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漫画家・本宮ひろ志のベスト歴史マンガを探る

集英社オンライン / 2022年8月26日 17時1分

昭和、平成、令和と時代を超越して傑作マンガを描き続けてきた漫画家・本宮ひろ志氏。半世紀以上にわたり描いた作品数はゆうに120を超える。そんな本宮作品には、歴史を描いた傑作マンガが多い。

本宮作品歴史マンガの懐の深さ

漫画家・本宮ひろ志氏が『遠い島影』でデビューしたのは1965年。当時の日本は高度経済成長時代の真っただ中で、前年の1964年に東京オリンピックが開催。その好景気の余韻が漂っていた時期だ。以来、半世紀以上、本宮氏のマンガは何度もブームを巻き起こし、読んだ人の人生に大きな影響を与えてきた。

その数々の作品の中でも、あなたの一番好きな本宮作品の歴史マンガは何ですか!?

どれかを選ぶなんてとてもムリ。人それぞれのベストがあるのは承知の上だが、この記事では「本宮作品歴史マンガ編」として、あらためてふり返りたいと思います。



本宮氏は、初期から歴史マンガに挑んでおり、初の連載にしてアニメ化もされた大ヒット作『男一匹ガキ大将』(1968)の次作が、『武蔵』(1972)だった。あの剣豪の宮本武蔵だ。武蔵は戦国時代の終わり、江戸時代初期の人だが、本宮氏は幕末や明治、そして昭和まで、さまざまな時代のさまざまな人を取り上げてきた。

しかし「本宮作品歴史マンガ」というと、まず中国史を描いた作品を思い浮かべる人が多いのではないだろうか?

そう、『赤龍王』(1986)。始皇帝が没し、秦帝国が滅びゆく中の、項羽と劉邦の戦い・楚漢(そかん)争覇。を描いた作品だ。中国史はやはりスケールが大きい。項羽という人は、「自分の懐に飛び込んできた人は殺せない」という純真なところがあるが、抵抗した都市の住民を何十万人も埋めてしまうような残虐なところもある。日本であれば一向一揆を焼き討ちした織田信長でさえも、そこまではやっていない。

もうひとつ、漢帝国の太祖となった劉邦は、もともと沛県のならず者だった。項羽のように個人としての戦闘力はないし、指揮官としてもイマイチ。吏才などは最初から持ってないし、政治家としてヴィジョンがあるわけでもない。

いわばカラッポな人間なのだが、その「空虚」の器がなんともでかい。でかいゆえにどんな人も自分の夢を彼に託してしまう。だから、あの范増(はんぞう)を使いこなすことができなかった項羽に対して、劉邦のもとには盧綰(ろわん)のような政治家や張良のような名軍師など、とにかく人材が集まった。

日本でいえば足利尊氏タイプかと思うが、尊氏は名門出身。そもそも日本では血統が重視されるので、劉邦のように庶民からトップに上り詰めた人は、豊臣秀吉か、あるいは昭和の田中角栄ぐらいか。

本宮氏の『赤龍王』はそうした、見たことのない英雄の姿を日本の若者たちに見せてくれた。今でも劉邦や項羽というと、本宮氏の絵柄で顔が浮かぶ人は多いだろう。筆者などは黥布(げいふ)もそうだ。

信長が世界統一をめざす

一般的なマンガの主役はデフォルメして描かれたキャラクターであって、写実的なものではない。そのためマンガは「人間の欲望を全面的に肯定する表現」という特徴を持った作品が多い。しかも映画と違って、どんな巨大なスペクタクルでも、ペンで生み出すことができる。だから筆者などは「とんでもない大風呂敷こそマンガならでは」と感じるところがあるのだが、その意味で尊敬する作品が、本宮氏の『夢幻の如く』(1991)だ。

こちらの主人公は織田信長だ。「信長がもし、本能寺で亡くなっていなければ……」とは誰もが考える「歴史のイフ」だが、『夢幻の如く』では、なんと明智光秀の謀反を生き延びた信長がアジアを制し、ヨーロッパにまで攻め込むのである。

読む人をとんでもない想像力で遠い世界まで連れていってくれる。マンガファンとしては「ありがとうございます!」と、うれしくなってしまう。

「読む人の想像を、はるかに超える想像力」といえば、"本宮流三国志"『天地を喰らう』(1983)もスゴイ。「天に愛された人物」という言葉があるが、この作品は、まさに諸葛孔明と劉備玄徳が、天界に昇り竜王の娘たちと愛を交わすところからはじまるのだ。それを成した男は、どんな野望でもかなうという。

孔明が望んだものは「自然の法則を知る智力」。劉備の望みはどんな豪傑に対してもビクともしない肝っ玉。ところが、劉備の相手はすでに人間の男と契っていた。曹操孟徳だ。しかし劉備は呑邪鬼の肝を喰らい、天も地も喰らうほどの肝っ玉を手に入れた。

時代は乱世。「黄巾の乱」のただ中だが、黄巾賊の首領である張角の正体は魔界の王・幻鐘大王だった。世の乱れはついに森羅万象のバランスを崩し、すべての命運が劉備に託されることになる。

歴史を超えた本宮思想のスペクタクル

この『天地を喰らう』の世界観を継承した、というわけではないのかもしれないが、さらに度外れた、巨大なイマジネーションが展開される作品が『雲にのる』(1988)だ。このマンガのストーリーは、ただひとりの男の旅をテーマに描かれている。しかしその旅がとにかくでかい。

その男、仁王丸は、飛行機事故の生き残り。となると舞台は現代で「歴史マンガじゃないじゃないか!」という話になるのだが、この作品では悠久の時間を生きる人物たちを描いている。

仁王丸は吽仁王に拾われて、息子として育てられた。やがて彼は本能に命じられるままに、東方にいる仏の宇宙の中心にある、須弥山を目指して旅をはじめる。須弥山には仁王丸の妹・マーヤがいた。

いっぽう須弥山の頂上にある帝釈天の館には、宇宙のバランスを保つ戦闘部隊・天部の神々が集結していた。彼らにもたらされた知らせは、仏の意志。「もはや人に神々は必要ない。もし仁王丸が須弥山に登ってくることができたなら、すべての神々は地球を中心とする宇宙から立ち去れ」という言葉だった。しかし帝釈天は仏と袂を分かち、仁王丸の旅に立ちはだかる。

森羅万象は宇宙の保たれたバランスの中にあり、人間もまたそのバランスのもとで生まれた。だから人間の本能、つまり欲望も、その大もとは宇宙から来ている。人間性の大肯定。この作品はいわば"本宮思想"の究極スペクタクル。壮大で、激しく美しい仏教世界が展開される。

そして、新たな連載がスタート

森鴎外の言葉を借りていうならば、『夢幻の如く』や『天地を喰らう』などの作品は、作者の想像力によって飛躍した「歴史離れ」の物語。いっぽう本宮氏には、史実に基づいた「歴史其儘(そのまま)」に寄った作品もある。

『猛き黄金の国』(1990)もそのひとつで、主人公は岩崎弥太郎。土佐藩の地下浪人(郷士の株を売ってしまった武士)出身で、幕末に頭角を現し、明治になって三菱財閥を築いた人物だ。彼は「志士」たちがイデオロギーに熱狂した時代に、あくまで自分の「根」を見失うことなく、大きな実りを成した。このマンガはそうした弥太郎の物語であるのと同時に、「経済」という地に足のついたリアリズムから見た幕末史、明治維新史でもある。

『猛き黄金の国』シリーズでは、その後も伊能忠敬や二宮金次郎といった人物が描かれ、読者としてありがたいことに、現在も新作が発表されている。2022年7月より『グランドジャンプ』にて、明治の経済人である由利公正の物語がはじまった。

その数々の作品をふり返り、与えた影響の大きさを考えると、圧倒される思いだ。歴史に向き合い、ときには巨大なスケールで飛躍する。本宮氏の作品は、きっとこれからも僕ら読者を、想像を超えた世界に連れていってくれることだろう。

文/堀田純司

©本宮ひろ志/サード・ライン
©本宮ひろ志/集英社

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