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幼児教育のムーブメント「森のようちえん」が持つ真の社会的意義 宮台真司×おおたとしまさ

集英社オンライン / 2022年8月18日 10時1分

自然のなかで子どもたちを自由に遊ばせながら育てる幼児教育・保育活動、通称「森のようちえん」だ。『ルポ 森のようちえん』(集英社新書)の著者・おおたとしまささんと、同書を大絶賛し、日本社会の希望を「森のようちえん」に見出している社会学者の宮台真司さんによる、白熱対談の最終回をお届けする。

いま日本中で急速な広がりを見せている、注目すべき幼児教育のムーブメントがあります。自然のなかで子どもたちを自由に遊ばせながら育てる幼児教育・保育活動、通称「森のようちえん」です。そんな森のようちえんを教育ジャーナリスト・おおたとしまささんが徹底取材し、集英社新書『ルポ 森のようちえん』にまとめました。

実は、同書を大絶賛しているのが社会学者の宮台真司さん。宮台さんはこれからの日本社会の希望を「森のようちえん」に見出しているとのことですが、いったいどういう意味なのでしょうか? 幼児教育や子育てを通して、これからの日本社会が変わっていく可能性があるのでしょうか? おおたさんと宮台さんによる白熱の対談、後編をお届けします。


社会学者・宮台真司氏(右)と教育ジャーナリスト・おおたとしまさ氏(左)

おおた 後期プラトンのころの社会が複雑すぎるというのなら、現代社会はそれとは比べものにならないくらい複雑になっているわけで、もう逆戻りはできないってことでしょうか?

宮台 どこの水準で逆戻りするかにもよるけれど、僕は逆戻りできると思う。だからこそ、「まず民主制のユニットサイズを小さくしろ」って、「原発都民投票条例の制定を求める住民直接請求」の請求人だった十年前から言ってきたでしょ。

ルソーが「民主政の条件はピティエ(憫み)」と言う。皆が他の成員がどんな状態にあるか①わかって②気にかけること。それがないと損得とデマで動員する政治になり、動員リソースをもつ勢力が勝つ。だから大規模な代議制に反対した

おおた いまの民主主義がまさにそうなっていますよね。

宮台 そう。「一般意志」が民主政で集約されるのは、自分はよくても「あの人はどうかな、この人はどうかな」と①わかって②気にかけつつ、決定にのぞむ場合だけ。だから民主政の規模に限界がある。ルソーは2万人が限度だとみた。

自分はよくても「あの人はどうかな、この人はどうかな」と①わかって②気にかけつつ決定にのぞむ場合、最終手続きは多数決でもクジ引きでも王様のお触れでもいいとした。どのみち決定の副作用を手当てする用意を皆がもつからです。

人類学が役立ちます。ポリネシアの部族にはトーキングチーフがいます。部族全体の意思決定について皆で三日三晩語り合う。部族内の争いをどうするかとか、隣の部族と戦争するかとか。その間、トーキングチーフはずっと黙っています。

最後に「すべての意見を聞いた。皆の意見はよくわかった。だから私はこうしようと思う」と告げる。そのとき、トーキングチーフの語りは権威を帯びます。権威とは「そのひとが言えば皆が自発的に従う」ことを意味する概念です。

その権威は、皆がどうなるかを①わかって②気にかけつつ、最善の決定をなす力が信頼されているってことです。だからトーキングチーフの語りが「皆の意志(一般意志)」だと体験される。多数の意志でもチーフの意志でもなく。

人類学デイヴィッド・グレーバーも、自由主義者ノーム・チョムスキーも、ミニサイズの民主政を回せと訴えます。社会学者宮台も「民主政のユニットを小さくし、その上でユニット間で有機的に連帯するしかない」と訴えてきました。

ユニット間の有機的連帯を要件に加える点が、無政府主義と社会学主義の違いです。無政府とは中央政府の廃止です。でもそれだと中東やアフガンの軍閥闘争みたく「ユニット間ホッブズ問題」が生じると社会学者デュルケムは考えます。

だから、無政府主義=国家を否定する中間集団主義に対し、社会学主義=国家を否定しない中間集団主義を主張したんですね。国家が有機的連帯を調整するわけです。でも今日のテック水準を前提にすれば、両者の違いは縮小しつつある。

食の共同体自治にせよ、エネルギーの共同体自治にせよ、今日ではテクノロジカルな相互連携と市場での分業が不可欠で、他ユニット群との有機的連帯を考えない共同体自治は不可能。だからかつてのような軍閥闘争は心配ないんです。

しかも国家が有機的連帯を触媒するかどうかも、国家の性質次第。劣化した日本みたいに、すべてを中央で決定しようとする国家は、有機的連帯を妨害するから、むしろないほうがいい。国家が許されるとしても、緩やかな連邦としてです。

これを「補完性の原則」という。自分らでできることは自分らでやり、それが難しいことについては、少しユニットサイズが大きな行政レイヤーがやり、それでも難しいことについては、さらにユニットサイズが大きな行政レイヤーがやる。

最大の行政レイヤーが国家かというと、そうじゃない。国家がやるのが難しいことについては、国家よりユニットサイズが大きな国家連合がやる。これがEU(欧州連合)の理念です。理念上、国家連合の連合として世界政府が構想される。

逆向きにいえば、世界政府を頼りすぎず国家連合が自立し、国家連合を頼りすぎず国家が自立し、国家を頼りすぎず自治的共同体municipalityが自立すること。依存より自立が大事で、自立の最小単位は個人より自治的共同体(仲間)です。

さらにこれを逆向きに言えば、クサイ言葉でいうと「人間力」を使うということです。仲間の誰が困っているのかを①互いに把握し②互いにケアできる状態にしておく。それを補完すべく、市場や、テックや、レイヤーごとの行政がある。

市場も、テックも、レイヤーごとの行政も、共同体自治の補完装置として機能的に等価です。だから、テック水準があがると行政の出番がさがる。その意味で、さっき話したように、無政府主義と社会学主義の差異は消えつつあるんですね。

真のエリートとはどのような存在か

おおた 聖徳太子は7人だか10人だかの話を同時に聞くことができたと言われていますけど、あれって超能力的な意味での同時リスニング能力があったということではなくて、きっと7人やら10人やらの利害がぶつかり合う状況でも、みんなが納得できる落とし所を瞬時に見出す力に長けていたという逸話だと思うんですよね。彼もトーキングチーフスの役割を担っていたわけですよね。

宮台 そう。「エリート=選りすぐり」という言葉を使うなら、トーキングチーフの能力をもつ者だけがエリートです。これは皆が言ういわゆる「エリート」とは違う。だから「半地下の卓越者」と呼ぶ。指導者じゃなく触媒者だからです。

おおた そういう存在が社会のなかで一定数育たなければいけない。みんながみんなそうなる必要はないけれど。その土壌をつくるためには……。

宮台 まず「同じ世界」に入るための言葉を使うこと。話してきた通り、ロゴスは「同じ世界」に入れない人々をつなぐための言葉です。言語学者のローマン・ヤコブソンはこれを「散文言語」と呼びました。

それに対し、「同じ世界」に入るための言葉を「詩的言語」と呼びました。さっきの初期プラトンを思い出しましょう。詩的言語を操れるひとが「詩人」でした。つまり詩人はトーキングチーフに近いんですね。

詩人だけじゃダメってなったのは、ポリスが大きくなりすぎて内部分化したからです。プラトンが転向したときのアテネは人口24万人。ルソーが示した上限2万人なら、詩人も機能できて、ロゴスじゃなく言外でひとをつなげられます。

僕らは散文言語を使います。複雑な社会に生きるから仕方ない。でも、ときどき「同じ世界」で「一つになる」コミュニケーションをしなきゃダメです。つまり、言葉の外でつながるための言葉=詩的言語を、復権する必要があるんです。

おおた そうですね。

宮台 さもないと永久に「敵は敵、味方は味方」のままです。「日本人は日本人、中国人は中国人」「女は女、男は男」みたくカテゴリーにへばりついてステレオタイプを行使する、ウヨ豚やクソフェミみたいなおぞましい差別主義者になる。

デイヴィッド・グレーバー風にいえば、「中国? 日本? アメリカ? そんなもの、あるの? あるなら、目の前に出してみて。えっ? 出せないの。そんな目に見えない、ワケのわかんないもののために戦争すんの?」ってことです。

「日本のために戦争しまーす、アメリカのために戦争しまーすって、頭が腐ってない? 都合よく動員されてるだけだよ」ってことです。それを映画にしたのがテレンス・マリック監督の『シン・レッド・ライン』(1998年)でした。

反戦映画だと思われがちだけど、反戦か主戦かみたいなイデオロギー対立自体を鼻で笑う視座で作られています。ワニの時間、鳥の時間、森の時間、先住民の時間に、頭が腐った文明人の視座を対置するわけ。毎年のゼミの教材ですね。

なぜ鼻で笑うかというと、言葉で構築された『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリがいう「虚構」に操縦されているからです。その虚構は、人類史的にみれば、人類やあまたの存在の存続可能性に資することが確かめられていない。

改革派神父から社会学者になったイヴァン・イリッチ風にいえば、ワニの時間、鳥の時間、森の時間、先住民の時間は、何万年も続くことで、人類やあまたの存在の存続可能性に資すると確かめられています。存在論的=生態学的思考です。

おおた その「虚構」は、人間がもつロゴスの力によってつくられた、「ロゴスの檻」。人間は自らの力で構築した虚構の中に自らを閉じ込めてしまう。

宮台 でもロゴスがないと大規模定住社会は営めません。ロゴスと結びつくのが形而上学的な虚構です。丸山眞男も「国民国家には虚構が必要不可欠」と言う。その通り。でも、それに支配される奴隷として生きるのはおかしいでしょ。

おおた そうですね。

宮台 ひとは「国家が暴走する」と言う。国家なんて目に見えないものが暴走するわけがない。目に見えないものがあると信じる人間たちが暴走しているだけ。これが「共同幻想」というやつ。吉本隆明がマルクスから引き出した概念です。

しょせん国家はその程度のものです。でも国家がその程度のものだと感じられるかどうかも、実は共同身体性の問題なんですね。子どもはカテゴリーを超えて「同じ世界」で「一つになる」。そのことを忘れた頓馬だけが暴走するんです。

重要なのは「感染」を引き起こす言葉

おおた 社会を維持していくうえでロゴスの力は利用しなければならないけれど、一方で、虚構に支配されることで自分の身体性まで損なわれてしまうのはおかしいよなと気づけるひとが一定数いなければやはり社会は維持できないと。

宮台 そう。別の言葉で言える。僕らが使う散文言語=ロゴスを「表現」と呼ぶ。抑圧(suppress)されていたものを表に出し、相手に印象(impress)づければ、表現(express)の成功。でもこれは相手への新たな抑圧(suppress)になる。

つまりフロイト的にいえば、表現とは、ロゴスによるコントロールです。それがないと大規模定住社会は成り立たない。たとえば大規模定住に不可欠な行政官僚制の文書主義的な統制が成り立たない。でも大規模定住はごく最近の話です。

それより何十万年も前から「言葉の外でつながる営み」がありました。歌と区別された言葉が生まれた四万年前以降も、「言葉でつなげるための言葉」だけじゃなくて、「言葉の外でつながるための言葉」があります。これが「表出」です。

子どもの遊びを想起します。そこでの言葉はエネルギーの発露としての表出(explosion)です。たとえば叫び。他者への印象づけ(impress)の意図などない。ただ叫ぶ。叫びが叫びを澎湃と巻き起こし、「同じ世界」で「一つになる」。

これは、発露されたエネルギー(力)が流れとなって、身体を巻き込む流れです。力の流れへの巻き込みが「ミメーシス(感染)」です。詩人の言葉は、「理解」じゃなく、「感染」を引き起こす。そこでの言葉は、むしろ歌に近いんですね。

再びナンパの話でいえば、ちまたのクソナンパ講座では、女をコントロールする「表現」を、型として教える。劣等感のツボをめがけて承認するとか。女が言葉の自動機械だと、それで舞い上がってトランスになる。営業トークと同じです。

僕のワークショップは違う。営業トーク的な「表現」によるコントロールを全否定する。トランスはトランスでも「同じ世界」で「一つになる」フュージョンです。子ども時代の「黒光りした戦闘状態」で団子になる享楽でトランスになれと。

そこでの言葉は、言外の流れにシンクロするための掛け声です。つまり「表現」じゃなく「表出」。だから、むしろ言葉以外の挙措やリズムが大切になる。当たり前です。言外・法外・損得外へのコールとして機能すれば、何でもいいんです。

確認します。「認知」の反対は、「非認知」ではなく「力の流れ」です。社会システム理論の言い方だと、「動機付け機能と分断された言語」ではなく「動機付け機能そのものである言語」。「力の流れ」を触媒する身体性としての言葉です。

おおた その身体性というのは、一種の能力って言えちゃうんですかね?

宮台 能力です。だから養えます。たとえば森の中で遊ぶ体験を通して「同じ世界」で「一つになる」という共同身体性を養えます。それで本当の祭りと本当の性愛を生きられるようにもなる。だから森のようちえんに意味があるんです。

「文明化」と「高文化化」が多数の問題を生んできた

宮台 正確にいうと、共同身体性の能力は、僕ら全員に共通するゲノムの潜在性です。でも、その潜在性に文化的な「上書き」がなされて、表現型になります。マイケル・サンデルがトロッコ問題を持ち出す理由も、その事実を語るためでした。

5人助けるか1人助けるかの構造が同じでも、5人助けるべく1人殺す進路切り替えレバーを引けるのが7割で、5人助けるべく1人の巨漢を軌道上に突き落とせるのが3割というのは、国や文化に関係ないゲノムベースの割合です。

でも、質問文に巨漢の属性を入れると割合が変わります。巨漢が、男なのか女なのか、大人なのか子どもなのか、白人なのか黒人なのか(この場合は自分が白人なのか黒人なのか)で、突き落とせる割合が変わるということです。

ゲノムを文化が上書きして、突き落とせるかどうかの「感情の越えられない壁」が変わること。これは現在、暴走する自動運転車を、老若男女が並んだ横断歩道のどこに突っ込ませるのかというAIの設定問題として、顕在化しています。

ところで、「文化の上書きには良いものと悪いものがあるんじゃないか」という問題はどうでしょうか。「構築主義」に与する者が育つ最近の頓馬な社会学界隈では、「文化の良し悪しなんてない」と考えてきました。

そんな「文化相対主義」は、あり得ないとするのが、80年代のイリッチの生態学的思考たとえば生態学的フェミニズムや、それのリバイバルとしての今世紀の人類学者エドゥアルド・ヴィヴエイロス・デ・カストロのアニミズム論です。

人類が「言葉と法と損得」に閉ざされて社会を回すようになったのは1万前から始まった定住以降です。当初は歌のような詩的言語が優位だったのが、3千年前から同時多発的な文明化で、統治の必要から書き言葉の散文言語が優位になる。

書記言語よるロゴス化で、自分の反応への反応への反応……という再帰性が可能になって、リフレックス(反応)からリフレクション(反省)への移行が生まれた。エリック・ハブロックとジュリアン・ジェインズがいう「意識の誕生」です。

ヤスパースが「軸の時代」と呼ぶ当時多発的文明化で、定住ユニットを支える共通の生活形式(による共同身体性)に亀裂が生じ、共同体宗教=民族宗教が、個人宗教=世界宗教に移行。個人ごとに違う心があるとする「個人化」も生じます。

そこから、個人の意識次第で、本来はただ一つの物理的自然がどうとでも見えるとする「意識相関主義」が生じ、個人の意識が一定の圏内で一定の傾向を示すことから「文化相対主義」に到りました。人類学者デ・カストロの議論ですね。

他方、個人に所詮は相対的にすぎない文化が埋め込まれる過程が問題化され、コミュニケーションの比較的閉じた圏域である社会が、代理人を使って言語使用のパターンを抑圧的に埋め込む過程が注目されます。精神分析学者の議論です。

フロイトはこの抑圧がもたらす不安の埋め合わせとして「神経症」を概念化、ラカンは抑圧を媒介する代理人の機能不全として「精神病」を概念化しました。いずれも「脳神経機能」と「生きづらさのストレス」の積から症状化するとします。

症状化が内外のパラメータによる「機能劣化」だとすると、生来の脳神経的「機能劣性」として「発達障害」が概念化されます。それを「機能劣性」として見出すのが、適応圧力をかける「社会の眼差し」であるのも最近明らかになりました。

本来は数十冊の本で学ぶべきことだけど、一瞬で圧縮すると、文明化(大規模定住化)と、それに伴う高文化化(「言語・法・損得勘定」への閉ざされとしての個人化とロゴス化)が、こんなにも多数の問題を分泌してきたんですね。

それゆえ人類学者が文明化自体を問題にしはじめたのが世紀末です。分厚い中流が支える人間関係資本に依存する脆弱な民主政の、盤石さを信じ込む頓馬な社会学者と、民主政の改革で何とかできると信じる誠実な政治学者を尻目にね。

90年代前半に科学人類学者ブリュノ・ラトゥールと表象人類学者ダン・スペルベルがほぼ同時に、近代化ならぬ文明化に由来する、「主体である個人が、加工品や表象を製作する」という人間中心主義を、激しく批判しはじめます。

加工品は加工品群を道具として作られる。加工品群の個々の要素も加工品群を道具として作られる。むろん行為する人間をも道具とする。これは無限に遡る。主体でなく、物と身体を等価なアクターとするネットワークだけが「存在」する。

表象は、ひとを培地として直前の表象群から生まれる。個々のひとの意識に関係なく、表象は繁殖し死滅する。歴史的な表象分布をみれば明白だ。万事を人権に回収する動きは、人権表象の繁殖力の強さによる。表象繁殖だけが「存在」する。

ひとは自分を主人と思い込みつつ、大古から増殖し続ける物や表象の生態学的歴史に、媒介として利用されてきただけ。この発想は「小麦は人類文明を利用して遺伝者を増殖させた」とするユヴァル・ノア・ハラリの議論にも見られます。

これが人類学の「存在論的転回」です。フーコーの影響と見られがちだが、違う。ナチス翼賛を批判されてケーレ(転回)して以降のハイデガーの「総駆り立て論」と同じ形。ハイデガーが第1次、世紀末人類学が第2次の存在論的転回です。

「文明の自滅」を食い止めるための道筋は

宮台 後期ハイデガーに遡れば、存在論的転回が示唆する警告も明らかです。有名な木こり論に見るように、駆り立て連鎖に巻き込まれたひとは、誰が誰(何)のために何をするのかについての錯誤的意識に閉ざされ、文明は自滅に突き進みます。

その過程は、資本主義が悪いとか近代が悪いといった生易しいものじゃなく、そもそも文明化の自然過程に起因します。僕の考えでは、宇宙にあるあまたの知的文明の大半が同じ自然過程で自滅します。だから知的文明同士の出会いがない。

自由主義言語学者チョムスキー&気候学者ポーリンの『気候危機とグローバル・グリーン・ニューディール』が言う通り、気候や生態系は大切だと「個人が意識して選択」するだけでは、気候危機は止まらず、やがて文明は自滅します。

根本的処方箋は、イリッチやデ・カストロが言う、持続可能性が担保された「心身の働き」と「集団の生活形式」の積に戻ること。それには「人間中心主義の非人間性」を象徴する文化相対主義を否定、文化絶対主義の立場をとることです。

デ・カストロは、唯一の正しい文化がアニミズムだとします。アニミズムは遊動段階から万年のオーダーで人類を持続させてきた「森の思考」です。ちなみに後期ハイデガーも森に沈潜して存在論的に転回(ケーレ)したんですね。

アニミズムはキリスト者が妄想する「万物に精霊が……」という思考じゃない。ひとが見るように、動植物も無生物も見る(その意味で万物は人間)とする構えです。ひとに見られなくても、万物に見られ、ひとは「自動的に」正しく振る舞う。

進化生物学から派生した進化心理学を加えます。ひとは「何か(誰か)に見られないと狂う」ように進化しました。道具や言語を生み出す前提になった個体の圧倒的弱さが、何か(誰か)に見られてちゃんとするゲノムを生き残らせたんです。

ユダヤ教と違い、イエスが育ったガリラヤは緑なす大地。ユダヤ教と違い、主なる神は這いつくばって救いを引き出す取引相手じゃなく、いつも見ている存在。見て下さるだけでちゃんとできる。それが「神はいつも隣におられる」です。

ひとは「何か(誰か)に見られないと狂う」。でもひとは集団で暴走する。現に言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシーン化でそうなった。ひとの見る力では足りない。存在する全てから見られている。そう感じて初めてちゃんとします。

学問で言えば、バタイユの「呪われた部分」にシンクロしますが、ラカンはシニフィエによる抑圧を問題にして万人が神経症だとし、シニフィエつまり「言葉のラベル」を横に置き、シニフィアンの群れに適切に反応するのを良しとします。

生態心理学が発達した今日、シニフィアン群に適切に反応するための、シニフィアン群からなる天球儀の座標=シニフィアン・ゼロは、「存在する諸事物のすべて(万物)からなる単一の世界を生きている」という身体的な確信だと言えます。

フロイトによれば自我は、「環境の直接性」と「反応の極端さ」から個体を守るべく進化した、「言葉のラベル」で組み上がった自己現象です。でも、文明化を背景にそれがランナウェイ(暴走)し、文明を自滅させる。見田宗介の考えです。

他方、僕らは正しく言葉(ロゴス)を使えと訓練される。でも言葉は本来ひとりずつ違う。正しい言葉遣い(ラベル貼りと運用)があるとの観念がひとを抑圧し、存在しない「日本」や「アメリカ」が、あるという自明性に縛りつけます。

でも、言葉(とそれを前提とした法と損得勘定)に向けた抑圧は、必ずそれを破壊する営みの享楽を生み出します。フロイトの「超自我」のメカニズムです。その享楽を利用して「力」を回復するのが、話してきた祭りと性愛でした。

ところが、まず祭りが、次に性愛が、消去されます。これだと抑圧による不安から永久に解放されない。そうなれば「超自我」は持続できない。となれば「言葉と法と損得勘定」で回る文明社会も破壊される。文明の自滅のメカニズムです。

あらゆる学問を激しく学ぶと異口同音だとわかります。処方箋を確認すると、デ・カストロがいうアニミズムを含めて、「人間中心主義の非人間性」から「脱人間中心主義の人間性」にシフトし、「正しい文化」を回復することです。

「個体発生は系統発生をくり返す」が糸口です。いまでも子どもは、クソ社会への適応優位のクズ親に囲い込まれて「不安な自動機械」の大人になる前までは、「言外・法外・損得外」の「同じ世界」で「一つになる」能力をもちます。

だから、クソ社会に適応させようとするクズ親から、子どもを奪還し、子どもの個体発生の初期段階が指し示してくれる、人類の系統発生の初期にあった「正しい文化」を、子ども「に」学ぶことで、大人「が」取り戻していくんですよ。

森のようちえんが持つ真の社会的意義

おおた 人類が言葉に抑圧される前の状態を、幼児期に追体験するということですね。

宮台 援交フィールドワークの延長上に見出した若者の著しい性愛的な身体性の劣化がきっかけで、僕はこれらを認識するようになりました。特に劣化が激しい若者がどう育ったのかを調べるうちに具体的メカニズムもわかってきました。

だから、僕は性愛の議論をたくさんするし、その成果としてできた本は皆に読んでほしいけど、単なる性愛の本としては読んでほしくないんです。性愛に表れている僕らの劣化が何を意味するのかを理解するためにこそ読んでほしいです。

劣化の具体的メカニズムが示すのは、「劣化からの回復には、森のようちえん的な環境や大人の関わりが必要だ」ということです。子どもがコントロールされずに人間や物とフュージョンする時空です。

森にいると中動態的に内から湧き上がる「力」によって動き回れること。森に動かされて森に向けて動くこと。この「力」をエネルギーや気とも言えるしバーチューとも言えます。「学習的適応」の優位に抗う「価値的貫徹」の志向の源です。

おおた そういうことなんです。森のようちえんも、ただ自然科学に詳しくなるねとか、エコな気持ちが育つねとか、そういうことではありません。

宮台 おおたさんが里山の意味について触れてくれたので、補足します。ユダヤ・キリスト教圏の文化は、神の罰に脅える強迫性障害を被っているので、万物(ピュシス)学とメタ万物(形而上)学を明確に線引きするクセがあります。

たとえばキリスト教神学には自然神学を神経質に排除してきた歴史があります。ひとを見るのは神だけ。神を見るのはひとだけ。人類史上、これは非常に特殊であると同時に、ニーチェがそれを「症状」だと見たように、やや滑稽な文化です。

話してきた通り、人類はもともと言葉の外でつながるために言葉を使いました。森とひとが相互浸透する里山は、言葉の外でつながるための言葉を使う場所です。そうしないと生きられないからです。それが里山とは何かを示します。

森と都市を明確に区別するヨーロッパだと、都市は「言葉と法と損得」で動くロゴスだけの場所で、バカンスでピュシスの森でレクリエーョンする発想になります。これだと「週末のサウナ」よろしく、森が都市での閉ざされを支援します。

むろんこれは理念型で、ヨーロッパにも里山と機能的に等価な場所があり、いまを比べればむしろ日本で里山的機能が失われています。森と結びつく生業を皆が営むことで、言外でつながる言葉を日常に使うのが「里山的」だと確認します。

おおた さきほどヨーロッパは一神教でという話をされていましたが、逆に言えばそれ以外の多くの地域ではアニミズム的な宗教観を前提にしているととらえていいんですかね。

宮台 そう。たとえばゲルマンや北欧には「森の思考」つまり森と結びついた自然哲学があります。エコロジーのルーツであるナチスの生態学的平等主義──人殺しはダメというお前は朝ベーコンを食べただろ──もそのつまみ食いです。

その話は面倒だからしなかったけど、流れからなるピュシス(万物)と、ロゴスからなるノモス(法共同体)をわける二元論──土が血を育てる──がつまみ食いの背景です。里山にはこの二元論はなく、土は血であり、血は土なんです。

ナチスの自然哲学はアニミズムの「万物が見る」を抜き去ります。万物に見られる構えがひとをカテゴリーから解放するのに、これを抜き去るからカテゴリーに出鱈目なステレオタイプを結びつけるおぞましいユダヤ差別に帰結しました。

「ひとだけが見る」のなら、ひとはカテゴリーとステレオタイプに閉ざされます。「動物も見る」のであれば、「ジャガーにとっての人の血は人にとってのマニオク酒」という言葉のラベルの転倒が可能になる。それが力を与えるんですね。

おおた うん、うん、そうですよね。

宮台 いろんな事物に見られるので、いろんな事物の視座をとれること。それで力が湧きます。ジャガーになりきり、鷹になりきり、樹木になりきりながら、それでもひとに戻れることで、ひととしての力が湧くんです。

性愛もそう。異性愛でいえば、男が女になりきりながら男に戻れることで、力が湧き、女が男になりきりながら女に戻れることで、力が湧く。祭りもタブーとノンタブーを反転する「元に戻れるなりきり」によって力を回復する営みでした。

言葉と法と損得に閉ざされた新住民の「安全・便利・快適」至上主義で、真の祭りは失われたけど、それでも最近まで「元に戻れるなりきり」で力を回復する「言外・法外・損得外」に展開する性愛の時空がありました。

いまも性愛は辛うじて残った「言外・法外・損得外」の時空です。「言葉・法・損得」の時空である社会と、「言外・法外・損得外」の時空である性愛が、直和分割されるものだという感覚がまだ一部に残っているんです。

とはいえ、性愛の時空に、「俺は社長だ」「いよいよ部長だぞ」みたいな地位自慢で、社会の時空を持ち込む男がどんどん増え、カテゴリー主義=属性主義のマッチングアプリがそれを加速しているところですね。

おおた いや、普通にいそうですけどね(笑)。

宮台 「僕は東大で、こんなにロジカルで頭がいいから、君は僕をリスペクトして、性愛的に僕を許容しろよ」とのたまう男がうようよ増殖中だけど、すぐに死んで生まれ直したほうがいい。僕は「即死系」と呼んで、徹底的に差別します。

「言外・法外・損得外」に開かれた最後の時空という点で、性愛の時空とともに辛うじて残っているのが、森の時空です。だから、性愛の時空の擁護と、森の時空の擁護が、僕の実践の両輪になります。だから、おおたさんとコラボします。

おおた 私は森のようちえんを取材して、その意味を考え、本にまとめたことで、宮台さんが性愛の時空を擁護する意味が、実感として理解できるようになりました。森も性愛もピュシスですからね。

だから今回のこのイベントにおける私の役割は、「宮台さんがいつも一生懸命世の中に伝えようとしていることは、性愛そのものの価値ではなくて、性愛の先にある、性愛を超えたもっと大きなものの価値なんだ」と伝えることだと思って今日の準備をしました。

その「もっと大きなもの」をラカン的には「享楽」と呼ぶのかもしれません。ピュシスの手触りを知らないと享楽には触れられない。

相対的な快楽は世の中の諸条件によって変わってしまうけれど、絶対的な享楽を感受できる人間は、世の中がどうであろうと幸せになれる。その幸せの実感をもとにして、他人をも幸せな流れに巻き込むことができる。

森のようちえん的なアプローチから、現代の人間が失いつつある享楽に対する感受性を回復する道が開けるのではないかと私は考えました。宮台さんはずっと前から、性愛の時空から同様のアプローチを試みてきたということですよね。

そのことが今日、みなさんにもはっきりとおわかりいただけたのではないかと思います。

言葉に囚われるとロゴスさえ使えなくなる

宮台 性愛の統計だと、性交経験率は男女同じだけど、恋愛稼働率はどの世代でも男は女の半分で、交際未経験率はどの世代でも男は女の倍。男に尋ねると、「コスパが悪いので」「リスクマネジメントできないから」と返してきます。

恋愛が損得勘定で考えられているんですね。性愛が、享楽という絶対性じゃなく、快楽という相対性でイメージされている。性愛に限らず「同じ世界」で「一つになる」ことが与える眩暈は、比べられないものであるはずなんだけど……

おおた そこでじゃあやっぱり、原体験としての森のようちえん的な体験がないと限界があるぞと思われたということですよね。

宮台 そう。他方で、女も20数年前のピークに比べると、恋愛稼働率がかなり下がりました。理由を尋ねると、「男と何度か恋愛したけど、クズぶりに懲りた」と答えます。そこから、男女の性愛感にかなり違いがあるのがわかります。

相対的に言えば、男は既に、性愛の時空を「言葉と法と損得」からなる社会の時空に繰り込んじゃっていますが、女はまだ、性愛の時空を「言外・法外・損得外」としてイメージしているってことです。

男は哀れだよね。定住が祭りと共にあったのは、「言葉と法と損得」からなる社会の時空は仕方なく「なりすまして」生きるものだ、という感覚があったからです。90年代までに全国の主要な祭りを回って、そのことがよくわかりました。

その感覚があるから、祭り同様、性愛の「言外・法外・損得外」の時空を生きてきたんです。祭りが消えたいま、性愛を「言葉と法と損得」の時空に繰り込んじゃったら、生きづらくて当たり前。実際、ひきこもりも孤独死も男が圧倒的です。

そもそも言葉なんてどうでもいいじゃんね。僕が論争に強いのは、言葉なんてどうでもいいと思ってるからです。言葉ごときに実存を賭けちゃうから、負けるのが恐くて論争で固まるんです。それだとロゴスさえ使えなくなっちゃいます。

「ロゴスを自由に使える前提はロゴス以前のレンマに開かれていることだ」と喝破したのが哲学者の山内得立。レンマとは、先取りされた言外の全体性です。論争に勝ちたければ、ロゴスの力だけ鍛えてもぜんぜんダメなんですよ。

80年代に一斉を風靡した、日本で自己啓発セミナーと呼ばれたアウェアネストレーニングでも、それを最初に学びました。相手が語るテクストじゃなく、相手にそれを語らせているコンテクストに、注意をフォーカスするってことです。

ちなみにアウェアネストレーニングは、ベトナム帰還兵による凶悪犯罪の続出に対処して、ジャングルでの戦闘に最適化された心の枠組みを、日常を生きるための枠組みへと書き戻すために開発されたものです。

書き戻しの過程で重視されるのは、自我が、言葉で構築されたフレームに閉ざされていることへの、気付き(アウェアネス)です。このフレームは、流派によってストーリーとかゲシュタルトとか神経言語プログラムとか呼ばれます。

具体的には離陸・混融・着陸というイニシエーション(通過儀礼)の三段階を使って古いフレームを新しいフレームに書き換える。そのために一度フレームの外に立つ。それが「テクストからコンテクストへ」「ロゴスからレンマへ」です。

これをオウム真理教のようなカルト集団が洗脳手法に使ったので、90年代後半までに社会から放逐されたけど、このトレーニングを受けると、瞬時に「テクストの外=コンテクスト」「ロゴスの外=レンマ」に立てるようになれます。

おおた 僕は仕事柄ロゴスに頼ってしまうことが多いので、身につまされますけれど、もともとそういう身体性みたいなものを我々はもっていて、そのポテンシャリティを担保して、豊かな原体験とすることによって、社会の劣化、感情の劣化を食い止めるためのリソースになるわけですね。

「ひとを幸せにできるやつになれ」

宮台 受験で偏差値60の学校に入るか65の学校に入るかって、そんなに重要かな。おおたさんは受験の本も書いているし、その真意を僕はよく知ってるけど、やはりほとんどの親が問題の重み付けを間違えちゃうんですね。

受験なんて小指の先で片付けて、友達との遊びや恋愛の営みに時間を使うためのものが、受験技術。僕は、東大受験のときに、一日四時間以上は勉強しないと決めました。若い頃に時間の大半を受験に費やせば、キモいやつに堕落します。

90年代半ば、おおたさんとの共通の母校・麻布で講演した際、事後にお母さん会で「皆さんが女子高生だとして、息子さんと付き合えますか」と尋ねたら、全員「無理!」だと。「なぜ?」「キモイから」。いったい誰を育てているんだよ!

おおた 息子としてはかわいいけども、男としてはキモいって。それじゃあ、何のために育ててるの?という。

宮台 お母さん方は、「薄々わかってるんですが、他にどうしたらいいかわからなくて」と言う。そこがお父さん方と違った優位性ではあるけど、どうしたらいいかといえば、「森のようちえん的な営み」にできるだけ時間を使うってこと。

おおた そろそろ時間なのでまとめます。クソ化していく社会のモノサシに子どもを当てはめるんじゃなくて、子どもの共同身体性を殺さないようにする。それを特に幼児期のうちには存分に発揮できる体験をさせてあげるべきだという話ですね。

宮台 今日はロゴスに頼らない言葉遣いをしています。いろんなひとが聞いておられるので。くり返すと、子どもに接する際も、性愛の相手に接する際と同じで、「コントロールのための言葉から、フュージョンのための言葉へ」です。

おおた そうなんですよね。

宮台 「同じ世界」で「一つになる」ための言葉。営業マンやナンパ師を見れば、ひとは言葉で簡単にコントロールされて合意しちゃうのがわかる。「気が付いたら不本意」とならないためにも、「言葉の外への開かれ」が不可欠になります。

おおた すごくヒントになりますね。どうしても子育てしてると、「子どもをこうするためにはどういうふうに言葉を使ったらいいんでしょうか」ってコントロール系に発想がいくんだけども。親子で同じ世界に入っていくことをイメージすればいい。

宮台 子育てについての目標混乱があるんです。『14歳からの社会学』に書いたけど、「どんな大学に入ろうが、どんな仕事をしようが、ひとを幸せにできるやつになれよ」ってことでいいじゃん。まともな目標設定から始めてください。

※本記事は2022年1月10日(月)に本屋B&Bで行われた『ルポ森のようちえん SDGs時代の子育てスタイル』(集英社)刊行記念イベント「『日本の劣化』を食い止めるカギは『森のようちえん』にある!?」の内容を一部再構成したものです。こちらのイベントについては2023年1月10日(火)まで、以下のページでアーカイブ動画が販売されております。
https://bbarchive220110a02.peatix.com/

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