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アナウンサーの道は一度諦めていた。仕事観を変えた、あるコーチの言葉

集英社オンライン / 2022年8月14日 15時1分

いつも笑顔でテレビに映っている女性アナウンサーも、つまずいたり、転んだり…ときには、悔し涙をこぼすことだって…あるはず。今秋から報道番組『Live Newsイット!』のメインキャスターを務めることになった、入社8年目の宮司愛海アナウンサーもそのひとり。宮司アナの素顔を写す鏡には、いま何が映っているのだろうか

学生時代はファッション系フリーペーパーの編集をやっていた

――女性アナウンサーという存在を、最初に意識したのはいつ頃ですか?

小学生のころだったと記憶しています。 母と一緒にテレビを見ていたとき、「女性アナウンサーというのは、場も和ませられるし、空気も読めて、機転も効くし、素敵な職業よね」と母が言ったのを聞いていて、“あぁ、この職業に就いたら、母が喜んでくれるのかも”と思ったのが、最初だったような気がします。



――そのあと職業として、アナウンサーを意識したのはいつでしょう。

なんとなく憧れとしては、ずっと心のどこかにあって。そこから、自分が将来なりたい職業として本気で考えたのは、高校3年のときです。
志望した早稲田大学に、“将来やりたいこと”というテーマのエッセイと、高校の内申点で判定される、大学独自の奨学金制度があって。そのときですね。

――将来の夢として、アナウンサーを挙げた?

う〜ん、なんだろう? と、結構悩みながらでしたけどね(苦笑)。
アナウンサーになるために東京に行きたい。そのためには、早稲田大学でこういう勉強をすることが、自分の人生にとって大切なことなんです…ということを書いて。書きながら、あぁ、私はこう思っていたのかと、アナウンサーになりたいと思っていたんだと、あらためて気がついた感じです。

――そこからは、一直線?

と、思いますよね。私自身の予定でもそうなるはずだったんですけど…。
早稲田大学に入学してすぐ、部員400人を超える、まるでテレビ局のような本格的なサークル「放送研究会」に入部したんです。照明部、カメラ部、舞台美術部、進行部といったような部署があって、「アナウンス部」に籍を置いたのですが…一年で辞めてしまったんですよ(苦笑)。

――え〜っ!? どうして、また?

発声練習や原稿読み、フリートークの練習などがあって。合宿にも参加したのですが、どうしてもうまく話せなくて。
あれ!? もしかしたら…向いていないのかも?と、思いはじめて。半年で行かなくなって、一年後には退部届を出して、そこからは並行してやっていたファッション系のフリーペーパーサークルで、ずっと編集作業をしていました。

――そうなると、当然、就活は、出版社系になると思うんですが…それが、なぜ、フジテレビでアナウンサーをすることに?

そこですよね、大事なポイントは(笑)。
出版社も、当然、志望はしていたんです。でも……情けないことにES(エントリーシート)が大変で、途中で、心が折れちゃって(苦笑)。
自分に何ができるのかもわからなかったし、ご縁というものもあるだろうしと思って全業種幅広く…商社、通信、メーカーなど、いろいろと受けて。その中でそういえば、アナウンサーになりたかったと思っていたことを、ふと思い出して。キー局だけですが、テレビ局にもESを出したんです。

入社3年目で感じた違和感

――内定が出たときのことを覚えていますか?

え~!本当〜?みたいな、信じられない、驚きの気持ちでいっぱいだったと思います(笑)。
内定をいただいてすぐに、フジテレビに行こうと決めました。
昔から憧れていたというのもありますし、なりたいと思ってなれる職業でもないし、自分で掴んだチャンスなのだから、やってみよう、頑張ってみようと。

――頭の中で想像していたアナウンサーという職業と、実際の現場とでは、大きく違いましたか?

1年目に『めざましテレビ』と『さまぁ〜ずの神ギ問』というバラエティを担当しました。空回りや失敗だらけの毎日でしたが(苦笑)、イメージしていたアナウンサーとは、それほど違わなかったような気がします。

――その後、ご自身の中で仕事に対する意識が変わったことはありましたか?

入社3年目くらいですね。
ちょっとずつ仕事にも慣れ、番組全体を見ることができるようになったことで、自分は今後、どんなアナウンサーになりたいんだろうと、考えるようになって。
そのとき担当していた『めざましテレビ』は大好きだし、すごく居心地もいい。でも同時に、自分は将来どうなっていきたいんだろう?と考えはじめるようになっていたんです。

――そこから『S-PARK』をはじめ、スポーツの現場に携わることが多くなりました。でも、なぜ、スポーツだったのですか。

そこにも、不思議なご縁がありまして。
たまたまアナウンス部の先輩とランチをしていたとき、「バスケットボールをやりたいアナウンサーを探しているんだよね」という話になって。
「バスケは昔から好きです」と言ったのですが、どういうわけか、伝言ゲームのように話が変換され、プロデューサーのところに届いたときには、「宮司がバスケットボールを担当したいと言っている」という話になっていたんです(笑)。

――え〜っ!? ですね。

そう、え〜っ!? でした(笑)。
それで、その年に発足したBリーグ・ファイナルの中継を任されることになって。シーズンも終盤に差し掛かっていたんですが、そこから、勉強のために足繁く現場に通うようになったんです。その姿を見たスポーツ担当の方々が、「宮司はやる気がある!」と思ってくださったみたいで。次の年から、正式にスポーツ番組を担当するのが決まりました(笑)。

――スポーツにいた4年間は、大変でしたか?

楽しかったです。私自身、スポーツに関してはゼロからのスタートだったので、個人的にはものすごく大変でしたけれど、でも…だからこそ楽しかったです。

心に沁みた井村雅代コーチの言葉

――スポーツを伝えるときに大事にされていたことを教えてください。

主役は選手だということです。
選手のことを理解して、その選手の気持ちを代弁する――。
4年間、ずっと、それが私の仕事だと思ってやってきました。

――では、スポーツを伝える楽しさは?

表に出てこない裏側のストーリーを知ることができる立場にいたり、その選手の人柄に触れることができたり…そういう心に触れることができた一瞬一瞬に、やりがいを感じていました。

――選手と同じ気持ちになれる…ということですか?

少し違いますね。
私は、これまで広く、浅く生きてきた人間で。何にでも興味はあるけど、ひとつのことに対して、深く突き詰めたことがない。ずっとそうやって生きてきて、仕事もそういう仕事を選んで。でもそれが、どこかコンプレックスだったんです。
人間として、浅いのかなぁという。

世界で戦うトップアスリートの話を伺っていると、「あぁ、そうか。ひとつのことに全てを賭けて追い続けるというのはこういうことなんだ」と思う瞬間があって。もちろん、その選手のところまでたどり着くことは出来ないし、私に見える景色は、きっとカケラのようなものなのですが、でもそのカケラが、すごく輝いていて。
それに触れられたことが、私にとっては、ものすごくプラスでした。

――順位はつけられないと思いますが、パッと思い浮かぶ、印象深い言葉をあげてくださいとお願いしたら…。

アスリートの方々の言葉は、ひとつ、ひとつ、どの言葉にも重さと深さがあって、とてもひとつには絞れないんですけど…自分の心に沁みたのは、アーティスティックスイミング・井村雅代ヘッドコーチの言葉です。

――“鬼コーチ”と呼ばれる、井村コーチ?

お話を聞いている中で、どうして井村コーチは、選手に対してそんなに厳しいのかという話になって。そのときに、井村コーチがおっしゃったのが、“一生、頑張れと言っているわけじゃない。アスリートには、今、この時、この瞬間だけは頑張らなきゃいけないという時がある。私はそれを思って選手を指導しているんです”というお話で。その言葉がすごく私の心に沁みました。

――何か思うところがあった?

アナウンサーも一緒だと思ったんです。
仕事をしている以上、いつもベストを尽くさなきゃいけない。それこそ必死に、どんなに大変でも、死にもの狂いで頑張らなきゃいけない時期というのがアナウンサーにもあると思うんです。
私自身に置き換えて考えたとき、私にとってはそれが20代後半から、30代にかけてなのではないかと思ったんです。
井村コーチのお話を伺っている間に、アスリートのみなさんがメダルに向かって頑張る期間と、自分がアナウンサーとして踏ん張らなきゃいけない期間というのが、どんどん重なっていって…私自身にとっても、忘れられない、心沁みるインタビューになりました。

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https://www.fujitv.co.jp/recruit/

取材・文/工藤晋 撮影/猪原悠

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