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水木しげる、手塚治虫、こうの史代……マンガ家たちは戦争をどのように描いてきたか

集英社オンライン / 2022年8月15日 12時1分

戦後77年、戦争はもう遠い過去のものになったのだろうか。もうそれを振り返ることは懐古趣味なのだろうか。いや、ロシアによる侵略戦争は、戦争がまだこの世界に遍在することを教えた。そして戦後一貫して、それを忘れずにいた芸術群がある。マンガだ。学習院大学教授、中条省平氏が日本人と戦争とマンガについて考える。

戦争を体験した4人のマンガ家たち

終戦記念日である8月15日が近づくたびに、日本人にとって戦争とは何だったのか、という問いが提出されます。

今年2022年は敗戦から77年目に当たります。日本人男性の平均寿命に近い時間が経過したわけで、太平洋戦争はもはや遠い過去の出来事といえる(はずでした)。

しかし、今年はすこし様相が違う気もします。2月に始まったロシアによるウクライナへの侵略戦争が、当初の予想を覆して半年を経過しても終息のめどが立っていないからです。私たち日本人も、隣国ロシアや中国との関係を考えれば、いま・ここにある戦争の危機という感覚をもたざるをえません。



本稿では、マンガを手がかりにして、日本人の戦争観の変化を探ってみたいと思います。

現在、戦争を実際に体験した日本人は亡くなるか、超高齢化の一途をたどっています。したがって、戦争体験をじかに語りつぐことは遠からず不可能になります。

しかし、戦争を体験した日本人が描いた戦争マンガは今後も生き残り、戦争を知らない人々に様々な問題について語ることをやめないでしょう。その意味で、戦争を体験したマンガ家たちの作品を、いま・ここで実際に読んでみることが大事です。

そうしたマンガ家たちの代表として、まずは4人の名前を生年の古い順に挙げてみます。水木しげる、手塚治虫、滝田ゆう、中沢啓治。もはや全員が亡くなっています。

水木しげるは、敗戦時に23歳。いま挙げたマンガ家のなかで、唯一、戦場で兵士として戦った経験の持ち主であり、ニューギニアのニューブリテン島で空爆を受けて左腕を失っています。いわゆる「傷痍軍人」です。

執筆中の水木しげる ©水木プロ

水木しげるは多くの戦争マンガを描いていますが、自身の経験を「九十パーセント」の事実で描いた長編『総員玉砕せよ!』を刊行したのは1973年のことでした。このマンガの題材である「玉砕」事件をなかば体験してから、28年の歳月が経過していました。「なかば」というのは、本当に玉砕に参加していれば、当然死んでいて、マンガを描くことはできなかったからです。ともあれ、この極限的な体験は、客観化して作品にするのに、28年もの時間が必要だったのです。このことは私たちの想像をはるかに超える重みをもっています。

今年は水木しげる生誕100年に当たりますが、記念展の準備をしていた長女の原口尚子さんが遺品のなかから『総員玉砕せよ!』の構想ノートを見つけました(その一部は講談社文庫の『総員玉砕せよ! 新装完全版』に収録されています)。そのなかでとくに印象に残ったのは、このマンガを戦死した友人の「霊に捧ぐ」との言葉が見られることです。


水木しげるは、自分が片腕を失いマラリアに罹患したために玉砕を免れたことを、死んだ友人たちに対して申し訳ないと思っていたのです。そのため、マンガのなかでは、自分の分身ともいえる主人公を友人たちとともに戦死させています。

「みんなこんな気持で死んで行ったんだなあ 誰にみられることもなく 誰に語ることもできず……ただわすれ去られるだけ……」

主人公の死体にこう語らせたとき、水木しげるは死んだ友人たちの霊に同化していました。それは、妖怪や幽霊と同化できる水木しげるという異才だけに可能なわざだったのです。

水木しげるが描いたテーマ

一方、つねにあらゆる事象に距離を置いて眺めることのできる水木しげるがこのマンガで描いたのは、戦争では人間が個人ではいられなくなるという事実です。

例えば、同じ南方での戦争を描いた文学の決定的な名作として大岡昇平の『野火』がありますが、あの小説で語られているのは、戦争(すなわち殺人)を前にしたときの個人の内面のドラマです。その冷徹な分析が可能だったのは、大岡昇平が卓越した知的精神の持ち主だったからです。それは大岡昇平の例外的な精神のドラマでした。しかし、『総員玉砕せよ!』が描きだすのは、戦争の渦中にあって人間は個人ではいられないという別の事実です。

水木しげるの『人間玉』というマンガでは兵隊たちが文字どおり人間ではなく肉ダンゴになってしまうのですが、戦争の渦中において人間は個人として生きることを許されません。その肉ダンゴのような集団的混沌が常態であり、誰もそれを疑わず、誰も責任も負わないのです。『総員玉砕せよ!』が描いたのは、そうした戦争の狂気のありさまでした。この真実が見通せたのは、水木しげるが常人の目とは異なる異人のまなざしをもっていたからです。そこに水木しげるの戦争マンガの、他とは隔絶した幻視力があるのです。

人間玉(「カランコロン漂白記」より)©水木プロ

それでは、手塚治虫の場合はどうでしょうか。手塚は16歳で大阪大空襲に出逢い、焼夷弾で無数の死体が黒焦げの山になる現場を経験しました。それは「ダンテの『地獄篇』のようなすさまじさ」だった、と手塚は自伝『ぼくはマンガ家』に書いています。その結果、手塚は生涯、戦争への絶対的批判者でありつづけました。

しかし、手塚は大阪大空襲という個人の体験から出発しながらも、水木とはまた異なった角度から、戦争をひき起こす社会的メカニズムを解明しようという普遍的な視点を失いませんでした。その集大成というべきマンガが、『アドルフに告ぐ』です。ここで手塚は、戦争をひき起こす根源的原因が、民族、国家、宗教それ自体にあること、そして、それらが架空の観念(共同幻想)にすぎないことを明らかにしました。

このマンガには大阪大空襲の場面も出てきますが、それがナチスのユダヤ人虐殺や、イスラエルとアラブ諸国の戦争と完全に地続きであることを、巧緻なドラマの展開で読者に納得させます。手塚の最後の大長編『アドルフに告ぐ』は、彼の精神的遺言というべき位置を占めているのです。

手塚治虫『アドルフに告ぐ』(講談社)

滝田ゆうのニヒリズムの視点

敗戦時に水木が成人、手塚が青年であったとすれば、滝田ゆうは13歳の少年でした。彼の代表作『寺島町奇譚』は、戦前・戦中の私娼の町・玉の井を少年の視点から描く連作集ですが、最終話「蛍の光」では、東京大空襲で玉の井が焼きはらわれて消滅する風景が描かれています。しかし、そこには、同じ大空襲を経験していても、手塚治虫とは違う、すべてを受動的に受けいれてしまうような感情のゼロ地点が刻まれているのです。そうでもしなければ、この苛酷きわまる戦争の現実に耐えることができなかったのでしょう。ここには、戦争を経験した多くの日本人に共通する、精神と感情の風景の底が描かれているように思われます。

滝田ゆう『寺島町奇譚』(筑摩書房)

滝田が東洋的なニヒリズム(虚無主義)のうちに戦後を生き延びるすべを見ていたとすれば、終戦時に6歳の小学生として広島で被爆した中沢啓治は『はだしのゲン』で、かつての日本人の信じた価値体系への激烈な怒りを、戦後を生きぬくエネルギーの源泉にしています。

とはいえ、戦前は大日本帝国に服従し一体化しながら、戦後は易々とアメリカ流の民主主義と物質的繁栄に追随した大方の日本人からすれば、『はだしのゲン』は忘れたい傷痕をわざわざ掻きむしるようなマンガに見えることでしょう。何年か前にも『はだしのゲン』を子供たちの目から遠ざけようとする閲覧制限の運動が起きましたが、それは逆に、いまでも衰えない『はだしのゲン』の怒りの力を実証するものといえるでしょう。

ここまでは、戦争を経験した人々のマンガによる戦争の表現の諸相です。

中沢啓治『はだしのゲン』(汐文社)

私が個人的に、日本人の戦争に対する感覚が変化したと実感したのは、1982年に矢作俊彦原作・大友克洋作画の『気分はもう戦争』が刊行されたときです。それまで戦争は日本人にとって絶対悪として認識されていました。しかし、このマンガは、米国・ソ連・中国のパワーゲームのなかで戦争と戯れる若者たちの姿を描き、戦争が絶対的な悪のイメージであることに終止符を打ったのです。

それは、自由と平等、民主主義と平和を至上の理念とする近代の価値体系が懐疑にさらされる近代以後(ポストモダン)の始まりを画すると同時に、私たち日本人の戦争観もポストモダンに入ったことを告げていました。もはや戦争を自明の悪として語ることはできなくなった、と私はこのマンガを読んで感じました。

戦争マンガが相次いだ2015年の夏

それ以降も、様々な戦争マンガが描かれてきましたが、私の記憶にいちばん印象的に残るのは、2015年の夏です。

この年の4月、平成天皇(現・上皇)夫妻がパラオのペリリュー島を訪問し、この島で玉砕した日本人兵士たちの戦没碑に献花し、深々とお辞儀をしたのです。これは、戦争を遠く忘れた私たち日本人に対して、重い衝撃をもたらす出来事でした。

これに触発されたかのように、2015年の夏には、終戦70年を期して、戦争を描いたマンガの刊行や企画が相次ぎました。

小林よしのりはペリリューの玉砕を発想源にして『卑怯者の島』を描き、戦争が善悪を超えた破壊と殺戮、飢えと苦痛と恐怖であることを生々しく描きだしました。

また、大西巨人の『神聖喜劇』を見事なマンガ版にした、のぞゑのぶひさは、『敗戦悲劇』で、アッツ島玉砕を含む戦争の戦慄的な数々の局面をクールに描き、寡黙な画面に戦争の記憶を結晶させました。

さらに、大判全4巻で合計1000ページをはるかにこえる『原水爆漫画コレクション』が刊行されたことも忘れられません。このコレクションのおかげで、原爆という人類史上類例のない惨禍に対して、最も真摯かつ奔放にその意味を探求したのは、ほかの芸術ジャンルにも増して、マンガというサブカルチャーだったことがはっきりと分かりました。

マンガ雑誌の企画として鮮烈だったのは、それまでもおりに触れて終戦記念日の周辺で戦争マンガの秀作を再録してきた『ビッグコミックオリジナル』による「戦後70周年増刊号」でした。

巻頭に藤田嗣治の『アッツ島玉砕』の戦争画のカラー大画面を置き、その怨念の憑依したような鬼気迫る戦意高揚の絵画に次いで、水木しげるの戦争の狂気をユーモラスに描く『人間玉』を配するという構成がみごとに決まっていました。そこには、戦争の狂気を生き延びるためには、水木マンガのような冷徹なまなざしが必要だというメッセージが感じられました。

とはいえ、上記の作品や特集は、戦争の狂気をアッツやペリリューの玉砕に見るという一種の流行を生んだことも確かで、それは昨年完結した武田一義のマンガ『ペリリュー 楽園のゲルニカ』まで続いています。

マンガこそが、一縷の希望だ

戦争をどう捉えるかという視点の問題に関して、21世紀に入って最も優れた範例を示したのは、2008年から09年にかけて刊行された、こうの史代の『この世界の片隅に』だったと思います。

こうの史代『この世界の片隅に』(双葉社)

こうの史代は広島出身ですが、1968年生まれでむろん原爆の惨禍を体験していません。しかし、『夕凪の街 桜の国』で原爆後を生きる人々の姿を静謐に描きだし、高く評価されました。一方、その後に描いた『この世界の片隅に』は、原爆投下前の一般庶民の日常生活を精細に描写し、戦争という非常時のなかにもごく当たり前の日常があったことを、徹底的な考証をもとに描いていきます。

そうした丹念な描写を積み重ねることで、何ものにも代えがたい人生の平凡な時間の豊かさを示し、逆に、その豊かさを一瞬にして消し去る原爆の残酷さをくっきりと浮き彫りにしました。戦争は破壊と殺戮ですが、戦場以外の場所でも平凡で豊かな日常を許さないということを、『この世界の片隅に』は繊細な感性で描きだしたのです。

『この世界の片隅に』ののちも、ブラジル日本人移民の勝ち組の話を発端とする『その女、ジルバ』(有間しのぶ)、中国に侵攻した日本人兵士の戦後を描く『あれよ星屑』(山田参助)、戦争を近代日本の帰結とする『ニュクスの角灯(ランタン)』(高浜寛)など、思いがけない角度から戦争に切りこむ佳作が世に問われています。いまも戦争が行われているこの世界で、戦争に対する思考停止に抗おうとするマンガが生みだされていることに、一縷かもしれませんが、私は未来への希望を見出します。

文/中条省平

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