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あややは飯田圭織が名付け親、辻ちゃんの教育係も担当…ハロプロの先輩後輩秘話

集英社オンライン / 2022年9月17日 17時1分

国民的アイドルグループ『モーニング娘。』のオリジナルメンバーであり、7年4カ月という長い年月を、アイドル活動に捧げてきた飯田圭織。現在は、育児を中心としながら活動を続け、インスタグラムでは料理の腕も披露している。8月8日に41歳の誕生日を迎えたモーニング娘。OG2代目リーダー、飯田圭織に、メンバーの加入・卒業にまつわる悲喜こもごもについて語ってもらった。

――飯田さんはオリジナルメンバーの中では一番、在籍期間が長かったですが、メンバーの加入や卒業をどのように感じていましたか?

私がそれまで好きだったアイドルグループって、メンバーの加入もないし、卒業もなかったんです。だからモーニング娘。も最初はオリジナルメンバーの5人で固定だと思っていました。そうしたらメジャーデビューの2作目(『サマーナイトタウン』1998年5月28日発売)から新メンバーが、加入することになって戸惑いましたね。このグループは、どういうグループを目指しているのだろうって最初は疑問でした。



――今ではメンバーの脱退や卒業は当たり前ですが、その中でも特にモーニング娘。は新陳代謝の激しいグループでしたよね。

最初の頃は特に、メンバーの入れ替わりが激しかったので、自分の中でどういうグループ像なのか全く定着しなかったんです。なんだか毎日、ディズニーランドのアトラクションに乗っているみたいな気持ちでした(笑)。ここは、『スプラッシュマウンテン』ですか、みたいな(笑)。

――お聞きしていると、非常に賑やかな雰囲気は伝わってきました。グループの雰囲気が変わることに関して、どのように気持ちを切り替えていましたか?

当初は同じメンバーで、パフォーマンスを高めていくのが理想ではないのかなって感じていました。でも次第にいい意味でメンバーの入れ替わりにも慣れていきましたね。“また中学生のメンバーが加入するんだ”とか、“ダンスのフォーメーションが変わるんだ”ってどこか客観的な目線で見ている部分もあったのかもしれません。確かに、新しいメンバーが加入するとそれまでのメンバーにとって負担もあるけれども、世の中の反応がどんどん大きくなっていくのも実感していました。

二万人を超える応募があったオーディション。辻󠄀ちゃんの教育係に

――『モーニング娘。第3回追加オーディション』(2000年開催)や、『モーニング娘。LOVEオーディション21』(2001年開催)では2万人を超える応募がありました。そのような大規模なオーディションが行われていたことに対して、何を感じていましたか?

アイドルになりたいというよりも、“モーニング娘。になりたい”と言ってくれる子たちがどんどん増えていったような気がします。少し前に、AKB48のメンバーの方とお仕事をさせてもらったのですが、なかには“モーニング娘。のオーディションを受けた”と言ってくださる方もいて…。私達が新しいアイドル像の流れを作るきっかけになれていたとしたら光栄ですね。でもモーニング娘。として活動していた時期はそういう風には思えず、悩みや迷いも多かったです。

――飯田さんは、4期メンバーが加入した際(2000年4月16日加入)に、辻󠄀希美さんの教育係をされていました。当時はモーニング娘。本体以外の活動も多かったので、色々と負担もあったと思いますが…。

そうですね。タンポポ以外にもユニット(2000年からモーニング娘。に松浦亜弥などのメンバーを加え、グループを再編したユニット活動を行っていた)もやっているし、ミュージカル(2001年5月『LOVEセンチュリー ~夢はみなけりゃ始まらない~』)にも出演していたし、あらゆることをやりましたよね(笑)。

教育係も辻󠄀ちゃんだし(笑)。辻󠄀ちゃんは、やっぱりやんちゃだったんですよ。加入当初はまだ中1で、もう本当に子どもって感じでした。私に会っても、“あ、かおりんだ。じゃんけんしよう! ”というところから始まるので、“違うよ。おはようございますって挨拶するんだよ”っていう指導からスタート(笑)。私、グループのリーダーになる前ぐらいから、自分はアイドルグループの一員じゃなく、幼稚園の先生みたいって思っていました(笑)。

――2001年に初代リーダーの中澤裕子さんが卒業されてからは、19歳で二代目リーダーに就任されています。グループのなかでの立ち位置は、指導役?

ステージ前って、できるだけ完璧なパフォーマンスを行うために、神経を集中するじゃないですか。だけど、出演前から楽屋のメンバーが賑やかなので、“ほかの出演者の方たちに迷惑を掛けないように見張ってなきゃっ! “って。そっちの方に神経を使っていました(笑)。

江國香織さんの小説で疑似恋愛

――当時、メンバーの一人が、「かおりんが楽屋で難しそうな本を読んでいた」というエピソードを話していたことがあって、その時に江國香織さんの作品を読まれていたというのをなにかで聞いた気がするのですが…。

江國さん、好きでした! 大勢のメンバーがいるアイドルグループにいたけれど、やっぱり普段は自分のペースを大事にしたいタイプだったんです

――飯田さんは、本番前の時間をどのように過ごされていましたか?

私は本番を迎えるにあたって、神経を集中させたいと思っていました。だから好きな音楽を聞きながら、ちょっと小説を読んで心を落ち着かせてないとダメなタイプでしたね。賑やかなメンバーとは正反対というか。ずっと小説を読んでいましたね。

――そんな状況で本を読めるのは、集中力があると思います。

いや~。あれは慣れでしたね。江國さんの本を読んでいたのも、アイドルは恋愛禁止と言われている時代に、感情を込めて恋愛の歌を歌う為だったんですよ。小説を読むことで、疑似恋愛みたいな気分を味わってみたり。実際に恋愛ができなかったので、恋愛をしている小説を読んで、どんな気持ちなんだろうって考えたりしていたんです。当時はそんなことをしていましたね。

あややの名付け親!

――飯田さんは松浦亜弥さんの愛称である「あやや」の名づけ親でもありますが、どのようにしてアイディアが浮かんでくるのですか。

すごくダジャレが好きでよく閃くんです(笑)。根が天然なところがあるのでつい出ちゃうんですよね(笑)。当時は周りから”ツッコまれてもいいや“と思っていたので、怖いもの知らずで何でもポンポン言っていましたね。そうしたら意外と周りからウケが良くて(笑)。

――でもいまや『あやや』も大勢の方に親しまれているアイコン的な愛称ですよね。

当時はこんなに世間に定着する呼び名になるとは全く思ってもみなかったですね。多分、あややの名づけのシーンも、番組(注:『MUSIX!』テレビ東京)ではオンエアもしていないんじゃないですかね…。あややという呼び方が世間に広まってから、“実は名づけは飯田だったんです”みたいな感じで後日放送されたと記憶しています。

――モーニング娘。以外にも、『ハロー! プロジェクト』にはBerryz工房など若手グループも誕生しました。新グループが出てきた時はどういう気持ちでしたか?

グループ編成が変わることなどにも耐性もついていたので、新しいグループがデビューした時も、みんな頑張ってほしいと思っていました。どんどん『ハロー! プロジェクト』も大所帯になって、活動の枠が広がっていきましたね。

――『ハロコン』と呼ばれる、ハロプロ所属のグループが揃うコンサートは、通常夏と冬と年二回開催されています。2002年の冬公演(『Hello! Project 2002 〜今年もすごいぞ!〜は、7都市28公演という大規模な数のコンサートをされています。一日に3回公演もある日もあったそうですが…。

最初は2組しか出ていなかったハロコンが、どんどんグループも増えて公演数も増えていって、かなりハードになっていきました。特に年末年始が凄まじくて、テレビ局をハシゴしていました。

――過密スケジュール?

当時は『レコード大賞』も大みそかに放送されていたので、レコード大賞の会場に行って、ロケバスで次の衣装に着替えて、『紅白歌合戦』のステージに移動して…みたいな。でも『COUNT DOWN TV』もあるぞみたいな(笑)。

――体調は崩されたりしなかったのでしょうか。

振り返ると、よくできていたなと思いますね。夏の野外コンサートではメンバーが熱中症で、ステージ上で倒れてしまったこともありましたね。私も体調不良の時がありましたが、ファンの方が時間を作って観に来てくださるので絶対にステージに穴を開けるわけにはいかないと思っていました。1公演目と2公演目の合間に点滴を打ってもらったこともありました。
でも点滴も全部打っていると間に合わないので、途中で止めて“もう、出なきゃならないので! “と言ってそのままステージに出たこともありましたね。今はもう、そういう体調を無視して活動する時代ではないので、現役メンバーには心身ともに健康を保ちつつ活動してもらいたいです。





取材・文/池守りぜね 撮影/小谷信介

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