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「日本の劣化」を食い止めるカギは「森のようちえん」にある!?  宮台真司×おおたとしまさ

集英社オンライン / 2022年8月18日 10時1分

いま日本中で急速な広がりを見せている幼児教育のムーブメントがある。自然のなかで子どもたちを自由に遊ばせながら育てる幼児教育・保育活動、通称「森のようちえん」だ。これを徹底取材し、『ルポ 森のようちえん』(集英社新書)にまとめた著者・おおたとしまささんと、同書を大絶賛している社会学者の宮台真司さんによる白熱の対談の模様を3回にわたってお届けする。

いま日本中で急速な広がりを見せている幼児教育のムーブメントがあります。自然のなかで子どもたちを自由に遊ばせながら育てる幼児教育・保育活動、通称「森のようちえん」です。子どもたちの「自己肯定感」や「身体感覚」、そして近年話題の「非認知能力」がぐんぐんと育つとされ、注目を集めています。



そんな森のようちえんを教育ジャーナリスト・おおたとしまささん徹底取材し、集英社新書として一冊にまとめたのが『ルポ 森のようちえん』。全国各地での丹念な取材をもとに、驚きの全貌を描き出しました。

撮影:野﨑慧嗣

実は、同書を大絶賛しているのが社会学者の宮台真司さん。「僕はこの本をできるだけ多く広めたいです。本をたくさんの人が読んでくれて森のようちえんがどんどん増えれば、僕のワークショップなんかよりもはるかに実効的になります」とまでいい、宮台ゼミでも取り上げたそうです。

宮台さんがこれからの日本社会の希望を「森のようちえん」に見出しているとは、どういうことなのでしょうか? 本書の刊行を記念して行われたおおたさんと宮台さんによる白熱の対談の模様を、3回にわたってお届けしていきます。



おおた みなさん、こんばんは。今日は2021年10月の拙著『ルポ森のようちえん』(集英社)の出版を記念して「日本の劣化を止める」という壮大なテーマで社会学者の宮台真司さんとお話をさせていただくことになっています。

宮台さんのファンであれば「日本の劣化を止める」というタイトルだけでなんとなく文脈が想像できるんじゃないかと思うのですが、そうでないひともいると思うので、ちょっと最初に説明が必要かなと思っています。

宮台 よろしくお願いします。

おおた 私は「中学受験のひとでしょ」みたいに思われていることも多いんですけど、本当は教育現場のルポを書くのが生業で、そのなかで、教育の「核」の部分みたいなものが森のようちえんにあるんじゃないかと直感したんですね。

「森のようちえん」というのは、あとで説明しますけれど、特定の幼稚園のことではなくて、いま盛り上がっている幼児教育のムーブメントです。で、宮台さんとは、同じ高校出身というご縁もあって、何度かインタビューさせてもらって……。

宮台 僕はおおたさんの中高の先輩で、貴重なインタビューをおおたさんの『麻布という不治の病』(小学館新書)という本に載せていただきました。それを読めば僕らの中高時代がいかに滅茶苦茶であったのかがよくわかると思うんです。

おおた 何度かインタビューさせてもらって、いろいろ教えていただいているうちに、大学のゼミにも参加させてもらうようになって、「こんな本ができたんです」って森のようちえんの本をお持ちしたら、「いいじゃないか!」ってことで、新聞広告用の推薦文まで寄せていただきました。

宮台 素晴らしい本ですよね。

おおた その推薦文がこちらです。

「いま大学生の大半には悩みを話せる友達や恋愛相手がいない。みんなバラバラ。かつて街では誰もが『同じ世界』を生きたが、今はスマホを眺めて自分の世界にこもる。みんなバラバラ。日本は社会も人もひどく劣化した。自分の損得へと閉ざされ、大切な他者のために思わず体が動くことがなくなった。なぜそうなったのか。かつてあった『何か』が失われたからだ。読者は本書を通じてその『何か』を見出すだろう」。

そしてAmazonの推薦文がこちらです。

「この本をたくさんの人が読んでくれて森のようちえんがどんどん増えれば、僕のワークショップなんかよりもはるかに実効的になります」。

宮台さんは性愛のワークショップや親業のワークショップなんかをいろいろやられているんですが、「社会の劣化を止める」のが目的なんですよね。

宮台 はい。2022年、僕は性教育の本を三冊出します。一つは『大人のための「性教育」』(ジャパンマシニスト社)。子どもに性教育をする資格がない大人が99%なので、そのひとたちに性教育をする本です。1月に出ました。

もう一つは、そこでも予告した、僕が小学生・中学生・高校生・大学生を相手に性教育をしたワークショップの記録『こども性教育』(ジャパンマシニスト社)です。7月下旬に出る予定です。

最後は『性に踏み出せない女の子のために』。雑誌『季刊エス』に連載したものをまとめた分厚い本で、今年末に出ます。統計では若者の性的退却が深刻ですが、ワークショップ経験だと男は回復が難しいので、若い女に向けたものです。

これら三冊で、どうして僕が森のようちえんに関心をもつのかも理解できると思います。性的劣化の最大のポイントは、「同じ世界」で「一つになる」能力の低下。「共同身体性の欠落」とも言えます。

だから、デートでも、相手を喜ばせることより、自分をどう見せるかにあくせくします。デートでも、セックスでも、独りよがりな達成課題にどう近づくかみたいな発想しかできません。

「クズ化」してしまった男たち

おおた 達成課題?

宮台 今回のデートはこう組み立てようとか、次のセックスはこうするぞとか。

おおた 目的設定があるわけですね。

宮台 そう。表情とか、体温とか、体の色とか、オーラとかに自動的に反応する力が乏しいからです。これは「言葉の自動機械、法の奴隷、損得マシーン」への閉ざされです。閉ざされたひとを文脈次第で「クズ」とも呼ぶこともあります。

「言葉の自動機械、法の奴隷、損得マシーン」とは、ボットみたいに言葉と法と損得計算の内側に閉ざされた人を指します。これって偏差値的な頭の良さに関係ないどころか、むしろ高偏差値のひとほど深刻な傾向があります。

こういうひとたちをどうしようかと思って、10年くらい前から性愛ワークショップを始めましたが、特に男は言葉を理解しても踏み出せない。「同じ世界」に入って「一つになる」という言葉のクオリア(体験質)が想像できないからです。

それで途中から、誰がそんな子を育てたのだということで、親業ワークショップに変えました。親がすでに「同じ世界」で「一つになる」という体験を知らないのが大半です。そういうダメな親に抱え込まれていたら子もダメになります。

ダメな親が、子を抱え込まずに、「同じ世界」で「一つになる」能力を持つ子を育てる方法なんてあるのか。あるんですよ、というのが僕のワークショップで、その記録が『ウンコのおじさん』(ジャパンマシニスト社)という本です。

おおた はい、読みました。

宮台 その『ウンコのおじさん』の上位互換としておおたさんの『ルポ森のようちえん』がある。だから多くのひとに読んでいただきたい。おおたさんの中学受験の本はいっぱいあるけど、まず『ルポ森のようちえん』を読まなきゃダメだよ。

おおた あはは。実は武蔵という私立中高一貫校の学校説明会で、「おおたとしまささんの『ルポ森のようちえん』を読んでください」って紹介してくれたらしいんです。こういう価値観がわかるご家庭のお子さんたちに来てほしいということですよね。

僕の中では中学受験の本も、森のようちえんの本も、込めているメッセージは同じなんです。そこで森のようちえんがどんな教育をしているのか、知らない方のためにごく簡単に説明しますね。

まず「ようちえん」をひらがなにしていることからもわかるように、正式な「幼稚園」とは限りません。子育てサークルみたいなものも含みます。要するに、園舎の中にずっといるんじゃなくて、毎日、自然の中で過ごすんです。

しかも、たき火しましょう、木に登りましょうと大人が煽動するんではなくて、放牧するんです。森の中を移動するときもお手々つないで一列になったりするんじゃなくて、それぞれの子が好きな道を選んで進んでいく。

たぶん、考えているんじゃないんですよ。自分の通るべきルートが自然にスキャンできるみたいな感覚です。ほら、この写真みたいに、わざわざ岩のゴツゴツしたところを歩いたりする。

森のようちえん「まるたんぼう」の活動風景(撮影:おおたとしまさ)

宮台 これ、岩に「アフォード」されているわけです。

おおた アフォードっていうのは「いざなわれている」みたいなニュアンスですね。能動態でも受動態でもなく、中動態的に。

森の中のような環境にいると、子どもたちの心と体が自然に動き出すんですね。気づいたら虫を追っかけてたとか、気づいたら川をせき止めてたとか、気づいたら棒切れ拾ってるとか……。

大人の意図のない部分で子どもたちが自動的に動き出すっていうことが発生するわけなんですよね。そうやって子どもたちをアフォードする刺激が、もう十全にそこにあるっていうのが森の環境、自然豊かな環境なわけなんですね。

どしゃぶりでも、外で過ごします。雨だってぜんぶ自然の恵みですから。さすがに数時間後には子どもたちもブルブル震えてましたけど、その体感も含めて、森のようちえんです。

宮台

自然の中には十全な刺激がある

おおた じゃあなんで自然の中に十全な刺激があると言えるのか。端折って言いますけれども、「個体発生は系統発生をくり返す」と言われるように、『エミール』のルソーにしても、『森の生活』のソローにしても、人間の知的な成長っていうのは、人類の知的な進化を追体験することにあるというんですね。

だとすると幼児って原始人の段階なんです。だから原始人と同じ環境に置いてあげればいいんです。「東京じゃ無理よね」みたいな発想になりがちだと思うんですけど、いやそうじゃないんです。

本の結論を言ってしまうと、自分の中にある自然性と外にある自然との一体感、共鳴性みたいなものに気づけるひとになりましょうよという話です。それが、先ほど言った共同身体性とかとおそらくつながってくるところ。それが森のようちえんの本質だろうと思っています。

森だけではなくて、畑やたんぼなどの里山の風景の中で過ごす森のようちえんも多くあります。森のようちえんというよりは里山のようちえんなんです。この里山という環境に豊かな意味があると僕は思っています。

西洋的な自然観でいうと、人間の社会とワイルドな自然が対比されてしまうと思いますが、日本の里山はそのふたつの要素がオーバーラップするところです。要するに、垣根なく、里つまり人間社会にも行けるし森にも行ける存在として過ごせるわけです。

この本と『ポストコロナの生命哲学』(集英社)という本を題材に生物学者の福岡伸一先生と対談させてもらったときに教えていただいたことなんですが、人間はピュシスとロゴスのあいだをたゆたう存在であると。ピュシスというのは人間社会を含む宇宙全体としての自然です。ロゴスというのは言葉、論理。人間はロゴスの力を駆使することでピュシスの中に社会をつくりあげました。

人間の中にもピュシスはあって、性愛ももちろんピュシスだし、「ウンコのおじさん」つまり排泄もそうですよね。感情の動きもピュシスなんだと思います。宮台さんがよく現代社会における「感情の劣化」を指摘することとも通じていると思うんです。

宮台 感情も降ってくるものですからね。アリストテレスは感情をパトス(pathos)と呼んだけど、そもそもパトスという言葉の意味が「降ってくるもの」という意味なんですね。受動態(passive)という言葉と語源が同じです。

古代ギリシア人にとっては、天変地異もパトスだし、そこに山や川があるのもパトスだし、感情が訪れるのもパトスでした。パトスにおいて、ひとは主体というより客体なんです。

おおた でもロゴスはピュシスを覆い隠そうとする。排泄物は水洗トイレで流してしまう。死体は火葬場という日常からは隔離された場所で燃やす。水着で隠すプライベートゾーンというのはピュシスがあふれ出るところです。

もちろんロゴスは悪いものではなくて、ロゴスがあるから僕たちは安心・安全を手に入れたし、人権をもつことができたし、民主主義のようなものも発明できた。その延長上にいま「メタバース(仮想世界)」も実現しようとしている。

宮台さんはいろいろな番組に出演して、このメタバースが新たな権威主義に結びつく危険性を指摘しつつ、そこへの対抗手段として森のようちえんをあげていましたよね。そういう論理展開をしたひとっていままでいなかったんじゃないかと思います。

宮台 そうだよね〜。

森のようちえんで育まれる能力とは

おおた 福岡さんは「ロゴスに閉ざされてはいけない。ピュシスの歌を聴け」と言うわけです。

1960年代に農薬による環境破壊の危険性を訴えた海洋生物学者のレイチェル・カーソンは、その遺作で「センス・オブ・ワンダー」という言葉を使いましたが、これもまさに人間様の都合に閉ざされるのではなく、ピュシスの歌を聴けということなんですね。

さらに、『ルポ森のようちえん』の最終章に、教育学者の汐見稔幸先生のインタビューを掲載しているんですが、そこで汐見さんは「内なる自然と外なる自然を共鳴させる。それが森のようちえんの究極の目的である」と言うんです。

「ピュシスの歌を聴け」「センス・オブ・ワンダー」「内なる自然と外なる自然の共鳴」そして、宮台さんの「同じ世界に入る」あるいは「共同身体性」。みなさんが感じている問題意識が、ぜんぶつながっていると思うんです。

前説が長くなったんですが、要するに「森のようちえんで育てれば、有名中学に入れますかとか、将来グローバル企業で活躍できますか」とか、そういう話ではないということです。

宮台 物理学をフィジクス(physics)というけど、もともとは「ピュシス(physis)の学」ということです。だから本来は「万物学」って訳すべきなんですね。ピュシスも「自然」と訳すのは間違いで、「万物」と訳さなきゃいけない。

紀元前5世紀のギリシアでは、エジプトで生まれた一神教がいう「神の言葉」であるロゴスを、敵として意識し、ピュシスと結びついた言葉だけを、維持しようとした。それが万物学です。

ペロポネソス戦争でアテネが負けた頃からギリシアが没落します。それでプラトンは、「ピュシスに開かれた言葉」から、「ロゴスに閉ざされた言葉」に移行しないと、複雑な社会が統治できなくなっちゃうと考えました。

プラトンまでの初期ギリシャでは、万物=ピュシスは「流れ」で、社会=ノモスは「流れに浮かぶ孤島」です。初期ギリシャは、「孤島を生きつつ、流れを意識すること」を奨励していました。

ところが、島がでかくなり、島外から異人がたくさん入って、流れを意識できなくなりました。だから、そんなひとたちに、今度はロゴスを意識させようとした。それがプラトンですね。

わかりやすく言うと、ずっと森の中で遊んできたやつ同士って、すぐ「同じ世界」に入れるでしょう。でも、社会が複雑になると、成育経験が違う大人だらけになって、「同じ世界」に入れなくなっちゃう。

そんな経緯で、プラトンはやむをえず、ピュシスを超えた「イデア」──万物を超えた抽象的真実──と結びついたロゴスによって、人々を統治しようとしたわけです。この歴史的な展開を頭に刻んでおくのが大切です。

おおたさんがドイツの生物学者・エルンスト・ヘッケルの「個体発生は系統発生をくり返す」という言葉を引いたように、子どものころは仲間感覚と共同身体性だけで遊べます。言葉なんていらない。何かを説明する時に使うだけです。

定住以前、小集団で移動していた遊動段階では、大人もそう生きていたんです。そのころの大人の生き方が、大人がそう生きなくなった後も、子どもたちの生き方としてずっと残ってきたんです。

おおた 言葉が通じない外国人同士でも、子どもはすぐにいっしょに遊びますよね。

宮台 掛け声だけで足りるもん。でも大人になると、言葉や法や計算に縛られる。それを「社会化される」(社会的な存在になる)と言います。定住で大きくなった集団は、人々が言葉や法や損得に縛られないと回らないからです。

でも人類が定住するようになったのは、たかだか1万年前でしょ。つまり「社会化」された大人にならなきゃいけなくなったのは、人類史的には最近なんですね。非常にしょぼい。

おおた しょぼい……。

宮台 持続可能性が確かめられたとは言えないという意味で。

おおた 僕らはいまの社会が当たり前だと思っているけれど、人類史から見たら一時的なバグかもしれないということですね。

宮台 詳しく言うと、「言葉と法と損得」に縛られた定住生活は、それまでにない不自然なもので、続けていると力を失う。だから定住社会には必ず祭りがありました。祭りは「言外・法外・損得外」の時空で、そこで力を回復したんです。

「言葉と法と損得」に縛られた定住を、拒絶して差別された非定住民が、祭りでは呼び戻されてメインプレイヤーになります。人々は、「言葉と法と損得」に縛られると力を失っちゃうことが、ちゃんとわかっていたんです。

定住社会には、力が湧き出す時空=聖と、その力を使う時空=俗が、あります。聖なる時空が失われると、ひとには使える力がなくなります。これが「生きづらい」状態。90年代からの「登校拒否→不登校→ひきこもり」の流れです。

聖の時空は、「言外・法外・損得外」の時空です。一つは、社会にとっての祭りですが、もう一つあって、個人にとっての性愛です。これらを失う流れを、日本の新住民化を含めて、一般に「法化する」「法化社会になる」と言います。

日本では、80年代の新住民化で祭りが失われ、90年代後半からの性的退却で性愛が失われました。それを25年前から言っています。誰も聞いてくれなかったけど、それを示す統計が出揃ったいまは、聞いてくれるようになりました。

「非認知能力がなくなった」と言われるけど、これは機能にだけ注目して歴史感覚を欠いたクソ概念。正しくは「言外・法外・損得外」の「同じ世界」で「一つになる」能力が劣化した。この言い方で、社会の変化との対応関係がわかります。

「言外・法外・損得外」の「同じ世界」で「一つになる」とは、複数の身体が、同じ事物や互いの身体に、同じようにアフォードされ(コールされて自動的にレスポンスし)、互いがそれを弁えている状態。「共同身体性」とも言います。

80年代の新住民化以降、子どもから外遊びが失われ、よそんちとの行き来がなくなり、60年代の団地化で育った頓馬な親に囲い込まれます。それで若いひとの共同身体性がめちゃめちゃ下がり、回復不能な状態になりました。

共同身体性がなくなれば、祭りの微熱と眩暈も、性愛の微熱と眩暈も、体験できなくなり、生きづらくなります。だから、共同身体性の能力を取り戻すしかないということで、性愛と親業のワークショップをするようになりました。

ピュシス(万物)という言葉を使えば、「万物に開かれた感受性を取りし、取り戻した者同士がつながるための実践」です。映画批評では「二人で屋上に昇って一緒に天空とつながり、手をつないで地上に降り立つ」と表現してきました。

おおた この本でも「森の風」という森のようちえんの園長先生が「20世紀末から急激にいのちの感覚の薄れを感じた」って語ってくれています。宮台さんが「街から微熱感が消えた」と言っている時期とぴったりシンクロしてますね。

大切なのは「言葉の外」の世界に出る経験

宮台 アフォードあるいはアフォーダンスの概念は、ウィリアム・ギブソンが言い出した概念です。僕らは観察・評価・行動決定する主体じゃなく、むしろ主体はモノで、モノにコールされて自動的にレスポンスする身体だと言います。

精神分析学寄りの哲学では「シニフィアンの優位」とも言います。わかりやすく言うと、言葉のラベルを貼り付けられないものに動かされること。言葉の外にダイナミックな流れが展開しているという感覚です。

古代ギリシアのタレスは「万物は水」と言い、それが哲学の始まりだとされます。これを「流れのダイナミズム」を指すものだと理解するなら、同時代の原始仏教の発想にも共通する普遍的な認識です。

僕らは言語以前のダイナミズムを生きてきました。精神分析では、物理的時空を「現実界」と言い、体験として現れる時空を「想像界」と言いますが、文明化を背景に、体験の時空が、言葉の時空である「象徴界」に制御されはじめます。

でも、象徴界はいつも不完全だから、言葉では表しようのないものが、現実界から想像界へと侵入してきます。それをフランスの思想家のジョルジュ・バタイユは「呪われた部分」と言いました。

ゲルマンには古くから「森の哲学」がある。森を、「言外・法外・損得外のダイナミズム(動態)」とパラフレーズできます。子どもたちを森に連れて行くと一日で顔つきが変わる。一皮むけた存在に成長します。子育てで実感しました。

三歳の長女と公園で遊んでいたら、「黒光りした戦闘状態」で無言のままジャングルジムを高速で動き回る子らがいた。彼らに尋ねたら、完全自由保育で、ふざけ・いたずら・けんかを制止しない園だった。それで三人の子どもを入れました。

近所の公園には明治の東京農学校由来の完全有機農法のたんぼがあって、収穫期が終わると時々開放されるんですが、そこでぐちゃぐちゃの泥だらけになって虫取りやカワニナ取りをして遊ぶだけでも、子どもは変わるんです。

そういうのを一個一個よく見ると、僕ら大人が子どものために準備しなきゃいけないものが──子どもたちの毎日に昔あって今欠けているものが──経験的に明確にわかるんですよ。

いまの劣化した親は「いい学校に入れれば幸せになれる」とか「勝ち組になれる」とか言う。なれねえよ! 身体性のないやつはモテないし、「言外・法外・損得外」に開かれていないやつは友愛も性愛も貧しいままタワマンで孤独死するんだよ。

おおた それでは何のための教育だか……。

宮台 特に日本ではこの傾向が顕著です。劣化した親が、劣化した子どもを量産しています。「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシーン」の自己増殖です。実におぞましい。

おおた どうして日本の親はそうなってしまったんでしょうか。

宮台 ヒラメ(上にへつらう)とキョロメ(周囲に合わせる)という日本人の劣等性のせいです。抽象的には、適応(適応的学習)優位で、貫徹(価値的貫徹)劣位という、あるまじき構えです。

でも、日本に「世間」があった頃は、この「日本人の劣等性」が「日本の劣等性」としては露呈しなかった。ところが、60年代団地化と80年代コンビニ化(新住民化)で、地域と家族が空洞化し、世間が消え、クズが野放図になりました。

60年代の団地化は、「専業主婦への依存」が「地域の空洞化を埋め合わせて加速」した。80年代のコンビニ化は、「システム(市場と行政)への依存」が「家族の空洞化を埋め合わせて加速」した。コンビニ化と新住民化は表裏一体です。

子どもが育つ環境から見た大きな変化は80年代のコンビニ化=新住民化です。土地に縁のない新住民が多数派になり、子どもをトータルに承認する力のない劣化した新住民親が、安全・便利・快適を望む一方、「子どもの領分」を奪った。

おおた 危険だという理由で公園から遊具がどんどん撤去されました。

宮台 「骨が折れたら誰が責任とるんだぁ~!」とか。このひとたちが行政訴訟を連発したせいで、行政がビビッて遊具撤去し、マンション管理組合が屋上ロックアウトし、教育委員会が放課後校庭をロックアウトしたわけです。

おおた 要するに大人が責任を取りたくないから、子どもが危ないことをすることを全部閉じちゃった、っていう。

森のようちえん全国ネットワーク連盟の理事長の内田幸一さんは1970年代後半に東京都渋谷区にある幼稚園で働いていたそうです。1980年代に入って、子どもたちに危ないことを禁止するようになっていって、これじゃまずいって思って、時計の針を巻き戻さなきゃって考えたそうです。実際には長野県の山の中に移住して、そこで昔ながらの環境を生かした子育てを実践しようとして、森のようちえんの先駆け的なことを始めるわけです。

社会学者・宮台真司氏(右)と教育ジャーナリスト・おおたとしまさ氏(左)

《次回予告》
森のようちえんの紹介から始まり、話題は「日本社会」の劣化へ。次回は宮台さんが劣化の原因を鋭く指摘しながら、「文明の再生」に至るための道筋を大胆に提案します。そしてさらには、いま話題のメタバースも議論の俎上にのぼります。注目を集めているメタバースですが、人間の疎外にも繋がりかねない危うさを孕んでいるとのこと。その危険性を感知できる人間を育てるカギになるのが、意外にも森のようちえんだというのです。宮台さんの真意とは、果たして……?

※本記事は2022年1月10日(月)に本屋B&Bで行われた『ルポ森のようちえん SDGs時代の子育てスタイル』(集英社)刊行記念イベント「『日本の劣化』を食い止めるカギは『森のようちえん』にある!?」の内容を一部再構成したものです。こちらのイベントについては2023年1月10日(火)まで、以下のページでアーカイブ動画が販売されております。
https://bbarchive220110a02.peatix.com/

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