は、大きな期待を持っている」。両手に握った杖で体を支えないと歩けない状態だったが、話しぶりは明瞭で、力強かった。松本の言葉には大きな拍手が送られ、原告らは夏まで生き抜く覚悟を決めた。

しかし、松本はこの時すでに、相当な無理をしていたに違いない。椅子の背もたれに体を預けて座る姿はどこかぐったりとし、肩で息をする場面もあった。

連絡協議会発足以来の仲間である牧野一見には、体調の変化を吐露していた。この裁判期日の直前、電話で「夕べはご飯が食べれんかった。ちょっと吐き気がして、病院にも行かれん」と打ち明けていた。

最年長の原告は判決を見届けることなく……

松本は、腎臓病を患っていた。結審の2週間後に容体は急変し、安芸太田町内の病院に入院。「絶対に勝訴する」。まだ声を出せた頃、松本は家族や仲間にそう確信を述べていたが、まもなく言葉を発することもできなくなった。

2月、見舞いに訪れた牧野の手を、松本は堅く握って離そうとしなかった。牧野は、「頑張って元気になってよ」と握り返した。松本は何か言いたげだったが、その喉が震え、音を発することはとうとうなかった。

3月8日、松本は腎不全で、94年の生涯に幕を閉じる。判決まで、あと4カ月だった。

通夜、葬儀には100人以上が訪れ、連絡協議会と弁護団の花が供えられた。葬儀場では、長辺が1メートルほどもある大きな広島県の地図が、参列者を迎えた。「黒い雨降雨地域図」と上部に大きく記され、宇田雨域がカラーペンで描かれていた。

何十年も前に作成したものなのだろう、色あせてはいたが細かな字で「ザーザー降り」「夕立のような雨」などと書き込まれている。降雨図の側には、精悍な顔つきで正面を向く松本の写真の他、連絡協議会が2012年に発行した冊子『黒い雨 内部被曝の告発』が飾られていた。

松本の部屋からこれらの資料を持ち出し、展示した長男の信男は、「『黒い雨』は父のライフワークでした。判決を見届けられず、残念だったろうと思います」とあいさつした。

原告の姿も、多くあった。松本は裁判期日のたびにマイクロバスを手配し、山間部に住む原告を率いた。そのバスがなければ、傍聴できなかった原告は多いだろう。松本は、すでに判決日のバスの手配も済ませていたが、自ら引率することは叶わなかった。

参列者は「松本さん、ありがとう」と声をかけ、手をさすり、白く冷たくなったほほにあたたかい涙を落とした。松本に誘われて原告に加わったのは、66人。最大88人いた原告団の、大部分を占めていた。

「今、あなたの訃報を聞き、私の片腕をもがれたような思いに沈んでいます」。弔辞を読む牧野の声が、満員の葬儀場に響く。

牧野と松本は1973年、1週間違いで隣り合う町の町議に当選。32年間議員活動を支え合い、連絡協議会も結成当初から率いてきた。松本がこの世から去り、あの頃から運動を続ける者はもう、牧野だけになってしまった。

「松本正行さん」。牧野は、優しく穏やかな声で、松本の遺影に語りかける。

「あなたは、黒い雨連絡協議会の役員として、集団訴訟では副団長として、この闘いの先頭に立ってこられました。原告団の中でも最年長でありながら、原告の原爆手帳申請書類や陳述書の作成作業、裁判傍聴参加の案内や貸し切りバスの手配などを一手に引き受け、その献身的な活動ぶりに、関係者の誰もが、頭の下がる思いを抱きました。

裁判もこの1月に結審して判決が7月29日と決まり、あなたは勝訴を確信しておられました。その判決を見ることなくこの世を去ることに、大変悔しい思いをされていると思います。松本正行さん、私たちはあなたの思いを受け継ぎ、原告勝訴のために最後まで頑張り抜きます。長い間のご奮闘、本当にお疲れ様でした。ごゆっくりおやすみください」

松本を含め、地裁判決までに16人が他界した。4人の遺族が訴えを取り下げ、84人の原告で、夏を待つこととなった。

取材・文/小山美砂 写真/共同通信社

「黒い雨」訴訟

小山 美砂

2022年7月15日発売

1,056円(税込)

新書判/256ページ

ISBN:

978-4-08-721222-8

なぜ、被爆者たちは切り捨てられたのか――。

広島の原爆投下から70年以上を経て、ようやく語られ始めた真実の数々。
「黒い雨」による被ばく問題を記録した、初めてのノンフィクション。

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原爆投下直後、広島に降った「黒い雨」。
多くの人がその放射線を帯びた雨による深刻な健康被害に苦しめられていながら、「被爆者」と認めて救済する制度はなかった。
雨を浴びた住民らは国に援護を求めて訴訟提起したが、解決までの道のりは長く険しいものだった。
なぜ、国は黒い雨被爆者を切り捨てたのか――。

本書は当事者の歩みをたどるとともに、米軍の被害軽視に追従した国の怠慢、非科学的な態度をあぶり出していく。
戦後70年以上を経て、ようやく語られ始めた真実の数々。
「黒い雨」による被ばく問題、その訴訟の全容を記録した初めてのノンフィクション。

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なぜ、黒い雨被爆者は戦後七五年余りもの間、置き去りにされてきたのか。
そこには、被ばくの影響を訴える声を「切り捨てる」論理があった。
これに疑義を唱え、被ばくを巡る救済のあり方を問うたのが、「黒い雨」訴訟だった。
黒い雨被爆者がなぜ、どのように切り捨てられ、そして何を訴えて援護を勝ち得たのか。
本書は、黒い雨被爆者が「切り捨てられてきた」戦後を記録した、初めてのノンフィクションである。
その記録は長崎で、福島で、そして世界中で今も置き去りにされている放射線による被害者を救う道しるべになると確信している。
(「序章 終わらない戦後」より)

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