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役所が意図的に作りだす「原発のフィクション」をいかに暴いていくか? 【日野行介×尾松亮】

集英社オンライン / 2022年9月14日 10時1分

岸田文雄首相が8月24日、ロシアのウクライナ侵攻による「エネルギー危機」に乗ずる形で、さらなる原発再稼働や新増設を進めていく方針を明らかにした。再稼働を予定している原発の中には、避難計画の策定が危ぶまれている日本原子力発電の東海第二原発も含まれており、突然の発表に戸惑いの声が広がっている。国民を欺いて一方的に進められる原発行政の本質とは?

原発行政が作り出す虚構(フィクション)

原発行政を冷徹に見つめ続けてきたジャーナリストの日野行介氏と、ロシア研究者の尾松亮氏は奇しくもこの8月、それぞれ『原発再稼働 葬られた過酷事故の教訓』(集英社新書)と『廃炉とは何か ―もう一つの核廃絶に向けて』(岩波ブックレット)という新著を発刊した。国民を欺いて一方的に進められる原発行政の本質と、それがもたらす被害についてこの二人が語り合った。



日野 尾松さんの本を読んで、私は自分の本を読んでいるかのような感覚になりました。長いコロナ禍の中で、月1回とか、多いときは週1回も一緒に走っていましたので、その間ずっと話しているというのもあって、何か書き方が似てきたかのように感じました。

日野行介(ひの・こうすけ)1975年生まれ。ジャーナリスト・作家。元毎日新聞記者。社会部や特別報道部で福島第一原発事故の被災者政策、原発再稼働をめぐる安全規制や避難計画の実相を暴く調査報道等に従事

尾松 以前に共著(『フクシマ6年後 消されゆく被害 歪められたチェルノブイリ・データ』=人文書院)を書いたときに、私は論文とかを書いている研究者のスタイルで、明らかになったことを論理立てて説明していく書き方をしていたんですが、編集者から「日野さんみたいな形で、自分がどういう問題意識を持って、どういうプロセスを持って明らかにしていったのかということを、順序立てて書いてほしい」と依頼されました。私自身が日野さんの読者でもあったので、それ以降、読者に自分が明らかにしてきたプロセスをたどってもらうことで、問題意識を共有しながら進めていくということで、意識的にちょっとマネをしたというところはありますね。

――なぜ原発再稼働をするのか、また政府や東電は「廃炉には40年かかる」などと言っていますが、どこにその根拠があるのか疑問に思っていて、それを追及していきたいという共通の思いが、お二人にはあると感じました。

尾松 そうですね。政府の原発事故対応とか原発行政が民主主義を壊していくことの恐ろしさに対して、記者として、あるいは研究者として迫れるかという問題意識が我々にはあります。原発がなぜいけないのか、被曝による健康影響の有無とかの議論に関して否定するわけじゃないですけど、なかなか一対一関係で因果関係って証明できるものじゃないし、その問題設定ではむしろ「被害者が証明しないと補償されない」というエンドレスな水かけ論に持ち込まれてしまう。それよりも政府とか行政、加害企業の側の情報戦略みたいなものに、より恐ろしいものがあるんじゃないかという意識ですね。その仕組みを浮き彫りにすることが重要というか。

尾松亮(おまつ・りょう)1978年生まれ。東京大学大学院人文社会研究科修士課程修了。モスクワ大学文学部大学院留学後、民間シンクタンクでロシア・北東アジアのエネルギー問題を調査。2019年より民間の専門家、ジャーナリストによる「廃炉制度研究会」主宰

日野 そうですね。役所がフィクションを作って、そのフィクションの土俵に連れ込んで闘っているように見えます。それによって「民主主義が壊されている」という問題意識が、私も尾松さんと一致しました。

再稼働にしても廃炉にしても、フィクションは大きくなればなるほど、これをフィクションと証明するのは難しいんです。ところが、フィクションに対して、いわゆる反対派の人々は「それはフィクションだ」と反論するだけで、延々と水かけ論をしているように感じました。

これは私が記者だからですが、「調査報道によって、意思決定過程を暴いていくことによって、役所が意図的にフィクションを作っていることを立証できるのではないか」と考えました。

今回、尾松さんの新著を読んで、「あっ、尾松さんもご自身のやり方で原発のフィクションを証明している」と感じて、少し変ですが、嬉しかったです。私は意思決定過程を暴くことによって、フィクションであることを証明しているんですけど、尾松さんは自身の語学能力と原子力の知識を駆使して、海外の文献などと比較することによって、日本の行政のフィクションぶりを浮き彫りにしていると感じたんです。

避難計画によって再稼働の意思決定に巻き込まれる範囲が拡大

尾松 日野さんの言っていることはよく分かるんですけど、その言い方だとうまく伝わっているか不安があります。「原発避難計画がフィクションだ」ということは、ジャーナリスト、原発反対の市民運動の人たちも言っていて、フィクションということは当たり前、自明です。

これまで、「避難計画のルートを実際に車で走ってみると、橋がこんなに狭くて、ここで渋滞が起こったら避難できない」とか、「避難訓練をやってみたら、とても目詰まりが起こってできない」みたいな報道は今までもあって、「避難計画に実効性がない」とか、「絵に描いた餅だ」ということをひたすら指摘していく。それはそれで必要だと思うんです。30キロ圏を広域で避難させるなんていうことは不可能だというのは、ちょっと想像すれば分かるわけです。

日野さんの調査報道はそれが不可能だと改めて言ったということじゃないんですよね。日野さんの調査報道のすごさは何かというと、30キロ圏、そして受け入れ先を含めれば何百キロ圏みたいなレベルでの自治体に、避難計画という、どうやったって不可能な計画が義務づけられて、それをとにかく自治体の業務として職員たちは作らなければならなくなった。そこに不備があると、「●●市は何やっているんだ」と言われてしまうから、フィクションになることを分かりつつ避難計画をつくっている。全国の役所の小役人たちが、避難計画が完成したように装う猿芝居に加担させられているという状況を暴き出した、ということだと思うんです。

これまでも原発の立地自治体が原発再稼働に加担してしまう構造や、立地自治体だから経済的に依存して共犯関係になる、ということは言われていたんですけど、その共犯関係が立地自治体だけではなく、この辻褄合わせの避難計画を作っていく過程で、30キロ圏内の自治体、さらに避難者を受け入れる30キロ圏外の自治体にまで共犯関係が拡大している恐ろしさを初めて暴き出した。

こういうフィクションづくりの共犯関係の暴き方って、今まで日野さん以外やっていないんですよ。避難計画の策定を通じて広域自治体を原発再稼働、原発政策の加担者にしてしまう恐ろしさを、フィクションと知りながらフィクションを作らざるを得ない人たちの姿を通じて、暴き出しているということですね。

日野 書いた私自身よりも分かりやすく意義を説明していただきました(笑)。本当にありがたいです。まさしく尾松さんの言う通りです。この構図について、原発避難の研究を続けている広瀬弘忠先生(東京女子大名誉教授、専門は災害リスク学)は、本書に掲載したインタビューで、あこぎなセールスマンがドアの隙間に足をねじ込んでしまう、「フット・イン・ザ・ドア」と表現しています。

――ドアを閉められる前に足を差し入れると。

日野 そうです。住人はセールスマンを追い払うため、要らないけれども物を買ってしまうわけです。30キロ圏外の自治体にしてみると、「嫌だな、そんなの何でしなきゃいけないんだ? もしかして地震があったら自分たちの市民だって避難しなきゃいけないのに、何でよそから避難者を受け入れなければいけないんだ? そもそも仕事が増えて面倒だ」と思っているんです。でも、そこでウソを使って受け入れさせるわけです。

仮に首長が原発反対、再稼働反対であれば、「避難計画が再稼働の前提だ」とハッキリ位置づけられていたら、協力できないはずです。でも、「再稼働とは無関係」と装われてしまうと、協力せざるを得なくなる。そしていったん避難計画に協力してしまうと、避難計画ができて、いざ「再稼働します」となった時には、もう反対できません。「避難計画、受け入れるって言っただろ」「協力するって言っただろ」となってしまう。避難計画は本来、再稼働の前提なんです。「避難計画がなければ再稼働できない」というのは自明の理なんですが、その関係性を国は示していないわけです。むしろ逆に「そこに核燃料があるから、再稼働するかはさておき、避難計画はつくらなきゃいけないでしょ」と言っている。その時点で「運転中の原発はリスクが格段に高い」というフクシマの教訓を勝手に無視しています。

そうやってウソや隠ぺいで、国民の望んでいないことをゴリ押しするのが原発行政の特徴です。原発避難計画には、この特徴が端的に表れています。

さらに言えば、国や再稼働したい自治体にとっては、本当は避難先が確保できていなくても、まともな避難計画でなくても構わないわけです。なぜかと言えば、避難計画は再稼働のための手続きに過ぎないからです。避難計画が存在すればいいのであって、本当に使えるかどうかは関係ない。ここでもフクシマの教訓が無視されています。避難計画がなかったから混乱したので、今後はちゃんとつくりますって言ったのに、「計画があればいいんだろ」となっています。

尾松 私は、米国やロシア、ウクライナなどスリーマイル、チェルノブイリという原発事故を体験した国での被害者補償制度とか、廃炉に向けた原子力防災制度の比較から、日本の問題を見ています。

米国の場合もスリーマイル原発事故を受けて、10マイル圏(16キロ)にEPZ、「緊急時計画ゾーン」というのが設定されていて、原発稼働の前提として緊急時計画をつくらないと、規制委員会が稼働のお墨つきを出さないんです。ところが日本と違って、計画をつくる義務は自治体ではなく事業者にあります。福島第一原発事故後、日本の官僚たちは、米国の制度をつぶさに研究しているはずなんです。けれども、日本では計画の策定義務を、事業者ではなくて自治体に負わせたわけです。

日野さんの本を読んで改めて気づいたのですが、立地自治体だけではなく、受け入れる側の自治体も「絵に描いた餅」をつくる共犯者に仕立て上げられてしまう。自分たちも追及されたくないから、情報隠しに加担し始めてしまうんです。こんな共犯者を増やすような制度をどこまで意図的につくったのか、結果的にそうなったのか分からないけれど、米国との比較から日本の原発行政のひどさが見えてきた気がします。

地方自治体も隠ぺいとウソの共犯者に

――自治体が加担してしまう、一緒になって隠すというのは、たとえばどういうことでしょうか。

尾松 隠すっていうと、日野さんの本で言えば、避難計画の中で、「体育館の面積を2平方メートルで割って機械的に避難所の収容人数を割り出しているだけ」という実態があるんですが、自治体はそのことを明らかにしていません。それを暴かれてしまうと、その部分だけは公開するけれど、ほかで同じような事例があっても公表しないんですよね。

日野 一度でも秘密を共有してしまうと、地方自治体は一緒に隠さざるを得なくなります。私の本の第七章で、非公開の会議で、国の担当者が「絵に描いた餅」の避難計画に「お墨つき」を与えている場面があります。2014年に避難先となる埼玉や千葉などの担当者を集めて、「今から避難計画をつくりますよ」「今から茨城でもやったような避難所の調査をしますので協力してください」と求めた会議です。

そこで、埼玉県の担当者が「この避難所の学校は駐車場の台数でいったら50人ぐらいしか入らないけど、体育館の面積だけで機械的に計算したら1000人ぐらい入る。この場合はどっちにするのか」と尋ねたところ、内閣府と茨城県の担当者は「機械的にやってください」と答えるわけです。みんな車で来る想定ですから、駐車場に止められない人は入れなくなるので、全く無意味なんですが。でも、そこで一旦受け入れて、秘密を共有してしまったら、共犯者にならざるを得ない。そうやって共犯者がどんどん増えていくんです。

――その後は秘密も増えていって、さらに告発ができないようになっていく。

日野 そうです。第五章で、避難計画を策定する茨城県ひたちなか市の担当者を問い詰めるシーンがあります。受け入れ先の茨城県小美玉市というところが当初2万人ほどの収容人数だったのが、体育館のトイレや玄関など避難に使えない面積を取り除いて調べ直したら、1万人ぐらい減ってしまった。ひたちなか市の担当者もそれを知っているわけです。しかし、「何で1万人も減ったんですか、半分になったんですか」って尋ねたら、「学校統廃合じゃないですかね」とウソを答えるわけです。

――学校統廃合? 学校が減ったと。

日野 1つの小学校の体育館で受け入れられる人数って大体500人ぐらいです。「ということは、20校も減ったんですか?」と追及したら、担当者は渋々といった様子で、過大算定だったことを認めました。過大算定がバレないよう、収容人数が減った原因を学校統廃合とする公式見解が自治体間で共有されているとしか思えませんでした。そうやって隠ぺいとウソが共有されていくんだな、と。

恣意的に誘導されたアジェンダ・セッティング

尾松 話を戻すと、原発避難計画と再稼働の是非という議論の中で、「実際にそのルートを車で走ってみたけど、渋滞が起きたら避難できないから再稼働反対だ」という闘い方もあると思うんですけれど、それだと、「避難の実効性が現実的に担保できるのか」という議論で闘わせられてしまう。これは、住民の危機意識を喚起する意味では重要な指摘です。でもそれは再稼働したい側からすると、痛くもかゆくもないわけです。「絵に描いた餅」だということは、彼らには最初から分かっているので。そこで「絵に描いた餅ではないか、実効性がないじゃないか」と追及しても、相手は「実効性を担保していきます、これからしっかりした計画を作るよう頑張ります」と答えるだけです。そんな議論をこの10年間エンドレスにやってきたわけです。

――思うつぼなんですね。

尾松 実際避難計画で一番恐ろしいのは、もしかしたら「ここで渋滞を起こすような計画がある」ということよりも、不可能と知りながら、突っ込まれないように、秘密会議で辻褄を合わせていくような文化が広域自治体まで拡大しているということです。職員一人ひとりはエネルギー政策の考え方がいろいろかもしれないけれど、自分が追及されないよう、原発を再稼働したい人たちに有利になる方向に誘導されていく。こんな恐ろしいことを警告したのが日野さんの調査報道だと思うんですよ。

アジェンダ・セッティング(議題設定)を誘導されてしまうというのは、廃炉の問題でも見られます。「福島第一原発が40年で廃炉できるわけない、あれはフィクションだ」という批判は、もう何年も前から言われています。問題はそもそも「廃炉とは何か」ということを東電も政府も定義しないまま来ていることです。スリーマイルやチェルノブイリでは、「廃炉の完了とはこういう状態です、これを達成するのは事業者の義務である」ということを法的に定義していて、「何年かかるか分からないけど、そこまで達成しなければならない」という制度になっています。日本は「廃炉とは何なのか、ここまでしたら廃炉達成です」という法規定がない。だからいろんな技術者が出てきて、「東電が40年で廃炉とか言っているけど、そんなの技術的に無理だ」って言っても、東電も政府も痛くもかゆくもない。そんなのできっこないって自分たちで分かっているし、「ここまでやります」と一言も法的には約束してないんですから。

事業者と「共犯者」にならざるを得ない規制の本質

尾松 ウソを暴くというところに結局、アジェンダ・セッティングの問題があります。やっぱり加害者とか推進者の土俵に乗っていくら闘っても、被害者や反対者側が最初から負け戦になっていくというのが見えています。日野さんの調査報道が今までの議論に風穴を開けた部分があるなと思うのは、再稼働を巡る規制委員会の問題でも言えます。原発再稼働に反対する側は「規制委員会は世界一厳しい安全審査とか言っているけど、本当は厳しくないんじゃないか、もっと厳しい安全規制をしてほしい」と主張するわけですが、それは規制委員会の側からすると、痛くもかゆくもない想定問答なんです。「我々はフクシマの事故の教訓に立って中立公正な規制をやっております」って答えるだけです。

日野さんが調査報道で明らかにしたことは、「安全審査で一度合格を出して再稼働を認めてしまうと、訴訟で誤りを指摘されたくないため、規制委員会が原発事業者と同じモチベーションを共有する利害関係者になってしまう」という根本的な構造です。

せっかく経済産業省から切り離して「規制の虜」ではなくなったはずなのに、結局は訴訟を起こされたくないから、自分たちの誤りを指摘されかねない都合の悪い情報を隠す方向に向かってしまう。結局、原発推進側と規制側が「訴訟の材料になりそうな情報は隠しましょう」というモチベーションで一致してしまっている。

今まで誰もその論点では追及していなかったんです。そのアジェンダ・セッティングの見直しというものが、今までの再稼働批判ものと違うエポック・メーキングなものだというのは分かってもらえると思います。

今までのアジェンダ・セッティングに慣れちゃっている人たちというのは、「やっぱり規制委って情報を隠していたじゃないか、悪いやつだよね、だから再稼働反対だね」というところで満足しちゃう気がするんです。そういうふうに読まれてしまうと、この本はもったいない。ただ、アジェンダ・セッティングをやり直そうというモチベーションはお互いにありながら、我々もうまくいってない部分もあります。

日野 そうですね。

尾松 国民の問題意識に届けられていない。だって、「原発事故が起こった、甲状腺がんが増えたね、鼻血が出たね、もう危ないよね、だから原発はダメです。放射線は危ないよね、病気になるよね、だから避難します、だから、避難の権利です、補償してください」というほうが分かりやすいです。「民主主義をむしばむ情報隠ぺいの仕組み」とか言うよりも。

日野 甲状腺がんの問題に関して言えば、甲状腺がんと被曝の因果関係が分からない検査の仕組みにしていることのほうが問題です。比較ができない検査スキームになっている。でも、「甲状腺がんが増えただろう、だから因果関係を認めろ」という論法だけになってしまう。

ちょっと話がずれちゃいましたが、規制委員会に関して言うと、去年、反原発団体から依頼されて講演をしたことがあったのですが、質疑応答のときに、参加者の女性から、「関電って本当に悪い会社ですよね。日野さんもそう思いませんか」って言われてガク然としました。関電が悪いとか、規制委と癒着しているという話をしたわけではないんですよと。そうじゃなくて、安全審査を通したら、訴訟で規制委も責任を問われるから、利害が一致せざるを得ないという話をしたんですが……。

突き詰めて言えば、原発は二度と事故、失敗が許されないわけです。過酷事故が起きたら壊滅的な被害になるのをフクシマで経験している。「もう二度と起こしません」という前提の下でしか成り立たない。でも、それは普通の産業ではあり得ないことなので、どうしても無理なフィクションが生じてくる。だから、「安全審査はしっかりします」と言いますが、合格者ゼロではテストにはならない。「合格する前提のテストだ」ということを分かったほうがいいと思うんです。

極端なことを言えば、原発を再稼働しないならこのテストは必要なくなる。このことに気づいたのは、6、7年ほど前、規制委員会設置法をつくった官僚から「日野さん、事故が起きてすぐに規制委員会をつくるというのはどういうことか分かりますか。この国は原発をやめるつもりはないということなんですよ」と言われたからです。そりゃそうだと思いましたよ。新規制基準もいくら「厳しく作りました」って言っても再稼働のためのものなんですから。まさかその後、自分がその言葉を道標にして規制委員会の本質に迫る報道をするとは思いませんでした。

――自動車運転免許だったら落とす側は困らないんだけど、規制委員会がずっと、ダメダメ、不合格と言ったら、政府から怒られますよね。

日野 そうなると存在意義がなくなってしまいます。「おまえら再稼働のためにあるんだろうが」と言う人が必ず出てくる。国民が望まない再稼働の責任をロンダリング(浄化)している構図と言えるでしょう。原発に関しては、「技術的、専門的なことで判断している」ということが国の逃げ道なわけですね。規制委がそれを担っています。

ところが、この本の第一部で紹介した規制委員会の秘密会議では、技術的なことは何一つ話し合っていない。法的にいかに責任逃れするか、自分たちの権威をいかに損ねないようにするかという小役人的なことばかり話し合っている。それはフクシマの教訓によって生まれ変わったことになっているので、その虚構を守りたいからです。

でも、この本で書いた通り、実際には見落としを連発しているわけです。見落としたことをごまかすために、「新知見ということにするから、運転は止めませんよ」と先に言ってしまう。電力会社も運転を止められないなら特に不利益にならない。でも、そこで「基準を満たさない原発はまず運転を止める」というフクシマの教訓がまた一つ骨抜きになります。「技術的・専門的に判断する」というのはただの建前、責任逃れに過ぎません。原発行政の救いようのない無責任が改めて分かった気がしました。

構成協力=稲垣收 撮影=加藤栄

原発再稼働 葬られた過酷事故の教訓

日野行介

2022年8月17日発売

990円(税込)

新書判/288ページ

ISBN:

978-4-08-721228-0

電力不足キャンペーンでなし崩し的に原発再稼働支持が広がる現状に異議あり!
―政治家・役人を徹底的な調査報道で追及する!―
悲劇に学ばない日本の現実

◆内容紹介◆
2011年3月、福島第一原発事故で日本の原発は終焉を迎えたかに見えた。
大津波の襲来という知見が事前にあったにも関わらず、規制当局は運転継続を黙認して過酷事故につながった。
安全神話に依存していたため防災体制はないに等しく、住民避難は混乱を極めた。
そして国内の原発はすべて停止し、「原子力ムラ」は沈黙した。国民は学んだはずだった。
だが、「懺悔の時間」はあっという間に終わった。
あれから10年以上が経ち、ハリボテの安全規制と避難計画を看板に進む原発再稼働の実態を、丹念な調査報道で告発する。
著者の政治家、役人に対する鬼気迫る追及は必読。

廃炉とは何か もう一つの核廃絶に向けて

尾松亮

2022/8/11

682円(税込)

単行本 ‏ : ‎ 80ページ

ISBN:

978-4002710662

福島原発事故から10年余り、政府・東電は「四〇年廃炉」に向け着実に進行中と言うが、そもそも事故炉の廃炉とは何をすることで、一体それは可能なのか。スリーマイルやチェルノブイリの例も参照しながら論点を提示する。あわせて、大量廃炉時代に突入した今、老朽原発を含めた原発廃炉のもつ人類史的重要性を指摘する。

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